8 街でエンカウント

 男の声に、エルピスは顔を上げた。

 その表情はまるで、恐ろしい怪物が跋扈している迷宮の出口を見つけたような、そんな喜びに満ちていた。


藤山葉子ふじやまようこさん、何とかなるかもしれません!」


 少年はそう言うと、声の主がいる広場の方へ駆けて行った。その後ろ姿を葉子はポカン、と見つめる。


「もぉ~エルちゃん! 帰りが遅いから、私もあの子たちも心配してたのよぉ~!」

「それはすみません……」


 男はにっこり笑うとエルピスの髪の毛をわしゃわしゃと、まるで犬を撫でるように触った。少年は、「わ、わあっ!」とくすぐったそうにしている。


 葉子はスズランとともに、しばらく二人のやり取りを眺めていたが、「エルピス君。それでさっきのことなんだけど……」と遠慮がちに声をかけた。そこで男は彼女の存在に気付いたようだ。


「エルちゃん。この子、誰」


 男の視線が、ヘビのように葉子にまとわりついて、捉えた。


「初めまして。私は、藤山葉子と言います。エルピス君とは最近知り合って……」


 葉子は自分の名前を言うと、彼に頭を下げた。


「藤山って……ああ。貴女が担当するって言っていた――」

「!! ちょっと失礼します!」


 ドスッゴスッ! エルピスの拳が二発、続けざまに男の鳩尾みぞおちに入った。


「お゛お゛ん゛っ!」

「この方のことで、あなたにお願いがあるのです」


 男が身体を戦慄わななかせた。

「ふううっ……」と唸ると歯を噛み締め、彼は行き所のない怒りを両手に込めた。   

 一呼吸するとエルピスをひと睨みしたが、やがて何事もなかったように髪をかきあげた。


「それで、何?」


 先ほどのエルピスの動きが素早くて、葉子には見えなかった。何やら男が痛がっている様子だったが、今は何ともないようだ。

 少年の知り合いをまじまじと見た。彼は細身で整った顔立ちだ。年齢的に葉子より少し上だろうか。声と背丈からして男性であるのは違いなかったが、口調はどこか女性的だった。


「実は……」


 エルピスは葉子と男の間に入ると、かいつまんで事情を説明した。

 男は黙って聞いていたが、葉子に視線を向けると、若干戸惑いを見せているようだった。


「ちょっと……。流石にいきなりすぎるんだけれど」


 そう言って彼は、空を見やった。夜空には、月が浮かんでいる。

 エルピスが、「すみません。今夜はどうか、彼女たちを泊めてあげてくれませんか」とお願いしている。


 スズランを抱いている腕が痺れてきたので、葉子は一旦、地面に下ろした。子犬は、「もふーん」と鳴くと彼女の足元で丸くなった。

 男は明らかに困っている、と葉子は感じた。いくら知り合いの頼みでも、いきなり全くの他人を自分の家に泊めるのは、抵抗があるだろう。


 葉子はスズランに、「行こっか」と小さく呟くと、再び抱き上げる。子犬は、「もわーん」と返事した。


「エルピス君。これ以上、君に迷惑かけるわけにはいかないわ。そこの人もすみません」


 二人に頭を下げると、その場から歩き始めた。ところが、  


「小娘、待ちなさい」


 背後から男が言葉を発した途端、葉子の足が止まった。


(あ、あれ……?)


