第2話 black coffee
「……ほう、珍しいことが起きるものだな。昼休みの時間、お前が教室に居座るなんて。これは天変地異の前触れのか?」
時間は昼休み。
競争の激しい学食を巡り、奮闘する学生も居れば、教室で持参した弁当で仲の良いクラスメイトと食事をしたり。学生証があれば外食の許可が下りて、基本的には制限のある余暇を設けているが、例外になる人間が少なくとも一人はいた。
「……マジか。俺は災害扱いかよ。希少種の何かと思っているんですか、振沢先生は」
不機嫌そうにする新を余所に、化学担当の教師は缶コーヒーを一服するだけ。
振沢透。白髪混じりの40代男性。
見るに衛生管理が杜撰な少々の無精髭と睡眠不足の隅取。亀裂の入ったメガネの奥に死んだ魚みたいに濁った目。教師らしく白衣を着込んではいるが、態度は基本舐め腐っており、学校関係者の評判はあまり誉められたものではないらしい。
しかしアンニュイな雰囲気とイケオジ容貌、不品行な一面が女子に受けていて、実際の評判は相反して校内の人気者という。
オマケに理想的な担任教師であるとクラスメイト達のお墨付き。正直新はその価値観に到底理解出来そうにないが、振沢先生は信頼できる人間側だったりする。
「ある意味希少種だろ。お前の場合。神出鬼行の問題児。徘徊系ポケモンのようだな」
「なんだその例え方……」
「式守。3分野の基礎について、お前は押さえているか」
「はあ、……確か、理論化学と有機化学、そして無機化学の三種のハズ」
答えると、振沢先生は亀裂の入ったメガネを上げる仕草をする。
「そうだ。理論化学を学ぶ上で欠かせない基本だ。試験問題の対策を講じなければ知識の習得に出遅れてしまう。つまり、ポケモン図鑑を完成させる以上、三犬を捕獲するには相当の準備をする必要があるということだ」
「なんか、世代がバレそうなポケモントレーナーだな……」
「拡大成長期と呼んでくれ」
知らねーよ、と新は気怠げに無視してスマホの画面を覗く。
相変わらずSNSのリアルタイムを確認。もはや日課になってしまった悪循環の習慣に咎める者はいない。
振り向きもせず、教室の黒板と虚空に睨んで。
背後にある世界が温かくて明るくても、眩しすぎる景色に直視出来ない。目撃することも許されないというか、クラスの輪に入る資格も当然ないのだろう。
だけど、懐かしさだけはある。
教室を眺めていた振沢先生は何かに気付いたようで、
「……そういえば、お前イヤホンしてないな。近頃ワイヤレスの時代というのに」
「よくある気分転換ですよ。それに、授業中に付ける奴はいないし」
「居眠りを決め込んだ冨部のバカはいたけどな。……全く、不器用な奴だ。打算的な居眠りをしろと忠告したんだが、せめて現代文にしとけ」
「その前にアンタ教師じゃん……」
生徒を教え導く教師にあるまじき発言。許容出来ず流石に新は不快感を覚える。
一方で振沢先生は顧慮せず、濁った目を隠そうとしない。
「大半の人間は不器用だ。要領も悪く、無駄な失敗を重ねていく。蓄積した鬱憤の矛先を弱者に向ける。泰然としてはいるが、本当は自分自身が弱者だと知らずにな」
「だからって、教師が怠ることを助長するか? ……正直、理解できない価値観だ」
首を振り、スマホの画面を消す。
内心の苛立ちが隠せず、振沢先生にハッと鼻で笑われた。
「お前は真面目か? 損をする無駄な性格だな。将来ロクでもないぞ」
「……アンタの指摘の通りだよ」
心底退屈そうに新は外の景色を眺める。相変わらず空は澄んでいて青かった。
「それもそうか。まあ、教師である身分の俺でさえ未熟な分類の方だ。偉そうな親御が過保護過ぎて生徒を叱ることも出来ず、女子生徒と話すだけでセクハラ扱いされる。他人に寄り添う力が欠陥したシビアな現代、生きづらいのは当然だろうな。親身になれねえ大人は、黙って物事を見過ごすしかねえのさ。……本当に喫煙者に宜しくない時代だ。早急に喫煙の義務化を求める」
「最後の方はいらねー願望だ……」
「願望を実現する為には狡猾な生き方をしろ。お前は腹黒さを身に付けろ」
じゃあな、そう言葉を残して振沢先生は教室を出ていく。なんだあの先生は。中身のない缶コーヒーを弄ぶ姿を見届けた新は一人だけの時間を取り戻す。
これで一安心、という訳にもいかず、狭い肩身がさらに狭くなるばかりだった。
「腹黒さ、か」
視線に気付く。誰かに見られている気がする。
雑多の含んだ教室で特に際立つクラスメイトの会話。盗み聞きはしない。
普通に悪趣味過ぎる。そこまで落ちぶれてはいない。雑音を遮る為にイヤホンで耳を塞いだとしても、休憩時間で起きた出来事みたいにイレギュラーが生じるだけだ。
出来る限り今日は大人しく過ごそうか。
教室の外を眺めるのもヨシ。スマホの画面を覗いて暇を潰すのもヨシ。
その代わりに、狸寝入りだけはなるべく控えることにした。
(……微糖好きには苦い世界だな)
机に転がる照明を消したスマホの画面と付属付きの有線イヤホン。生き甲斐を見出ずに時間を浪費していく新だったが、クラスメイトである雨宮千愛の奇妙な出会いによって、退屈のしない災難が続くことを、当の本人はまだ何も知らずにいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます