12 無限の愛は紙一重
気を失う直前エーデルが何かを言っていたが、
二年前の初秋、彼女は失神している。
連日の残業と仕事のストレスで、睡眠不足になっていた。会社を休むわけにもいかず、自分に発破をかけ日々を乗り越えていたが――。
ある日アパートの部屋に帰ると、彼女は玄関先で倒れてしまった。当時同棲していた彼氏が病院に連れて行ってくれた。
原因はストレスによるものだった。入院中は両親や彼氏、会社の同僚が見舞いに来てくれた。それをぼんやり思い出していた――。
遠い所から、誰かの声が聞こえる。
「藤山葉子」
声が近くなった。
身体を揺すり起こされ、葉子はゆっくり瞼を開けた。口から空気を吸い込もうとしてむせる。すると誰かに背中をさすられた。まだ視界がぼやけているように感じる。
徐々に目が慣れ始めた頃、彼女はぽかんとした。
辺りには夜空が広がっているのだ。先ほどまで、エーデルの自宅にいたはずなのだが――。
ここは一体どこだろうか? 葉子が身体を起き上がらせようとすると、左肩に手を添えられる。目の前には、憂い顔のエーデルがいた。
「葉子ちゃんに負荷がかかったのかと思ったけれど、失神だったみたいね。ああ、まだ起き上がらない方がいい」
いつの間にか膝枕をされていた。彼は天を仰いでいる。
(は? 葉子ちゃん!? というか、この状況……何?)
固まっていると、左肩を撫でられた。
「ここには邪魔者もいない」
エーデルが微笑んだ。呆けている葉子へ顔を近付け、口付けをする。
(――!?)
互いの唇が重なり合うと、彼の舌を絡められた。めまいと動悸が激しくなる。
「ん!? む~! んっ、ふあ……」
ひとしきり交わすとエーデルは口元に笑みを浮かべた。彼女の唇が濡れているので舐める。
葉子はときめきより、戸惑いと怒りの感情が勝っていた。彼が気を緩めたその隙に、顎めがけて頭突きした。
「うぐえっ!?」
頭をさすると、彼女はふらつく足で立ち上がる。
「この変態……!! いきなり何するの!?」
怒気を含んだ声で叫んだ。エーデルは口元に手を当てると、不思議そうに見上げる。
「何故って私たちは恋人同士……。ああ、今は違うか」
「一体どういうこと!? 私、あなたとは昨日知り合ったばかりなんですけど」
身構える葉子に、彼は穏やかな顔を作る。
「あのねぇ、葉子ちゃん。並行世界を知っているかしら」
「急に何……」
「世界には並行世界がいくつも存在している。貴女以外の藤山葉子も、その世界の数だけ存在している。私は過労死寸前の貴女を助けたかった。だから、これまで五人の貴女をこの世界に
「は……? え?」
突拍子のないことを言われ、葉子は目を白黒させた。エーデルが立ち上がる。
「お前はこの世界へ誘われた十人目だ。これまでの九人の葉子ちゃんは全員死亡」
「!? 意味わかんない! 何でそんな怖いことが起きてるの!?」
「色々あったのよ。けれど、貴女が好きなのは変わりない」
骨ばった手が彼女の右手を握ると、しっかり指を絡めてきた。
「ちょ、ちょっと待ってよ……。どうして私を?」
紫髪の男はうっとりした顔になると、天を仰ぎ見た。
「初めて葉子ちゃんを見たとき、ビビッときた……。ああ、これが運命なんだ! って私は思ったよ。それに三人目の貴女が言っていた。『他の世界の私もきっとあなたを好きになる』ってね……」
戸惑っている葉子の唇を、右手で撫でる。
「一人目の貴女は、私と両想いになったあと飛び火で死んだ……。二人目は職場で精神を病んでいたんだろうね。ここに来た後すぐに発狂した。三人目もいい感じにいったんだけれど、悩みでもあったのかしら。目の前で自殺されちゃった」
つうと、指先で首筋を撫でられて、彼女は困惑の視線を向ける。エーデルの顔から表情が消えていた。
「四人目の貴女は他の男と浮気し、さらにエルピスをいじめた。お前たちがどこかへ
