第38話 楽しかった
初めてのお出かけということもあり、初回はあまり長く滞在しないようにと決まっていました。
興奮しすぎても疲れてしまうそうなのですが、人は楽しすぎると疲労を忘れてしまうことがあるのだそうです。
なので、今日は暗くなる前に馬車へと戻りました。
「どうだった?」
「とっても楽しかったです!」
初めてのことだらけで、戸惑いもありましたが。それ以上に、本当に楽しくて。
こんなに楽しいと思ったのは、人生で初めてかもしれません。
「それならよかった。今日はまだ、広場しか回れなかったから。どうなんだろうって、ちょっと心配だったんだ」
広場、しか?
つまり街には、広場以外にも見て回る場所があるということですか?
「次回は、さらに別のところにも行きたいね」
「ぜひ!」
あの場所でも、私のとっては未知のことばかりで。少しだけ世界が広がったと思っていたのに。
実は、まだまだ全然世界は広かったようです!
「今度はどうしようか? 今日は立ったままだったけど、次回は座れる場所で甘いものでも食べる?」
「そんな場所があるのですか!?」
本当に、知らないことだらけです。
これでまだ、あの街一つだけのことなのですから。本当に、今までの私の世界は狭すぎたのだと、改めて実感しますね。
「甘いもの、好きだよね?」
「はい、好きです」
頷いて肯定できるくらい、私はようやく甘い食べ物を普通に認識できるようになりました。
以前は分からないと、答えていましたから。これでも進歩したと、自分では思っているのですが。どうでしょうか?
「だと思った。君は甘いものを口にすると、幸せそうに笑っているから」
「そう、なのですか?」
自分では、全く意識していませんでしたが。マニエス様がそうおっしゃるのなら、そうなのでしょう。
なんだか私よりも私のことを理解されている気がして、少しだけ恥ずかしくなりますが。同時に嬉しいと思ってしまうのは、それだけマニエス様が私を気にかけてくださっているから。
そんな経験も初めてで。また一つ、私の世界は広がっていくのです。
「クッキーを食べた時も、マカロンを食べた時も。あとほら、誕生日のケーキを食べた時もね。とっても、幸せそうだったよ」
優しくあたたかいその瞳は、今は青色ですけれど。その下にある金の瞳と、視線の柔らかさは同じでした。
「どれも全て美味しいので。きっと私にとっては、幸せの味なんです」
「幸せの味、か。いいね、それ」
実際、あたたかいお部屋で美味しいものを皆様と一緒にいただけるのは、これ以上ない幸せだと思うのです。
だからこそ、私にとっては甘いものだけでなく、あの場でいただく全ての食べ物が幸せの味。その中でも、特に甘いものが好きという、ただそれだけ。
けれど同時に、それはとても贅沢なことなのでしょう。
「じゃあ次は、外でも幸せの味を体験してもらおうかな。きっと気に入ると思うよ」
「楽しみです!」
毎日そんな贅沢を楽しめる私は、幸せ者です。
「約束だよ、ミルティア」
「はい」
こんな風に、次の予定が決まっていくのも。
美味しいご飯を、優しい方たちと毎日食べられるのも。
当たり前ではないのだと、幸せなのだと。忘れずに日々、過ごしていきたいですね。
「……あ」
「?」
なんてことを考えていたら、唐突にマニエス様が何かに気付いたように一言口にされて。
そうして急に、焦ったように言葉を並べ始めました。
「いや、その、ごめんっ。今日の流れで、つい……」
「どうか、されましたか?」
「いやだって、その……名前、を」
「名前、ですか?」
心配になって問いかけた私に返ってきたのは、名前という言葉。
何のことなのか分からず、思わずそう聞き返してしまいました。
すると。
「その、君の名前を……その……。つい、呼び捨てにしてしまったから……」
そんなことを、マニエス様がおっしゃるではありませんか!
名前なんて、呼んでいただけるだけでありがたいのに!
「構いません。そのほうがマニエス様が口にしやすいようでしたら、次からは呼び捨てでも私は気にしませんよ?」
名前を呼ばれること自体、スコターディ男爵家ではありませんでしたから。
それに……。
(マニエス様には、私の名前を呼んで欲しいのです)
なぜそう思うのかは、分かりませんが。
「いい、の?」
「もちろんです!」
意外そうに問いかけていらっしゃいますが、婚約予定の男性にいつまでも「ミルティア嬢」と呼ばれるのもおかしな話だと思いますし。
「……それじゃあ、遠慮なく」
「はい!」
少しだけ恥ずかしそうに、けれど嬉しそうなマニエス様は。馬車の中で改めて姿勢を正して、小さく咳ばらいをしてから。
「これからもよろしくね、ミルティア」
そう言って、私のほうへと手を差し出されました。
なので、それに応えるように。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。マニエス様」
私はそっと、その手に自分の手を重ねたのです。
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