 何故だろうか。足が、一歩も動かない。まるで、石のように重たくなったようだ。


「貴女は無理だけれど、その子なら一晩泊めてあげる」


 紫髪の男は葉子たちのそばまで歩いてくると、「ほら」と両腕を伸ばした。

 子犬は葉子の腕の中で、「くーん……」と鳴いている。その様子を見ていたエルピスが慌て始めた。


「そんな! どうかその方も一緒にお願いします!」

「いくらエルちゃんの頼みでも無理」


 彼は素っ気なく言うと、葉子からスズランを受け取って片腕で抱いた。子犬は、「ふもーん」と鳴いた。


「それで、この子の名は?」

「スズランです」


 彼女の言葉に、「そう……」と男は呟いて子犬を撫でた。スズランは、「わふ」とくすぐったそうにしている。


「ふーん……。藤山葉子、貴女はまるで捨てられた子犬みたい。可哀そうに! 行くあてもお金も無いんでしょ? 早く飼い主を見つけないとねぇ」


 彼は憐むような表情で見つめる。

 葉子は、紫髪の男の態度がまるで見下しているようで不愉快だった。キッと相手を睨むと、彼は口元にうっすら笑みを浮かべた。


「安心してちょうだい。この子は、ちゃあんと私が見ます。お金も取らない。可哀そうな小娘をいじめるほど、私は暇じゃない」

「可哀そうって……。別にあなたにそう言われる筋合いありません」

「ああ……二人とも」


 睨みあう葉子と男を見て、エルピスがおろおろしている。


「そろそろエルちゃんも帰らないと。ほら、私が送っていくから」


 彼はそう言って、抵抗する少年を肩に担ぐと歩き始めた。

 そのとき、葉子には二人と一匹の影と、周りの街明かりが揺らめいて見えた。


「うわああん! 藤山葉子さん、ごめんなさい~!」

「くーん! もふわーん!」


 エルピスとスズランが、つぶらな瞳を潤ませながら、男の肩越しで泣いている。

 彼は眉間にしわを寄せ、「まるで私が悪者みたいじゃない……」とぼやいたのが、葉子の耳に入った。


「エルピス君、今日はありがとね。そちらの方も、スズランをお願いします」


 葉子は二人に向かって、深々とお辞儀した。今の彼女には、こうする以外何も出来なかった。せめてスズランだけでも暖かい場所で過ごさせてあげたい。

 一瞬だけ男が降り向いた。そのうち、エルピスとスズランの泣き声は、雑踏の中へと消えていった。


 その場に取り残された葉子は、行くあてもなかったので街の中をぶらつき始めた。おしゃれなカフェ、レストラン、宿屋、花屋に何かの集会場――。

 異世界の文字が読めなかったので、おおよその雰囲気で感じ取った。それらをぼんやり眺めながら、彼女は今晩寝れそうな場所を探した。

 ふと、どこからかいい匂いが漂ってくることに気付く。ぐうう、と小さくお腹が鳴った。


 街の明かりがあるとはいえ、すでに周りは暗かった。今は何時だろうか。

 路地裏に入った所で、今夜寝るのに丁度よさそうな場所を見つけた。布切れが何枚か積んであったのだ。


「やった!」


 彼女は小さくガッツポーズをした。もはや無一文である彼女は、寝場所に文句など言ってられなかった。

 もし、この場所の持ち主が現れたら、素直に謝ってここから立ち去ろう。そう考えながら葉子は地面に座ると、布を数枚掛けて足を伸ばした。万が一のことも考え、横にはならなかった。


 ふう、と息を吐いて目を閉じた。遠くから、街を行き交う人々の足音や喧騒が聞こえてくる。

 今夜は思っていたほど寒くはなさそうだ。今日のことで彼女は疲れてしまって、すぐに眠れそうだった――。


「葉子さん、見つけました!」


 突然の声に、身震いする。


(今のは――)


 葉子は顔を上げ、辺りをきょろきょろした。すると、路地裏の向こう、闇の中に金髪の女の姿が見えた。


「フ、フローラちゃん!?」


 驚いたあまり、声が裏返ってしまった。

 彼女は水を汲みにどこかへ行った後、突然地震が来て葉子とスズランは住む場所を失ってしまった。そしてエルピスと再会し、こうして今は彼とともに街までやって来た。

 色々あって、葉子は街中で野宿することになった。だがフローラも、ここにいるとは思ってもいなかった。


「葉子さん、ひどいですぅ……! 私を置いてどこかへ行ってしまうなんて。一体、誰の仕業です?」


 フローラは目を潤ませながらそう言うと、葉子の元へ近付いてきた。


「さあ、葉子さん。一緒に帰りましょう? 私たちの家へ」


 そう言って金髪の女は、葉子へ手を伸ばした。

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