恐ろしいことを淡々と話す目の前の存在に、葉子は身震いした。別世界の自分が、一度この男に殺されている。
「五人目は私が束縛しすぎて逃げちゃったのかなぁ? その結果、彼女は魔物に襲われて無残にも……。そこで私は精神に不調を来して、休眠状態に入った」
彼は右手で頭を抱えると、両目を閉じた。
「そ、それだけ別世界の私に入れ込むって……。あなた、なかなかクレイジーね……」
葉子は顔を引きつらせながら言う。彼は伏し目になると小さく息を吐いた。
「六人目の貴女から、アーテーが介入し始めた。ここからはエルピスに接続してもら――いや、教えてもらったのだけれど。あの女、私が眠っている間に葉子ちゃんに手を出した」
「フローラちゃんが……? それで、その私はどうなったの?」
「可哀そうに。碌な死に方をしなかったよ」
エーデルは憐憫の眼差しを向けると、絡めていた指を彼女の右手から離した。
フローラと出会った別世界の自分。その最期はどんな風だったのか。今の葉子に聞く勇気がなかった。
「九人目の貴女と結ばれて子作りするはずが、また揉め事が起きて死んじゃったぁ……。発狂した私は、己を制御できなかった」
彼は葉子の肩に手を乗せると夜空を見上げた。遠くで星々が輝いている。
「だからね、葉子ちゃん。十人目の貴女が、私とセッ――」
「なっ……!? あんた!」
彼女が赤面するとまた口付けをされたが、先ほどのように舌は入れてこなかった。
「伴侶になってくれないか。私は貴女を幸せにしたい」
「こ、これがあなたの本性なの!? 別世界の私のとばっちりじゃない!!」
彼女が涙目になっているので、エーデルは舌で涙を舐めた。
「働きたくなければ私が一生養う。料理も家事も全てする。貴女がそばにいてくれるだけで、私は幸せだから」
「そんな問題じゃない! あんた顔が近いし……! ちょっと離れて!」
「葉子ちゃんはどんな顔をしていても可愛いよ……。よく見せて」
彼がさらに距離を詰めてくる。葉子はもう我慢できなかった。
目を見開くと、紫髪の男の右腕に手を添える。彼の襟元を左手で掴むと自身の重心を下に落とした。合気道の隅落としだ。
「あら?」とエーデルは呟いたときにはバランスを崩していた。そのまま勢いよく地面に叩きつけられる。
「う゛あ゛っ!?」
呻いている彼の腕を抑えると腹這いにさせた。そのうち静かになったため、葉子は離れると小さくガッツポーズした。
ところが。
何事もなかったかのように、彼がゆらりと立ち上がった。
「すご~い! 貴女は武術を嗜んでいるのか。頼もしい」
恍惚の表情を浮かべると、両肩に手を回して爪を立てた。
「お前に攻撃されて、なかなか気持ちよかったよ……」
低く囁くと、エーデルの双眸がぎらついた。
気が付けば、葉子は全力で走っていた。彼から距離を取るためだ。もはや物理攻撃をしても無駄だと悟った。
向こうの方で紫髪の男が叫ぶ。
「葉子ちゃ~ん! 帰れなくなるから、あまり私から離れない方がいいよ。まあ、地の果てにいても即見つけるから安心してね」
「怖いこと言わないでよ!? あんたなんか絶対好きにならない! 他にいい人見つけるから、さようなら!」
彼は「他にいい人」と「さようなら」という言葉が気に入らなかったようだ。
「私以外の男を? そんなことは絶対に許さん……」
距離があったはずなのに目の前に瞬間移動していた。葉子はつっこむ気も起きず、彼の横を歩いて通り過ぎた。
「貴女のためなら私は何だってする! 苦手なこともできる範囲で努力する! だから、葉子ちゃん」
「さっきとテンションが違いすぎて怖い。こんな危ない人なら家に泊まらなかった……!」
彼女の言葉が心に突き刺さる。紫髪の男は両手で頭を抱えると発狂した。
「葉子ちゃんに拒絶されるなんてぇ……。そんなに私が駄目なのか? あ゛あ゛ぁっ……!!」
低い唸り声を上げるとエーデルの瞳孔が開いた。葉子が困惑して立ち止まる。彼はその場に崩れ落ちると、爪で頭をかきむしっている。
