15 それは出会い、それとも嵐
「誰かしら?」
「葉子……。アストルムに向かうって、本当?」
彼は息を整えると、部屋の中にいるエルピスとスズランに手を振った。
「部屋まで特定してる……。どうぞ、お帰りください!」
葉子は言うやいなや、勢いよくドアを閉めようとする。エーデルの顔が引きつった。
「ごめんなさい! 貴女のことが心配だったから……!」
ドアの隙間に素早く右手を挟んだ。彼はラッチ部分からドアノブへ手を動かそうとする。「葉子ちゃん……。開けて」と紫色の眼が、隙間から覗いている。
双方ともドアを押しているため、木製ドアがミシミシと音を立てている。葉子は拮抗していると思っているが、エーデルが力加減していることに気付いていない。
彼女はドアにもたれ掛かると、両手に力を入れ一気に押さえた。バタンと閉まると同時に、ミシッと何かの音が聞こえる。向こうから小さく呻く声がした。
「ねえ……。話があるの」
先ほどと何も変わらない声のトーンが、却って不気味だった。葉子は大きく息を吸い込んだ。
「わ、私はないから! あなた怖いし!」
まだドアの前にいるのだろう。「ごめん……」と弱弱しい声が聞こえる。
様子を見ていたエルピスが困り顔で、「彼を入れてあげてください。でないと、そのうちドアを壊しますよ」と言うと、部屋のドアを開けた。
「何あれ。揉めてる?」
「朝から痴話喧嘩? 若いわねぇ」
二人が、部屋のドアを挟んで言い合いをしていたからだろうか。他の客が面白半分、または訝しげに見ていることに気付く。途端に葉子は恥ずかしくなると俯いた。
紫髪の男は冷ややかな目で、右手の動作を確認すると関節を鳴らす。
「お騒がせしてごめんなさい」と振り向いて申し訳なさそうに言うと、周りは何事もなかったように去った。
「それで話って……」
葉子は彼の右手に視線をやったが、やがて逸らした。ベッドに腰を掛けると窓の方を見る。エーデルが部屋に入って来ると真顔で彼女を見下ろす。
「私は二度と貴女を殺さない。浮気しても許すから。万が一、殺したくなったら」
パンツのポケットからナイフを取り出すと、彼は首元のストールを外した。刃先で自身の首を切る動作をすると、薄っすらと赤い線ができる。
葉子が顔を引きつらせた。彼は薄く微笑むと、ハンカチで血を拭った。
「自傷するとね、意外と落ち着くのよ……。私、身体が頑丈だから治りも早い。これなら貴女を傷付けることはない。葉子ちゃん、これで安心してくれるよね?」
目の前の存在は、彼女からテーブルの上の地図に視線を向けた。葉子は俯いたまま、何も返事をしなかった。
地図を手に取るとエーデルは、「アストルムか」とどこか複雑そうに呟く。エルピスが彼の袖をくいっと引っ張った。
「今から買い出しに行くのですが、エーデルさんも付き合ってくれませんか?」
「別に構わないけれど……。それじゃあ、スズランは私が抱いているから」
彼は洗面所で手を洗うとストールを巻き直した。子犬を抱き上げると、ちらりと葉子を見やった。
「葉子さん、そろそろチェックアウトしましょうか」
「……うん」
三人と一匹は宿屋から出ると、街の広場へ向かった。天気もよく、たくさんの人で賑わっている。
「まずは葉子さんが着る物ですね。寒暖対策できる物がいいでしょう」
装備屋の前に立つと、エルピスは腰に着けているポーチから巾着袋を取り出す。その中には、昨日エーデルからもらったお金が入っている。
「葉子さん、この世界の単位はグラーノです」
「へえ~! そうなんだ」
「では一緒に見ましょう。エーデルさん、すみませんが」
「私は構わない。貴女たちはゆっくり買い物してね」
エーデルはスズランを撫でながら、にこりと笑う。葉子は、「じゃあ、お願いします」と小さく言って店に入った。
店内には様々な衣類が置いている。葉子が見渡していると、エルピスが耳打ちしてきた。
「奥の方には下着類もあるのですよ。どうします? せっかくなので買いましょうか」
少女にそう言われ、奥の売り場を見やった。
(下着かぁ……。替えがあって困ることはないもんね)
そこで、葉子ははたと気付いた。
(そういえば私、フローラちゃんに買うって約束したわね……。あの子ノーブラって言ってたし)
葉子が無言だからか、エルピスが不思議そうに見ている。
「ごめんね、エルピス君。私の分もだけど、フローラちゃんのもお願いしたいな……」
金髪の少女は目をしばたたかせたが、
「ええ、構いませんよ。姉も喜ぶと思います」
「ありがとうね」
葉子とエルピスは色んな服を見比べた。ローブにフード付きのマント――。
種類があって彼女は悩んだが、ケープを選んだ。これなら肩回りから背中までカバーできる。金髪の少女も賛成した。
「お待たせしました」
