今日の嘘と砂糖菓子

藤村時雨

第1話 wire puller

 式守新は今日もイヤホンを耳に当てる。

 次の授業が始まる前の小休止。色彩を着飾る教室の賑やかな雑音を遮るために。


 窓側の一番前の特等席に居座る新は気配を消していた。


 机に突っ伏すような姿勢で過ごしており、外の景色を眺めるだけの単純作業的な環境を続けてざっと二週間は経過したのだろうか。その間にクラスメイトとの高校生らしい会話は他人行儀の自己紹介以降全く発生しておらず、現在4月下旬に至る。


 乾燥した空気みたいな日常。

 昼休みが来ると無人の図書室に隠れるような、放課後になるまで繰り返す日々。

 下校時間になれば一目散に教室を出て、影を伸ばす退屈な毎日。


 華の青春とは到底無縁の枯れた高校生活を送っていた。

 穏便に過ごしたいとか、一人だけの時間が好きだとか、別に珍しくもない現代的過ぎる理由で孤独の道を望んだワケではない。


 依然として、式守新という少年は『友達』が出来ていないだけだった。


 というか高校生活失敗していた。


(正直、いや、こうなる未来が見えていたというか……)


 式守新。15歳。高校一年生。

 中学時代はサッカー部に所属。県大会ベスト4を経験。

 選抜選手に呼ばれる程の実力と功績はあったものの現在は帰宅部。聞いた噂話だと強豪高の推薦枠の候補に入っていたらしいとか。


 不愉快だった。


 虚構の栄光はあまりにも無価値で。どうせ黒歴史の花を咲かせるだけだ。

 心の糧に縋る理由が潰えた自慢話は誇張を重ねた与太話に変わる。余計な口言葉は禍の門の始まり。拭うことの出来ない贖罪を背負い続けるように。


 身を滅ぼす嘘は失墜する。些細なキッカケが落胆を作る。


 一体何者になれるのか。自分自身の限界を知る登竜門のハズが、辿り着いた俯瞰景は地獄を模写したものだった。


 幼少期の頃、陰ながら見守ってくれた、名前の知らない大人達に憧れて。

 両親の愛情を受け止めて、瞳の中にある輝きは色褪せず、恵まれた環境で培った好奇心の化物は嬉しい意味で問題児だった。疲労という概念を露知らず、好戦的な態度を取る中学生時代特有の無敵感。薄めた清涼飲料水のペットボトルを片手に、誰もいない炎天下と入道雲の青い夏を背景にゆらゆらと揺れていた陽炎を夢中に追い掛ける。


 楽しい。バカみたいな毎日が続けばいいのに。

 あまりにも非現実的な。超人めいた絵空事のような、一つだけの日常に。


 全てを覆すように、舞台の幕が上がると共に危険信号の牙を剥いていたのは『現実』そのものだった。


 正直者は馬鹿を見る。


『とても格好良かったよ。式守くん!』

『あたしアンタの姿見て感動しちゃった。やるじゃん』

『式守は本当に頑張った。後はゆっくり英気を養えるといいな。次も期待してるよ』

『スゲーな式守! 負けちゃったけど光るものはあったぜ!』

『……ふーん、式守って努力できる人間なんだ』


 非の打ち所のない模範生の肩書き。

 品行方正にして文武両道の特待生と勝手に贔屓評価されて。


 何も疑わず、色相世界の瞳が目撃した、辿り着いた三年間の集大成というものは地獄と類似した何かのような。シナリオをなぞるだけの脚光を浴びた途端、手元に残るのは味のしなくなったガムみたいな、粘着液を含んだ生々しさだけだった。


 理想は真っ二つに別れた。夢は妄想に逃げ込むものだと気付いてしまった。


 不快な拍手。本来は賛辞を送るものなのに。

 言葉を並べるだけの簡単な歓迎劇と耳障りなほどの黄色い歓声。


 同じ表情をした人間が集まる。セロハンテープで固定した笑顔が集まる。仮面の奥に隠す感情の起伏は膿が凝縮したみたいにドロドロに溶けていて、絡み残る本性の醜さは隙間から爛れている状態。このまま黙って感情を飲み干してしまえば、客寄せパンダのように道化師になれば、みんなの期待に応えていたのかもしれない。


