第3話 花曇り

 ―――声が聞こえる。


 暗闇に覆われた視界に温もりの含んだ光が差し込んでくる。

 途切れ合間に届く声音の正体を知ろうとして、未だに慣れない光に何度か瞬きを繰り返して、ようやく意識がハッキリしたところで、目の前にいたのは同じクラスメイトの少女だった。


「おはよう、式守くん」


 彼女は新の様子を伺おうと身体を傾け、整った容姿が覗き込んで近付く。

 仕草の度に灰色掛かった黒髪のロングヘアーが靡いて光沢が一層と広がる。左の横髪には黒色のリボンの髪飾りを身に付けており、チャームポイントになっているらしい。


「……あれ、どうしたのかな?」


 きっと、穢れの知らない、純情の瞳がこちらを見つめている。

 快晴のように清々しくて、水面に広がる波紋のように透き通っていて、それでも強い希望を抱いているような、表裏のない性格。

 悪戯に吹いて教室に吸い込まれる桜吹雪を背後に、穏やかな日差しを重ねる彼女の微笑んだ姿は、紛れもなく別世界の人間なのだと、新は改めて気付いた。


 似ている。あの頃と同じだ。

 過去の彼方に手放した純真無垢の栄光を。

 色褪せる為に。極彩色に塗り替えようとキャンパスを捨ててしまった。


 それなのに、彼女は大事そうに光を見据えている。


 迂闊だった。

 部外者分際の新がクラスの華である彼女に遭遇するなんて。

 正真正銘の優等生。対極の存在。人格者であり人気者の彼女は悪評について一切聞いたことがない。それに比べて他者に無頓着な新には不相応な世界だろう。

 オマケに同中のいない高校生活。孤立するには当然の結果だった。


 所詮は隣人。一生関わる機会のない相手だろうと、決め込んでいたのに。

 何故。余計なタイミングを選ぶのか。目の前にある本質を理解しようとする彼女の奔放的な衝動性は気紛れじゃない。無尽蔵の探究心が彼女の原動力だとすれば、真意の赴くがままに、天真爛漫の活発さは関わる人達の勇気に変わり、陰りのある隣人さえも引き付けてしまう。


 不意に教室のカーテンが乱暴に揺れる。

 風向きが変わり、一片の桜の花弁は新の無防備な髪に止まる。

 振り払う意識が薄れて、それ以前に花弁が髪に止まっている感覚を忘れて、彼女の愚直で綺麗な瞳に貴重な時間が奪われていく。


 絵空事ではなく、絵に描いたような美少女、それが雨宮千愛だった。


「……」


 一時の感情が彼女の方に傾く。ただし、あくまで好意ではなく羨望と似た諦観。

 抱えていた余熱が突然と冷めていく。日差しが花曇りに隠れるとき、微睡みの目が覚める。無関心の呈色は濃くなり、鋭利な目付きに変わる。


 皮肉にも本心に救われるなんて、心底億劫になる新は狸寝入りをした。


 これは悪夢なんだと、光の微熱を拒絶するように。

 何も見なかったことにしよう。


「……寝た! しかも二度寝した!」


 無視されて、当然のリアクションを取る彼女。


 偶然の仕草を装い、相手との距離を置こうとする新の魂胆。完膚無きまでに本音を吐露するつもりのない新はクラスメイトだろうが余裕で嘘の自分を演じる。良心が痛むことはない。心を鬼にしないと、自分自身を守れないからだ。


 制服の袖に顔を伏す。次の授業が始まる前に苦渋の表情を隠す。

 強い拒絶と棘の含んだ態度を明白にすれば、勝手に興味は風化するだろう。断片的な情報を誰かと共有する意味がない。


 感傷の含まない嘘は綺麗事の延長線。理解を忌避する為にある手段だ。


 慣れたように、視界は再び暗闇に覆われる。

 保身と似た現実逃避を続ける新は頑なに口を噤む。秒数を計り、雑音を遮断して当たり前の日常を過ごす。


「……起きてくれないと、君の顔がよく見えないんだけどな」


 彼女が新の横髪を優しく触れるまでは。

 途端に意識が散漫になる。調子が狂うというか。その前に新は一片の花弁が自身の髪に止まっていたことに気付く。謎の醜態に思わず怪訝そうになる。


 脈絡はないハズだ。なのに相手は名字を覚えている。


 身内の人間が親身なった話は訊いてないので、彼女の異質な興味の匙加減に驚くばかり。声音を辿ると彼女は窓側に居座っているようで、楽しそうに微笑んでいるイメージが容易に浮かぶ。


(……馬鹿にしてるのか。コイツ)


