10 二日目が終わり
すっかり人通りがまばらになった街中で、二つの影が街灯に照らされていた。
広場を通って住宅街に差し掛かると、突然彼女が、「うわ~!!」と声を上げたので、男は驚いて振り返った。
「何!!」
「こういう風景、以前テレビの特集で観たわ! ヨーロッパの旅番組だったかしら。古い街並みや教会が出てきて、異国ってこんな風なのねって感動したのよ」
子供のように葉子がはしゃぐので、彼は若干困り顔になった。
「あっちには橋がある! 暗くて見えないけど、アーチもあるわね~!」
「ちょっとぉ。散策は明日でいいでしょ? 私の家はこっち……」
男は自宅の方向を指していたが、葉子は興奮気味にアーチの方へ歩いて行く。
「すっごーい! 向こう側にも建物がある!」
紫色の眼がじっと彼女を見ていたが、
「小娘、迷子になりたいのなら勝手に行けば?」
スタスタと路地裏の方へと歩いて行ってしまった。
「あ……待って!」
葉子は振り返ると、男の影を追いかけた。しかし彼は歩くのが早いのか、前方に姿が見えない。低い音がそばの街灯から鳴っており、遠くからは水の流れる音が聞こえる。
不安になりながら一人、道なりに進んだ。すると曲がり角の所で夜空を見上げている人影があった。葉子は近付くと声をかける。
「あなたって、空が好きなの? それとも月や星?」
「……別に」
男はつまらなさそうに呟くと、首に巻いているストールを指先で触り始めた。葉子は男の横顔をしげしげと見る。彼の顔や口元にはうっすらと、傷と血の痕が付いている。
「さっきの怪我は大丈夫? 私のせいでごめんなさい」
「……大したことないから、気にしなくていいよ。そのうち治るし。あんたも災難ねぇ~。散々な目に――」
彼はそこで言葉を切ると、葉子の袖に付いている赤黒い汚れを見つめた。それは先ほど、彼女が男の血を拭った時に付着したのだ。
「さっき、私を助けようとしてくれたよね。ありがとう」
「え……? 私何もできなかったよ?」
男は無言で空を仰ぎ見て、再び歩き出した。葉子も後に続く。
周辺の家々には明かりがポツポツ灯っている。家並みの間を、二人は縫うように歩いていった。途中、入り組んだ場所へ入ると、さらに道が続いた。
葉子は彼に付いていくだけで精一杯だった。いつになれば着くのだろうか。
ふいに男が、「到着」と言ったので彼女は立ち止まった。そこには二階建ての家が何件か並んでいる。外壁はレンガだろうか。
彼は左端の家の玄関前に立つと、パンツのポケットから家の鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込んだ。ドアノブを握ると、「どうぞ」と開ける。
「お邪魔します」
葉子が入ると玄関のドアを閉め、「先に手を洗ってね」と言う。彼はそのまま廊下を歩いて行きかけて振り返った。彼女は靴を脱ごうと、かかとに手を伸ばしている。男はきょとんとしたが、何かに納得したように呟いた。
「そうか……。いや、ここは土足文化だから、靴は履いたままで結構」
「ええっ!? でも、今までの習慣で……」
靴を脱ぎかけたまま、困り顔で突っ立っている。男は目を閉じると、「ちょっと待って」とどこかに行った。少しして戻ってくると、
「だったら、これを履きなさい」
そう言ってスリッパを置いた。葉子は、「ありがとう」と言って靴を脱ぐと、それを履いた。
彼に案内され洗面所で手洗いを済ませる。彼女が廊下に戻ると、
「もふわーん!!」
奥の部屋から鳴き声と共に、真っ白な子犬が走ってきた。
「スズラン!」
葉子は笑顔になると子犬を抱き上げた。スズランはしっぽを振りながら、ペロペロと葉子の頬を舐めている。
「藤山葉子、先にお風呂に入りなさい。お湯を沸かしておくから」
彼が石鹸とタオルを持ってくると、葉子に手渡した。
「いいの?」
「あとで貴女の服も洗濯して干しておく。下着類もこの洗濯かごに入れてね」
「え、やだ!! 彼氏でも夫でもない人に……」
「何? やましい気持ちはないから。あんただって困るでしょ。あ……もしかして月経だった?」
真顔で男が聞いてくるのでどぎまぎしてしまった。
「違う!! じゃ、じゃあ、下着の替えはどうすれば……」
「あいにく私は男だからね。女物は……」
男はさも残念という風に言った。彼女は眉間にしわを寄せたが、ふいに顔を明るくする。
「そうだ! コンビニ行こう!」
「小娘。ここは日本じゃない」
「そ、そうだった……」
うなだれる葉子を尻目に、彼は困り顔になると、「新品のトランクスがあるけれど……これで我慢して」と棚の引き出しから取り出した。彼女は渋い顔になったが、背に腹は代えられない。
「あの……ブ、ブラジャーは、どうすれば……」
紫色の眼が、赤面している葉子の胸を見た。
「サラシを巻けばいいじゃないの。包帯があるから使いなさい。貴女の胸が大きくなくてよかったね」
男は淡々とした様子で言うと、「お風呂から上がったらこれを着て」とパジャマを棚に置いて、またどこかへ行った。
「はああ!?」
葉子は怒気を含んだ声を上げた。
「胸が小さくて悪かったわね! 私、グラドルみたいに大きくないし……」