 あの羨望の眼差しが未だに忘れられない。

 同じ景色に見えていたとしても、価値観の異存だけは必ずしも共感できなくて。


 人間は常に善を求め、正義を区別する生き物だ。


 そんな不明瞭な匙加減と他者の悍ましさに、新は嫌気が差してしまった。


(……まずは友達を作れ、か)


 理由がないのにスマホの画面をタップして、気怠げにSNSのリアルタイムを見る。信憑性の欠片もないコメントと既存の情報が錯綜している。

 噂半分のネタを当然として嘘を吹聴する民度の悪さ。時間潰しのハズがあまりにも退屈過ぎて新は思わず欠伸をしてしまう。


 所詮は他人の評判は戯言。称賛も特に望んでいない。

 名誉は飾りだ。だからこそ価値の意味を人並みに理解していたつもりだ。


 なのに。



『―――新ってさ、ホントにつまらない人間だよね』



 帯びた熱は冷え、空気が乾き、散り始める秋頃の視界の片隅に。

 式守新の人格像を否定する為だけに、親友だった彼女は密かに佇んでいた。


 対峙する視線、金風に隠れる表情。感動の再会を台無しにして。

 なぜか暴言を吐かれた。親友の本意も分からずのまま、互いに振り返ることもなく、それでも擦れ違う呪いの言葉は記憶の奥に焦げ付いて。隙間を埋める温もりは二度と現れないのだと理解したあの日をキッカケに。脳裏に残る背中姿と靡いた彼女の髪は、新の知らない世界で背伸びをしていた。


『ああ、確かに。問題児だった頃の方が、強くてカッコ良かったかもな』


 反論する気力は無い。

 あるのは無様に笑みを浮かべるだけの優等生。まるで炭酸の抜けたラムネみたいに。

 努力が水の泡になる瞬間、人は初めて挫折を覚える。

 ストレートの正論パンチに言葉は濁す。みんなの道化師になれず、客寄せパンダにもなれない人間は、存在しないのと一緒だ。


(紗英の言葉は否定しない。だけど喉に突っ掛かる蟠りは、お前には絶対に払えない)


 見繕ったような同情。後付けの期待。

 鬱陶しい。理解したつもりの部外者風情が、綺麗事を並べるな。


 どうせ、本性を隠している癖に。



『―――人間は自分自身に嘘を吐いて生きている』

『―――それが出来ない不器用な人間はね、みんなにとって迷惑な存在になるの』

『―――私が言いたいこと、分かるよね』

『―――お願いだからさ、私の目の前から消えてよ』

『―――だって、人間以下の分際で、惨めに生きてて可哀想でしょ?』



 もう一人の親友、水瀬環。厳密に言えば従妹。そんな彼女には彼氏がいるようで。


 相手は羽振りの良さそうな好青年。背丈的に年上。やけに棘の含む言葉が一方的に飛んできたが、それが愛嬌になるほどのイケメン。強豪校のバスケの主将で、次期日本代表候補の実力者だと最近ネットニュースで把握した。つまり女性にとっては喉から出るほどの優良物件なのだろうか。


 正直、第三者の新は他人の恋愛に関して無関心そのものだったが、彼女の現実主義的な変貌と違和感を含んだ玉の輿の正体に、無言の新は匙を投げるしかなかった。


 積雪始まる真夜中。それでもネオンライトの街灯はぼんやりと眩しい。

 けれど月夜を浴びる彼女の幸せそうな微笑みと、他人を見下した視線の鋭利さの奥には、猛毒のような極彩色の感情が孕んでいたことを。


 言及はしない。

 今の彼女は少なくとも新の知る人物ではない。


 彼氏の腕に縋り、勝ち誇る彼女の姿が芸術作品に見えたとしても。

 明日の天気予報みたいに曖昧で、歪んだ関係に亀裂が走るのは時間の問題だった。


 ―――人は『嘘』を吐いて生きている。


 たとえそれが身内だろうと、優良物件の玉の輿だろうと、自身の目的の為だけに彼女は躊躇なく他人を騙す。利用できるもの全て手段を選ばず、利敵になる者、邪魔する者には徹底的に叩きのめす。霙に混じる陰湿さと時限爆弾みたいな狂暴性は自分だけが幸せになれる為に、自分だけが正しいのだと執拗に誑かす。


