11 餌付けと信頼、そして地雷

 翌日、藤山葉子ふじやまようこが起きたのは、正午を少し過ぎた頃だった。

 お腹の上に何かの重みを感じると、そこにはグレートピレニーズの子犬のスズランが――。


「もわん」

「ふわあ~……。おはよ、スズラン」


 葉子は子犬を抱くと、のろのろと起き上がった。


「やっとか」


 視線を向けると、紫髪の男が箒でフローリングを掃いている。


「おはよう、エーデルさん」

「お昼過ぎているけれど、おはよう」


 そう言うと彼は時計を指差す。


「……嘘っ!?」

「貴女が、あんまり気持ち良さそうに寝ているから、起こさなかった」


 エーデルはちり取りの中にゴミを集め始めた。


「そうだ。服乾いているよ。着替えてきたら?」


 葉子は寝癖を押さえると、慌てながら洗面所へ向かった。スズランも、彼女の足元にまとわりつきながら付いていく。

 彼はちり取りの中の物を捨てると、「まあ……昨日は色々あったから、疲れるのも当然か」と呟いた。 


 服を着替えた葉子が子犬と一緒にキッチンに戻る。エーデルはプレートにパニーニを二個並べていた。

 骨ばった手がブレッドナイフを握る。パニーニを半分に切りスライスチーズとハム、レタスを挟んだ。横にミニトマトを添える。小鉢には切ったリンゴを入れ、上からヨーグルトを乗せる。


 彼が料理している様子を眺めながら、彼女は昨日の出来事を思い出していた。

 フローラは偽名で、その正体は女神アーテーという事。彼女の弟であるエルピスと子犬のスズランとの出会い。そして目の前にいるエーデル。


 彼はテーブルに昼食を並べると、スープカップにポタージュを、マグカップにミルクを注いで差し出した。


「どうぞ。遅めのお昼です」

「ありがとう!」


 葉子は席に着くと、パンを頬張り始める。彼は腕を組んで振り仰いだ。


「貴女、これからどうするの?」

「うーん……」


 葉子は指先で前髪を触りながら、眉間にしわを寄せた。

 異世界に来て今日で三日目だが、相変わらず無一文だった。まずは、仕事と住居を見つけることが先決だが――。


「エーデルさん。職探し、がんばるから今日も泊めてくれませんか? よければ街案内もしてほしいな~……なんて」

「――何?」

「ごめん、無理よね。じゃあ、あとで街に行って誰かに聞くわね」


 紫髪の男はソファーに座ると膝に肘をついて、彼女の後ろ姿をじっと見つめる。

 あっという間に葉子はご飯を平らげ、「おいしかった~!」と言うと、


「あなたっていい人ね! 何だかんだ家に泊めてくれたし、ご飯も作ってくれるし」


 嬉しそうに振り向いた。エーデルはまんざらでもない顔をした。


「ああ……そうだ。さっき、エルちゃんに連絡したから」

「エルピス君?」

「これからのことはあの子と相談してね。別に私でもいいけれど」


 エーデルはソファーから立ち上がると、戸棚の引き出しを開ける。そこには一本のナイフが入っていた。


「エルちゃんは、アーテーの姉妹きょうだいだけれど、私はあの女が憎い。私のに……」

「私もその話を聞いて、びっくりしちゃ――」

 

 そこで葉子は首を傾げた。彼はナイフを握ると、


「一つ訂正。私は善人ではない」


 背後から彼女の首筋の右側に、刃先を当てた。


「エーデルさん? あの……」


 視線をナイフから左側へ動かす。ぎらついた紫色の眼が、横から葉子の顔を覗き込んでいた。

 恐怖と緊張で、鼓動が早くなる。全身を強張こわばらせながら、彼から視線を外した。

 テーブルの下で、子犬がつぶらな瞳を潤ませながら、二人の様子を見つめている。


「お前がエルピスを傷付けたら、私が同じようにするからね? それだけは忘れるな」


 鋭い眼差しと低い声に気圧されたが、葉子は大きく息を吸うと彼に視線を向けた。


「エルピス君が泣くようなことを言えば、私も同じように泣かされるんですか……? あなたに」


 エーデルは苦笑いすると葉子から離れ、「ああ、ごめんね! 私ったら!」と言ってナイフを折り畳んだ。


「私が言いたかったのは物理的という意味。私だってあの子と口喧嘩して、傷付けてしまうこともあるし……」


 紫色の眼は遠くを見つめたが、すぐに葉子に視線を戻す。


「貴女は、あの子を攻撃しないと信じたい。どうかエルちゃんと仲良くしてね?」


 葉子は無言で立ち上がるとスズランを抱き上げ、彼から距離を取った。


「エルちゃんは信頼できるから。あの子は、こんな私を見捨てずに助けてくれる、優しい子だから……」


 エーデルは横目で葉子を見ると、折り畳んだナイフをパンツのポケットに仕舞う。


(フローラちゃんとエルピス君。あの二人の間に一体何が……)


 スズランを抱きしめながら、葉子はソファー横に移動した。


(あの子はあのとき、私をどこかに連れて行こうとしたよね……? フローラちゃんは家って言ってたけど。最初の森の近くの家は地震でああなったのに。他の場所にもあるのかしら?)