店から出るとエルピスは、外で待っていた紫髪の男に声をかける。
「あら~可愛らしいじゃない! 葉子ちゃん、よく似合っているよ!」
エーデルの表情が明るくなると、笑顔で褒めてくれた。彼の腕に抱かれているスズランも、「もわん!」と鳴いた。
彼女自身、悪い気はしないと感じていた。少し照れくさそうにしながら、「そっかな……?」と呟く。
「あとは武器ですね。エーデルさん、彼女に合う短剣を選んでくれませんか」
「了解~。それじゃあ行くか」
エルピスにスズランを預けると、二人は武器屋に入った。ドアに付けているベルが、チリンと音を鳴らす。
店内には様々な武器が展示されていて、葉子は軽くめまいを感じた。今まで生きていてこれだけの数を見たことがなかったからだ。
場の雰囲気に気圧されていると、「大丈夫?」とエーデルが左手で、彼女の背中を支える。
「あのー……、エーデルさん」
「ん? 何かしら」
一瞬、言葉が出かかったが引っ込んでしまった。
「アスト何とかって、どんな場所なの?」
「アストルムです。ちょっと覚えにくいかな? 行けばわかるよ。大きな図書館もあるし、学園跡もある意味名所になっているから――っと、これは重いか」
手に持った短剣を戻すと、彼は別の物を見始める。その後姿を見ながら、葉子はもごもごと言った。
「さっきはごめんなさい。右手……」
エーデルが振り向いてきょとんとしている。
「あんた、そんなことを気にしていたの? 呆れた……」
小さいながら、葉子の心にチクリと刺さる感覚があった。
「き、気になって悪い? もしかしたら、手当した方がいいかもって」
俯いていると、彼の左手が伸びてきて彼女の頭を撫でた。
「ごめんね! 心配してくれるのは嬉しいけれど、私は普通じゃないから」
彼は右手で短剣を手に取りながら、「対人用じゃない物がいいかなぁ~。だが、何があるかわからないからねぇ……」とぶつぶつ言っている。
葉子はここでようやく、相手の顔を見ようという気持ちになった。
「この間、傷の治りが早いのは知ったけれど。普通じゃないって大げさよ?」
「あのねぇ~……。この人間の身で一度だったかなぁ。身体を破壊されたりしたけれど、何も問題ないの。だからこの先、私がそうなっても貴女は、自分の身を守ることに集中すればいいから」
葉子は目を見開いた。信じられないという風に目の前の男を見つめる。
「あなた不死身なの? それともゾンビ?」
「あはは……! 私はモンスターか何かなのか! 葉子ちゃん、面白~い」
笑いを噛み殺しながら、エーデルは武器を展示している棚を見た。そこに丁度よさそうな物を見つける。
「ねえ、貴女にはこれがいいんじゃない? チンクエデアって短剣なんだけれど。ちょっと持ってみて」
彼に手渡され、葉子は両手で受け取った。鞘から出してみると、キンッと金属の音がした。
「私でも扱えそう」
「決まりね。じゃあ、腰用のベルトも買いましょうか。ちょっと店主に聞いてくるね」
エーデルがその場からいなくなる。葉子は彼を待っている間、再び店内を見始めた。どうやら、自分たち以外に客はいないようだ。
チリン。店のドアが開かれベルの音が鳴ると、客が一人入って来た。
葉子はゆっくりと武器を眺めながら歩いている。ふと弓矢のところで立ち止まっていると、ドンッと彼女の肩にぶつかる者がいた。
「ああ、すみません」
先ほど入って来た客のようだ。彼は謝ると、葉子をじっと見つめる。
エーデルがベルトを手にして戻ってきた。しかし、葉子と見知らぬ男性が何か話していることに気付く。
「あの男、誰……」
紫色の眼がじとっと見ていたが、小さく首を横に振った。彼女のそばへ行くと、
「葉子ちゃん、このベルトはどう? 革製で丈夫だし、貴女がいずれ剣を持つようになっても、そのまま使えるよ」
「うん、いい感じ! ありがとね」
葉子の言葉に安心すると、「会計に……」と言いかけたところで、
「あなたは、この女性の連れですか?」
彼に呼び止められた。紫髪の男は冷ややかな目で相手を見やる。
「……そうですが、何か」
「彼女には、弓が似合うと思うのですが……。短剣は少々危ないのでは? 僕は遠距離タイプだと考えていますが」
目の前の男にそう言われ、紫色の眼が不安げに葉子を見つめた。
「貴女もそう思う? これは不満? 弓がいいの? 私、もう少し考えようか? ちょっと待って……」
矢継ぎ早に質問されて、葉子はあたふたした。
「そもそも、短剣って言われたんだよ。私はこれでいいよ! あなたが選んでくれたし、使いこなせるように頑張るから」
「ああ、そうだったわね……。そう言ってくれてありがとう……」
エーデルは戸惑いながら店主の元へ歩いて行った。
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