「何怒ってるの? 一人で巻けないのなら、私が手伝うけれど。大丈夫?」
廊下からひょいと顔を出して、彼が見る。
「自分一人で大丈夫です!」
「そう。じゃあ私、包帯持ってくるね」
彼の足音が遠のいたのを確認して、葉子は脱衣所へ向かった。カーテンで仕切った向こう側には、スズランが丸くなっている。
服を脱ぎ始めたが、男に覗かれないか内心不安だった。
「念の為よ。スズランに番犬してもらうもんね!」
当の子犬は、むにゃむにゃ言いながら寝ている。
彼女は服を脱ぎかけて、はっと思い出す。あの葉っぱのことだ。
「これだけは、無くさないようにしないと……」
葉子はキラキラ光る葉っぱを、ブラジャーのホック部分に引っかけていたのだ。彼女がそれを外そうと、背中に手を伸ばしたのと同時に、向こうから歩く足音が聞こえてきた。
「藤山葉子。包帯、ここに置いておくから」
すぐそばで男の声がすると、カーテンの向こうに、カゴに入れられた包帯が置かれた。
タオルで胸を隠しながら、「絶対覗かないでよ!?」と叫んだ。彼はため息を吐き、「覗きません」と言った。
「そうだ。貴女、お腹空いてるでしょ。簡単なもの用意しておくから」
「え」
「スズラン、この子が上がったら案内お願いね」
「もふんっ」
葉子は驚いて、脱衣所のカーテンを開けた。この男は食事まで用意してくれるのか。
突然下着姿で現れた彼女に、一瞬彼は驚いた。だが両目でじっと睨むと、
「お前は一体どうしたいの?」
それだけ言うと立ち去った。
葉子は赤くなると、カーテンを閉めるなり着ていた物を全部脱いで、風呂場へ駆け込んだ。そのとき、うっかり葉っぱを落としたことに、彼女は気付かなかった。
「あの人、目が怖い……」
時々、目付きが鋭くなるからだろうか。フローラとは別の意味で怖いと感じる。
そのあと、葉子は男が用意してくれた石鹸で髪と身体を洗った、湯船に浸かると、お湯の温度が丁度よく、体の芯からほっこり温まる。
異世界といえども、風呂場には水道も通っているらしくシャワーも使える。あまり日本にいたときと変わらない印象だ。
「いいお湯だったー」
上機嫌でタオルを手に取ると、彼女は身体と髪を拭いた。用意された下着を履いて胸にサラシを巻くと、パジャマを着た。男物だからか、サイズは大きめだった。
「スズラン」
名前を呼ぶと、耳をピクリと動かす。毛玉が身を起こした。
ふと、今は何時なのかと気になった。時計が見当たらないので時間が分からない。
葉子は子犬と一緒に廊下を歩いていると、「やっと上がったのぉ」と呼びかけられた。
そちらを見ると、紫髪の男は頬杖をつきながら、椅子に座って何かを飲んでいた。部屋にはテーブルとキッチン、食器棚などがある。
「お風呂ありがとうね」
葉子はお礼を言ったあと、身を固くした。先ほどから男の目が据わっている。
スズランはトコトコ歩いていくと、テーブルの下で丸くなった。彼は目を閉じると、「これパンとスープ」とテーブルの上を指差し、グラスの中の酒をあおった。
「ありがとう。それで、今何時なの?」
葉子は椅子に座るとパンを頬張った。これは素朴な味だ。
「んふふ……! とっくに日付変わっちゃってるのぉ。あんた一時間も入ってたよ」
「嘘!? ごめんなさい……」
慌ててスープを掬って飲んでいると、紫髪の男がくつくつと笑い始めた。葉子はスプーンを持ったまま、向かいに座っている男を見つめた。
彼はグラスに酒を注ぐとあおった。笑いを噛み殺しながら、さらに次もあおる。スズランは、彼女の足元にくると、「ふあーん」と小さく鳴いた。
急に真顔になると男は、
「今日は、ここで寝てちょうだい。ソファーで悪いけれど」
ソファーの上の毛布と枕を指差すと、「これ使って」と言った。手早く酒瓶を棚に片付け、
「それ食べ終わったら、食器はテーブルの上に置いたままでいいよ。後で洗うから。それじゃあ私――」
洗面所へ向かおうとする後ろ姿に葉子は、「あの、お手洗いの場所は……」とおずおずと聞いた。彼は頭を傾けると、「こっち」と指し示した。しかし、そこは壁だった。
「違った。あっち」
葉子は男の後ろを付いていく。トイレは洗面所のそばだった。
「ありがとう。それであなたの名前、何て言うの?」
さらなる質問に、紫髪の男が動きを止めた。低く、「私の名前?」と呟いたのが葉子の耳に入った。
「そうよ。まだ聞いてなかったよね? 名前が分からないと呼びにくいなって……」
男は逡巡しているのか無言だ。葉子は彼の顔を窺おうと回り込んだ。同時に、虚ろな目が彼女を見下ろした。
二人の間に静寂が訪れる。紫色の眼は葉子を見つめていたが、しばたたかせると今度は宙を見た。
(もしかして、フローラちゃんと同じパターンかな)
葉子が不安げな表情を浮かべたところで、男はやっと名乗った。
「エーデル……」
彼は暗い顔で、洗剤を棚から取り出した。
「貴女は早く寝なさい」
葉子は男の後ろ姿を眺めていたが、やがて微笑んだ。
「今日はありがとね。エーデルさん」
お礼を言うと、彼女はその場から離れた。
紫髪の男は
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