 ちらりと、紫髪の男を見やった。彼はシンクに食器を置くと洗う準備をしている。

 先ほどの言動に困ったが、一晩の恩義はある。

 スズランをソファーに座らせると、葉子は正座して頭を下げた。


「エーデルさん。一晩泊めてくれてありがとうございました。色々ご迷惑もおかけしましたが……。このお礼はいつか必ず返しますから待っていただけると、ありがたく存じます」


 エーデルは一瞬きょとんとしたが、顎に手を当てると口元に笑みを浮かべた。


「へ~え? 私は、お礼なんて構わないけれど……そう。必ず、ね……」


 噛み締めるように言うと、スポンジを手に取ってプレートを洗い始めた。鼻歌を歌っている彼の隣に葉子が立つ。


「エルピス君って、フローラちゃんの弟なんだよね? あの子、昨日言ってたのよ」

「――は? 誰が、誰の弟だって?」


 エーデルは怪訝そうな顔で葉子を一瞥したが、「ん? フローラ?」と手元に視線を戻した。


「私もびっくりしちゃった……。あの二人、姉弟なのね」


 紫色の眼がプレートを凝視した。骨ばった手に力が入る。


「――。昨日の女が、アーテー……」


 抑揚のない声で呟くと、持っていたプレートにヒビが入った。


「そうよ。アーテーは、フローラちゃんの本当の名前だったの。偽名を使ってた――って」


 葉子はプレートを指差した。


「ちょっと、それ割れちゃってるよ!?」


 エーデルは顔を上げると、


「え? あー……。本当だ」


 割れた食器を横に除けながら、


「お気に入りだったのに」とため息を吐いた。彼女は眉をひそめると、「あなた、フローラちゃんのこと知ってたの?」と聞く。


「いや、別に? 私、アーテーとか知らない。貴女の聞き間違いじゃない?」

「さっきから言ってたでしょ……」


 紫髪の男は腕を組むと、かつてプレートだった物を見つめ始める。葉子は、ぽんと彼の背中を叩いた。


「何!」

「エーデルさんって、エルピス君の友達なのよね? あの子は女神の弟だから、男神? あなたも仲間なの?」

「私は――」


 彼は戸棚の引き出しから紙袋を取り出す。プレートの破片を掴むと、その中に入れ始めた。


「そこら辺にいる、ただの人間……。それに引き籠もりだし」

「そ、そうなの……? でも、昨日は私を助けてくれたし、魔法とか使ってたよね? すごいね!」

「魔法なんて、勉強すれば誰でも行使こうしできます。いや、人間によって向き不向きはあるけれど……」

「それに、フローラちゃんの攻撃であれだけ吹っ飛んだのに、擦り傷で済んでよかったね」


 紙袋の口を閉じると、戸棚の上に置いた。紫色の眼がぼんやり彼女を見下ろす。


「私、身体は丈夫に出来ているから……」


 そう言って、彼はしゃがみ込んだ。葉子は首を傾げる。


「あなた、どこか具合悪いの?」

「別に」

「まさか、昨日の傷が痛むとか? ちょっと見よっか?」

「……うん」


 スズランを抱き直し、落ち込んでいるエーデルの顔を見る。「あれ? もう治ってる……」と呟いていると、ほぼ同時に玄関の方からベルの音が聞こえた。

 彼が立ち上がると走って行ったので、葉子は驚いた拍子にスズランを落としそうになった。


「ちょっと!? 急に何なのよ、あの人……」

「もわーん……」


 玄関先ではエーデルが、紙袋を抱えているエルピスを出迎える。


「一週間分の食材を持って来ましたよ。少し多めですが」

「エルちゃ~ん! いつもありがとう! 愛してる~」


 満面の笑みを見せる彼に、少年も微笑んだ。


「それが僕の役目ですから。アイオーンさん」


 その名前を聞いて、エーデルから表情が消えた。

 後から葉子とスズランがやって来るのに気付くと、エルピスは顔を明るくした。


「こんにちは、藤山葉子さん! お元気ですか?」

「私は元気よ! エルピス君も元気?」

「はい、好調です。良かった……。この方があなたを泊めてくれて」


 葉子とエルピスは互いに手を取り合って笑った。足元では、スズランが嬉しそうにしっぽを振っている。

 ただ一人、エーデルだけは微動だにせず、床を凝視していた。

 

 玄関ドアを見やると、葉子は二人に尋ねた。


「アイオーンって誰?」


 紫髪の男は目だけ動かして彼女を見る。少年は小さく、「あ」と呟いた。


「エルピス君の知り合い? それともエーデルさんの?」


 スズランはお座りすると葉子たちを見上げ、「だあれ?」と言いたげに首を傾げている。

 虚ろな目がじとりとエルピスを睨んだ。少年は顔を強張らせると、「すみません」と小声で謝った。


 エーデルは顔を上げると、


「貴女。こっちに来てくれる」


 抑揚のない声で呼んだ。


「どうしたの?」


 葉子がそばに行くと、彼の手が肩に置かれる。


「エルピス。私は、このむすめに記憶の改竄を執行する。今からを使うから、お前は離れるように」

「エーデルさん! そこまでする必要は……」

「私もうっかりしてたのぉ~。さっきも自分で墓穴を掘っちゃった……」


 彼は呆れるように肩をすくめると、「記憶を消去しても思い出すのは、それだけ好きなのかな」と独り言ちた。

 エルピスは食材の入った紙袋を床に置くと、拳を構えた。


「駄目ですエーデルさん! いくらあなたでも、それはいけません。そんなのは……」

「ねえエルピス。私は諦めようと決心したのに、再び彼女と出会ってしまった」


 葉子は全く訳がわからない。少年が心配そうに彼女を見やる。


「二度とあの女に取られて堪るか……。葉子ちゃんは私だけのものだ」

「アイオーンさん……」

「今度こそ、私はこの娘と幸せになる! 誰にも邪魔はさせん!」


 紫色の眼が青白く光り始めると、エーデルは低く囁く。


クラウデ全てオムニア閉じよ


 同時に、葉子の意識がなくなった――。

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