それをしばらく眺めていたが、彼女はおずおずと声をかけた。
「エーデルさん……。早く帰ろう? エルピス君たちが心配してるよ」
「ならばお前だけ先に還れ。今から空間に穴を開ける――」
エーデルは自ら左手首に噛み付くと、右手の指先に意識を集中し始めた。口元からポタリ、と血が垂れている。
何故だろうか。
葉子は彼の姿を見ていると、捨てられてボロボロになった大型犬のように思えてきた。憐みを感じたのだろう。彼の隣にしゃがみ込むと、左腕を掴んだ。
「あなたは恩人だけど、フローラちゃんの言ってたこともちょっと当たってる。けど、そんなことしたら自分を傷付けるだけよ……」
俯いて垂れた髪の間から、紫色の眼が彼女を見ている。
「私はあなたのこと、まだ信用できない。だけど、助けてくれたことは感謝してるよ」
葉子は手を伸ばすと、彼の頭を撫でた。
「……久しぶりに撫でられた」
彼は力なく微笑んだ。葉子は苦笑いすると、
「あなたって忙しい人ね……」
夜空を仰ぎ見た。
「ところで、この謎空間は? 星空が綺麗だけど……」
「特定の者が扱える能力かな」
「ここに来てどれくらい? 一時間くらい?」
エーデルは口元を拭って乱れた髪を整えた。立ち上がると葉子を見下ろす。
「この領域で時間経過はしない。現実に戻っても同様だ。まあ、身体に受けたダメージや経験は残るけれど」
そこで葉子は、先ほどのキスを思い出すと指先で唇を触った。彼は真顔になると、
「葉子ちゃんは生娘だと思っていたけれど、意外と慣れているの?」
そんなことを聞いてきた。葉子は「生娘」と言われぎょっとしたが、一つため息を吐くと立ち上がった。
「以前、結婚前提で付き合ってた彼氏がいたわ。頼りになる人だったけど浪費癖があって……。私がちょっと入院してる間に浮気された」
「――――」
彼女の口から思ってもみない言葉が出てきて、紫髪の男がフリーズする。
「ここは異世界だから、二度とあいつに会うことはないけどね」
そう言うと葉子は伸びをした。エーデルは苦虫を噛み潰したような顔をすると、自身の左腕に爪を立てた。
「私ならそんなことしないのに……。悔しくなかったの?」
「そりゃ悔しかったわ。だけど私、あいつに未練ないから。今は浮気相手とお幸せにどうぞ! ってね」
あっけらかんとした葉子を直視できなかった。彼は自嘲の笑みを浮かべると
「それで、あなたがアイオーンなのね?」
視線だけ彼女に向ける。エーデルは右手で頭を抱えると、
「昔そこそこの地位にいたけれど、色々あって追放された。今は能力も制限されている」
「あなた偉い人だったの……? 想像できない」
「名誉のために言うけれど、昔の私はまともだった。少なくとも……」
そのまま俯いてしまった。
束の間、二人は無言だった。葉子は項垂れている彼を見やると、「さっきの話だけど」と切り出した。
「私の記憶に何かするって言ってたよね? それはどうするの?」
「その必要はない。久々にエルピスにこの名で呼ばれ、さらに貴女もいたから。私が混乱でどうにかなりそうになっただけ……」
続いてエーデルが、「さっきはごめん。貴女に色々怖い思いさせたよね……」と謝る。葉子は微笑しただけだ。彼は、「節制……」と呟くと両手で顔を覆った。
葉子は地面に腰を下ろすと、両手で膝を抱える。
「何か、ちょっと放っておけないかも。あなた犬っぽいし」
「――え」
彼女の言葉にエーデルはきょとんとした。
「それも大型犬で手のかかる性格。飼うのは大変そうね」
彼は苦笑いする。葉子は夜空を見上げた。しばし、静寂が訪れる。
だが――。ここで、何かを忘れていることに気付いた。
「あ~~っ!?」
「何よ急に」
彼女は立ち上がって服を捲くると、背中へ手を伸ばした。
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