 沸騰した感情を抑え込み、ため息を吐いた。

 気分は最悪で陰鬱な一日を過ごすのかと思うと身震いがする。

 私語を慎み、空気を読む高校生活。狸寝入りの状態で話し掛けてきたのは彼女が初めてかもしれない。


 けれど所詮は一時の興味。新は無視して姿勢を変えようとするが、


「あはは、やった。こっちに向くと思ってたんだ」

「……」


 首を傾げる仕草と共に。雨宮千愛は満足そうに微笑んだ。

 いつの間にか彼女は反対側に移動しており、不意の出来事に狼狽する新を余所に、様子を伺うようにそっと見つめていた。そして微笑の理由には、新の頬に指でツンツンと楽しげに触り、年相応の無邪気さが日常を意地悪させる。


 当然、一層と曇天色に染まる新は嫌気が差す。


 正直迷惑だった。

 無関心に紛れて、一人だけの時間を過ごそうと思っていたハズなのに。

 教室の雑音が今鬱陶しく感じる。不変の雰囲気を避けて、一匹狼を演じていた新にとって彼女の存在は厄災でしかない。


 面倒事が増える前に。


 見繕うだけの乏しい現状を打開する為に、新は痺れを切らし冷淡な態度で彼女の腕を振り払う。狸寝入りをしている以上離席することは出来ない。


 最初、千愛はビックリしたものの颯爽と微笑に変わる。

 自信に溢れた様子で「懐かないネコみたいだね」と朗らかに顔色を伺うが、一貫に無言の新は聞こえていないフリを続ける。


 そもそもの話、彼女自体に交流する利点がない。

 大概は罰ゲームといった当て付けか。その対象に新が含まれて、格好の餌食には適宜な人間だと。あまり釈然としないが許容できる範囲だ。しかし明確的な根拠が出ない限り、憶測の領域に過ぎない。


 むしろ彼女の性格が憶測を否定させる。故に謎が深まるばかり。

 ミステリアスな一面を含み、屈託のない笑顔はみんなの荒んだ心身を和ませて、異性を勘違いさせるスキンシップと程良い距離感。

 好意的なアプローチでもなければ、旧友のような信頼関係でもない。


 つまりだ。彼女が関わる理由を挙げるには。


「俺はペットか」

「あ、話してくれた。もう、式守くん遅いよ。こう見えて退屈だったんだよ?」


(いや、どう見ても油を売っている方だろ……)


 相容れない温度差には不和が生じるもの。

 異端者側の新と人格者側の千愛。水と油と類似した関係性。安直な探究心のせいで新の高校生活は日常を引き換えに厄災を被ることに。


 千差万別の奇跡を起こす少女、雨宮千愛はクスッと微笑んだ。


 ほんの少しだけ、彼女の素振りが柔らかい。警戒を緩めているのだろうか。

 それでも新の姿勢は不動を貫き、些細な親切を拒んだ。他人行儀でスマホの画面を見て、気怠げに苛立ち時間を潰す。

 千愛は無理に干渉してこない。新の反応を楽しんでいるみたいな。


 平行線の距離感。届かない言葉並び。

 興味津々と目を輝かせて、スマホの画面を覗こうとする彼女。対して面倒だった新はじとっとした目付きで睨む。


 何の意味もない暈しが、クラスメイトの視線は好奇の意を焚き付ける。予想外の巡り合わせに教室の空気はざわつき、中には視線を泳ぐ者もいる。埒が明かないと警戒していたつもりが最悪な展開になってしまい、新は背後に刺す眼差しに気付きながらも風評を受け流す。度胸があるのか、無策というべきか。


 だが、もうすぐ授業が始まる。学校の予鈴が鳴る。

 嘆息が安堵に変わる前に。走ったのは戦慄と似た心胆を脅かすものだった。


「千愛」


 教室の雰囲気を穏やかにする、清涼の含んだ声音が支配する。

 彼はクラスメイト。共に時間を共有する同胞であり、記憶を辿れば、入学式の頃に会話した程度の面識。握手を求めてきた。


 そんな彼の本性はスクールカーストの頂点に君臨する別世界の人間。

 雨宮千愛と同じ、後藤静馬は光を見据えていた。


「多分聴こえてないと思うよ。イヤホンしているし、迷惑になるから離れようか」

「静馬くん!」


 声に気付き、千愛の笑顔が弾ける。

 お互いの名前を呼び合う程の仲の良さと何も飾らない距離感。

 信頼しているからこそ二人の関係が綺麗に映る。足早に静馬の側に近寄る彼女は振り返ることもなく、何事も無かったかのようにクラスの中心に戻る。

 都合が良いことに教室のチャイムが鳴り響き、扉を手を伸ばす教師の姿を見て、一斉にクラスメイトは自分の席に戻って授業の準備を始めた。


「……」


 果たして、その助け船は誰に向けた意味だったのか。

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今日の嘘と砂糖菓子 藤村時雨 @huuren

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