 式守新を排除する為の、彼女の本性は魔女のような美しさだった。


 だが、その美しさには裏がある。

 目の前にある美しい現実以上に真相が映る新の瞳の奥には、彼女の猟奇的な行動と心に残る違和感の正体を誰よりも辿り着いていた。


 生憎、自惚れていた好青年は嘘の痕跡に気付いていない。

 従妹の彼氏は少なくとも一人だけじゃない。複数人もキープしているという事実を。


 無知は賢明か。あるいは愚直なのか。必ずしも人間関係が美徳とは限らないように。それ故に感情優先の独占欲には理解に苦しむ。

 あの極彩色めいた背徳感に、果たして共感出来る人はいるのだろうか。


 出来るワケがない。


(……疲れた。他人を信じる理由も、誰かの責任を受け止める意味さえも)


 強きを助け弱きを挫く。これこそが現代社会の縮図だ。

 規則に背く人間は消耗品にもならない。人生の勝ち組になりたければ隣人の幸せを奪わなければならない。損得勘定の人間関係なんて、心が窶れて疲弊するだけ。


 生きるのが辛いのは当然だ。


 社会に阻害された者は自由を求めてはいけない。


 賑やかな教室の雰囲気を壊さないように。大切な青春の憩いを荒らさないように。限られた時間を無駄にしないように。みんなの人生に迷惑を掛けない方法として、邪魔になる異端分子の存在は淘汰されるべきなのだ。


 それが自然の摂理であり、間違いなくこのキレイな世界の模範解答だった。


(努力よりも結果が選ばれて、自分が見たいものしか見ない。それでも目の前にある価値を否定されて、他人に奪われるばかりの人生に……)


 新の価値観とクラスメイトの価値観。認識に差異が出るのは当然だ。共感する者同士が集まりグループが形成される。時折聞こえる会話は嗜好を含んだ流行の話題ばかりで、内容はスカスカなのに、みんなはとても楽しそうにしている。


 部活の話。動画の話。進路の話。

 アイドルの話。マンガの話。恋愛の話。


 三者三様の談笑に新がいるだけで、不快な気分にさせるのは一目瞭然だろう。

 新が干渉しないことでクラスの平和に繋がる。彼等の為にもなれる。


 これが誰も不幸にならずに済む、一番の最適解なのだと。


 自分自身に『嘘』を言い聞かせて。

 何も間違っていない。相手が正しかったんだと、そんなノイズ色の毎日は。


(全然、面白くないな……)


 徒桜の涙が零れ落ちる頃、春の木漏れ日は同じ景色を繰り返す。

 窓ガラスに映る釈然としない表情。独りだけの居場所に自虐的に微笑む。スマホの画面に逃げてSNSに頼るような。現実に精神が疲れた、つまらない人間に向けて。


 新品のスマホが手元から滑り落ちて。机に俯伏せになる。


 ―――このまま眠りに落ちてしまえば、少しは退屈を凌げるかもしれない。


「なんだ、意外と起きてるじゃん」


 教室は歓喜に支配されている。けれど鮮明に聞こえる声音は優しいものだった。

 イヤホンが通用しない。外の音を遮断する為にあるハズなのに。

 気配がする。しかも至近距離。微睡みの意識が警戒色に染めていく中で、新は声音の正体を視認しようとゆっくり前を向いてみると。


「おはよう、式守くん」


 机の正面にいたのは、同じ1年A組のクラスメイト、雨宮千愛だった―――。

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