第2話
「見てくれ二人とも!今日は特別おいしいパンが手に入ったんだ!みんなで分けようじゃないか!」
「まぁ、色つやがよくって本当においしそう!」
「こんな素敵なものをいただけるなんて、さすがは顔の広いお父様!…もう私、本当にお父様の事が異性として好きになってしまいそうです…!」
「あら、それはダメよリーゼ!彼は私の旦那様なんだからね!」
「はっはっは!これは参った参った!(笑)」
扉越しに、仲睦まじい様子で食事を進める三人の声が聞こえる。
私だけ食事抜きなんてことはもう日常的だから、もはやそこには何とも思いはしない。
けれど体の方はそうはいかず、食事のいい香りが鼻まで届いてくれば、ただでさえ空腹なお腹はさらに空腹になって、痛みにも近い感覚を生じさせる。
…もう何日、もしかしたらもう何か月もまともな食事をとっていないこの体に、食欲を刺激するこの匂いは毒薬のように作用する。
「はぁ……はぁ……」
空腹からなのか、それともそもそもの栄養が足りていないからか、呼吸が苦しくなって過呼吸のような状態になってしまう。
”雑巾がちぎれるまで雑巾がけをしろ”
お父様に言われた指示のままに、私はひたすらに屋敷中の端から端まで雑巾がけをして汚れを取り続けている。
その甲斐あってか、私の使う雑巾はもう真っ黒になってしまっている。
それだけ汚れを取れたということなのだけれど、雑巾はほつれる様子さえなく、まだまだ頑丈なように見える。
…これを終わらせるまで、食事は抜きだと言われている。
だから、私は空腹感に負けずにやるしかなかった。
――――
「…?」
それまで食事を進めていたエルクの手が突然、止まった。
「お父様、どうかされましたか?」
「雑巾がけの音が聞こえなくなったな…。まさかあいつ、さぼっているんじゃないか?」
エルクは2人と仲良く食事をしながら、同時にセレシアが発する雑巾がけの音をチェックしていたのだった。
「さすがお父様!昔は戦場で活躍されていたそうですし、素晴らしい聴力をお持ちなのですね!」
「クスクス…。セレシアもうれしいでしょうねぇ、あなたにそこまで想ってもらえて…(笑)」
「あぁ、俺の愛情に答えてくれているのなら、さぼらずきちんと任せた仕事をしてくれているはずだ。もしもさぼっていたりしたら、それは俺の愛への裏切りなのだから、きちんとしつけをしないといけないよなぁ」
エルクは薄ら笑いを浮かべながらそう言うと、腰かけていた席をゆっくりと立ち上がり、最後にセレシアの音を感じた方向へと歩き始めた。
そんなエルクの後ろには、まるでこれから起きることを楽しみにしているかのような表情を浮かべる二人が続く。
「お母さま、やっぱりお姉様がいると退屈しませんわね♪」
「でしょう?やっぱり彼と再婚したのは正解だったわ。あなたの事も実の娘のようにかわいがってくれているし、こんなに幸せになっちゃってもいいのかと思ってしまうくらいだわ♪」
前を歩くエルクには聞こえない程度の大きさで、二人は会話をする。二人ともうきうきとした表情を浮かべていて、セレシアの身を案じるそぶりは一切感じられなかった。
3人が歩く屋敷の中は、セレシアが必死に雑巾がけをした甲斐あってそれまでに比べてピカピカに光り輝いていた。
しかしそんな部分に3人は誰も興味を示すことなく、その変化に気づくこともなかった。
そして廊下の曲がり角を曲がったすぐの場所に、体を床に伏せ力なく横たわるセレシアの姿があった。
「はぁ…。俺はお前の事を信じていたんだながなぁ…。まさか気持ちを裏切るとは…」
「あらまぁ、セレシアったら…。誰にも見られていないから、ばれないとでも思ったのかしら?いい加減な性格ねぇ…」
「どうしますかお父様?また前のように服に火をつけて起こしますか?♪」
