第30話 恥じない私で

「街歩き……」


 あの日から時折、一人になった時にふとマニエス様の言葉を思い出して。


「ふふ」


 誰にも見られていないのをいいことに、一人そっと笑みをこぼすこと……。数回では数えきれないほど、たくさん。

 そのくらい私にとっては、未知の領域であり。楽しみの一つでもありました。

 毎日のお食事も、お風呂も、お部屋も。全てが今もまだ豪華で、私にはもったいないような気がしてしまいますが。


 それでも一つだけ、決めたことがあります。


「世界を、知って。マニエス様のお隣に」


 恥じない私で、ちゃんと真っ直ぐに立っていられるように。

 スコターディ男爵邸にいた頃の私は、自室とそこから見える外の景色しか知りませんでした。

 今の私は、それよりは世界が広がったとはいえ。結局は、ソフォクレス伯爵邸の中しか知らないままなのです。

 本当の意味での外の世界を、きっと私はまだ何も知らないのでしょう。


「貴族ではない、人々」


 マニエス様は、そうおっしゃっていましたけれど。一体、どんな方たちなのでしょう?


「広場に、屋台」


 名前は知っていて、知識も持っていますが。実際にこの目で見たことはないそれらは、一体どんな場所なのでしょう?


「楽しみです……!」


 何も知らないからこそ、知っていく楽しみを得ることができる。そのことを私は今、初めて知ったのです。

 マニエス様が見てきた世界。澄んだ金の瞳を、あれほどまでに輝かせながら語る世界。

 それは、どんなに素敵な場所なのでしょうか……!


「……いけません。自室だとつい、気が緩んでしまいます」


 こんな豪華なお部屋を、自室だと思えるようになったのは。本当に、つい最近のことです。

 それまでは、どうしても落ち着かない気分になっていたのですが。このお屋敷で誕生日を迎えたあの日から、不思議とここが自室だと感じられるようになって。

 だからこそ逆に、独り言が増えたような気もしますが。


「そういえば」


 マニエス様があの後、伯爵様に外出の許可をいただきに行ってくださったようで。翌日の夕食時に、そのことについて少しお話を伺ったのですよね。

 何でもマニエス様が女性を連れて外出されるのは初めてだから、少し多めに護衛を付けることで同意したとか?

 その言葉に、マニエス様はまた真っ赤になって、伯爵様に言わないでくださいと反論していらっしゃいましたが。なぜだか少しだけ、微笑ましく見えてしまいました。

 伯爵様が、明らかにマニエス様をからかっていらっしゃるのが分かったから、なのかもしれません。


「ただ……」


 お義母様だけが、少しだけ心配そうに私を見ていたような気がして。

 それだけが、気がかりではあります。


「最初の頃は、あれだけ痩せ細っていましたし」


 もしかしたら街を歩く体力がないのかもしれないと、お義母様は心配してくださっていたのかもしれませんね。

 最近はあたたかくなってきたので、お庭を定期的に歩くようにさせていただいておりますし。ソフォクレス伯爵邸を一周できるくらいには、体力は付いてきたと思っているのですが。

 考えてみれば、お義母様はそれをご存じないのかもしれません。

 伯爵様は、侍女の皆さんから報告を受けているはずなので。私のその行動も、ご存じなのかもしれませんが。


「それでも、無理をしない程度にというのは、心がけておくべきですよね」


 お義母様の不安を払拭するためにも、当日マニエス様にご迷惑をおかけしないためにも。


 とりあえず、明日からお天気のいい日は必ず、お庭を散策するようにしましょう。

 少しでも散策中の距離を伸ばせるようになれば、きっとお義母様も安心してくださるでしょうから。

 それとお義母様に、事前にそのことをお話ししておくことも忘れないようにしましょう!





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