「いや、今は俺の腹の虫がおさまらん。このままぶつけさせてもらおう…っ!!!」
エルクはそう言うと、自身の右足を引けるだけ引き、その勢いのままに足先をセレシアの腹部めがけて全力で蹴り上げた。
――――
「ぐがっ!!!!!」
目覚めと同時に、おなかに強烈な痛みを感じる。
それまでは空腹からくる苦しさだったけれど、これはそれとは違う、直接的な痛み…。
そして時間をかけずにおなかの痛みは全身にも広がっていき、ジンとした鋭い痛みが体を突き刺す。
その痛みに起こされ、私は自分の前に広がる姿を目で認識していく。
…ゆっくりと顔を上げると、目の前には3人の人影…。
怒りの感情に支配されたお父様、その横でうきうきな表情を浮かべるお母様、その隣には…手で口元を隠しているけれど、その目は完全にこの状況を楽しんでいる様子のリーゼ…。
三人の顔を視界にとらえながら、私はゆっくりと覚えている記憶を呼び起こす。
わ、私はなんで……ここに倒れているんだっけ…。
でもそれは、思い出すまでもないことだった。
必死に雑巾がけを繰り返す中で、息苦しくなって、じわじわと体が動かなくなって、それでも無理をして掃除を続けて、気づいた時にはその場に倒れてしまっただけの事なのだから。
「俺の指示のさぼって不貞寝とは、お前も偉くなったものだなぁ…。まったくどこまでもあきれさせてくれる…っ!!!」
ガンッ!!!!!
「っ!!!!」
今度は私の左肩に、お父様の振り上げた右足が直撃した。
…あまりの痛さに泣き叫んでしまいたいくらいだけれど、もうそんな力さえも私にはなかった。
今の私にできるのは、ただ黙って時間が過ぎ去るのを待つことだけ…。
「…雑巾がけなんて子ども出来るぞ?それも満足にできないとは、いよいよ我が家の恥さらしだ…。やはりお前はこの家から出すわけにはいかないな」
「クスクス…。よかったじゃないセレシア!ずっとここにいて良いとエルク様は言っているのよ!これからもいっぱいエルク様からの愛情を受け取ることができるのよ!ねぇうれしいでしょう?♪」
「お姉様ばかりお父様から愛情をかけてもらっていて、私妬いてしまいそうですわぁ♪」
「さぁ二人とも、食事の途中だ。…セレシア、次に俺の言ったことをやっていなかったら、今度はもっと苦しんでもらうからな?わかったな?」
「は、はぃ…」
ある程度機嫌を戻したらしいお父様は、満足げに私の前から姿を消していった。
残された二人は私の事を見下しながら笑い、勝ち誇ったような表情を見せつけた後にお父様の背中を追っていったのだった…。
――――
セレシアたちの過ごす屋敷の横を、大きな馬車が横切った。
荷台を引く二頭の馬はそれぞれが美しい毛並みをしており、この馬車に乗る人間の位の高さを推測させる。
そしてその推測通り、この馬車にはこの国で最も位の高い人間が乗っていた。
年齢は中年といったところの、きらびやか衣装に身を包むその男性は、ふと馬車から見える外の景色に視線を移してみた。
あたりはすっかり暗くなっているからか、特に興味を引くようなものは何も見えはしない。
しかしそんな中にひとつ、彼の目を引くものがあった。
「…?」
一人の線の細い女性が、なにやら庭先の掃除をしている様子が目に入った。
ただの使用人の姿……にしか見えないその光景に、男は一瞬だけ胸を高鳴らせた。
「…っ!?!?」
思わず少し身を乗り出し、彼女の事をもっとよく見ようと背を伸ばす。
しかしあたり一帯は暗く、しかも走る馬車から見えた彼女の姿は一瞬だけ。
彼女の姿が見えなくなると同時に、男は静かに元座っていた場所に腰を下ろした。
「……いや、そんなまさかな……」
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