5 前兆
しかしその後、突然彼女は床に座り込んで泣き出した。葉子はその様子を見ながら、スズランを抱きながらおろおろする。
「ごめんなさい! やっぱりさっきの痛かったんじゃないの? えっと……この家って痛み止めの薬ってあるのかしら?」
フローラは、葉子が話しかけても無反応だった。俯いていたので表情も解らない。
葉子はスズランを椅子の上に乗せると、「そこで待っててね」と言って家の中を探し始めた。しかし、すぐに動きを止めた。
背後から、床に散らばっているガラスの欠片を踏む音が聞こえる。次の瞬間、彼女の両肩に色白の手が乗せられていた。
「フローラちゃん?」
何故だろう……嫌な予感がする。おまけに息もしにくい。葉子の背中はひんやりと、少しずつ冷たくなっていくようだった。
すると背後から色白の右手が、無言で葉子の首筋へ伸びていた。
「な、何のつもり」
金縛りのように身体が動かなかったが、葉子はかろうじて顔を動かし、そろそろと後ろへ振り向いた。
そこには満面の笑みのフローラ――もとい女神アーテーの顔が、彼女の肩越しにあった。
「ねえ、葉子さん。本当に、嘘じゃありませんよね? 私たち……友達、なんですよね?」
アーテーはふわりと浮かび、空中を移動すると葉子の前に立った。潤んだ瞳は上目遣いになり、艶やかな唇は甘えたような声を発した。
「嘘なんて言って、私に何のメリットがあるの?」
葉子が困惑気味に言いかけたそのとき。アーテーは、色白の指で葉子の唇を優しく触った。
「友達なんて、生まれて初めて」
葉子の両頬を触りながら、アーテーの口元に笑みが浮かぶ。
「だって、私……。ずっと……」
束の間、女神の目は闇のように真っ暗だった。その後まつげをしばたたかせて、目を閉じた。
「葉子さんがそう言ってくれて、とても嬉しいです……」
「なるほど……。あなたの初めての友達なのね」
「はい。だからあなたと恋人になれて、私はとってもとっても幸せです。それでは今すぐ結婚しましょう! 式はどこで挙げます? これからこの家が、私たちの愛の巣です!」
そう言うとアーテーはうっとりしながら、葉子の後頭部に腕を回すと唇を近づけてきた。
「葉子さんとディープキス……。私がたぁくさん気持ちよくしますからね? うふふっ」
「何で! そうなるのよ!」
葉子はそう言うと、アーテーの腕を振りほどいて勢いよく投げた。その勢いで女神はそのまま空中に浮かび、ぽかんとしたまま漂っている。
スズランを抱き上げると、彼女は女神に言った。
「あなた、私は友達と言ったのよ。なのに、何でそんないきなり、キスとかしようとするの?」
「はい? だから私は、あなたの恋人としてこれから愛し合い……」
「違う! 何で恋人なのよ」
「え? 私たち結婚するんですよね?」
「違う! 友達だって!」
アーテーは段々困り顔になっていた。
女神の頭の中では、友達=恋人になっていたからだ。おまけに恋人になった瞬間から結婚するという流れになっていた。
「葉子さんの言う友達って何なんです? 一日中、私に愛されることではないのですか?」
「何だろう……頭痛くなってきた」
葉子は、不思議そうに尋ねる女神に一瞥すると、再びスズランを椅子に乗せ床に座り込んだ。子犬は困ったように、「くーん」と小さく鳴いた。
「ねえ、女神様。あんた、友達を誤解してる」
「は、はあ……」
「あなたはどういう教育受けたのか知らないけど。やっぱり人間じゃないから、価値観とか色々違うのかな……」
「ええと……?」
アーテーは、葉子が頭を抱えているのを見て、段々落ち込んできた。先ほどまで天に昇るくらい嬉しかったのに、自身の発言で何やら彼女を困らせていると思ったからだ。
物憂げな表情を浮かべた女神は、ふわっと光に包まれるとメイドの姿――フローラへと戻った。
「すみません、葉子さん。少し失礼します」
フローラはそう言うと、葉子の頭に自身の手をかざし始めた。
「私、友達というのがよく分からなくて。てっきり恋人と同じと思っていたのですが、どうやら違うようですね……」
「フローラちゃん……」
「あなたの思い出を少しだけ見させていただきました。友達って、温かいのですね」
葉子の頭をひとなですると、フローラはぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「ありがとうございます。こんな私を、友達と言ってくれて」
椅子の上に丸くなっていたスズランは、静かに二人の様子を眺めていたが、ふいに鈴のような音が聞こえると座り直した。
「くーん」
「あれ……?」
葉子の耳にも、鈴の音がかすかに聞こえたような気がした。
首を傾げる葉子に、フローラは不思議そうに聞いた。
「葉子さん?」
「フローラちゃん、何か聞こえない――」
葉子がそう言いかけたとき、柔らかな風が一枚の葉っぱと共に家の中に入ってきた。それが葉子の顔にぶつかると、ひらひらと足元へ落ちた。
(これって……あのときの――)
それはあの晩、駅のホームで見かけた、キラキラと光る葉っぱだった。
「葉子さん? 変な物を拾っては駄目ですよ」
フローラが葉子より先に、その葉っぱを拾おうとした。その瞬間。
凄まじい風が家の中を吹き抜けた。その勢いに葉子は思わず、床に転んでしまった。
「わぷっ!?」
「きゃっ」
葉子もフローラも、同時に驚いたように声をあげた。唯一スズランだけが、依然として椅子の上で座っている。
「何なのよ!? 今のは……」
風に煽られて乱れてしまった髪を整えながら、葉子はぼやいた。起き上がって家の中を見渡すと驚いた。
あれだけの突風にも関わらず、家の中は散らかっていない。おまけに、今しがた掃除されたかのように綺麗だったのだ。床に散らばっていたガラスの欠片もすっかりなくなり、割れた窓も元のように戻っていた。
「え? 何で……」
続いて自身の右手に違和感を感じた。いつの間にか葉子の右手には、何かが握られている。怪訝に思いながらそっと手を開くと、先ほどの葉っぱだった。
それ自体はガラス細工や宝石のように見えるが、それでいて植物のようで、不思議な雰囲気を持っていた。おまけに軽く、手のひらに乗るくらいの大きさだった。それを葉子は、まじまじと眺めて呟いた。
「やっぱり、これ綺麗ね……」
少し離れたところで、フローラが真顔になって見つめていることに気付いていなかった。
「……」
フローラは葉子から視線を外して目を細めると、椅子に座っているスズランをひと睨みした。子犬は金髪の女の視線を気にせず、「もわーん」とあくびをしただけだ。
次にフローラは、玄関のその向こうにある森の方へ顔を向け、しばらくそこを睨んでいた。
再び葉子の方へ視線を戻す。彼女はまだ、葉っぱを眺めていた。フローラは立ち上がり葉子のそばへ行くと、
「葉子さん。それ、捨てた方がいいんじゃないですかぁ? きっと危ない物ですよ! ねえ、私に渡してください。しっかり処分しておきます!」
そう言って手を差し出した。
「ここに乗せてください!」
葉子は未だ床に座ったままだったので、顔を上げてフローラを見やった。目の前にいる女はにこりと微笑んでいる。
「さあ、葉子さん?」
右手に持っている葉っぱとフローラをを交互に見ながら、葉子は小さく首を横に振った。
「これ、持っていたいの」
彼女は顔を俯けると、右手を守るようにそっと左手で包み込んだ。フローラは瞬きもせず、真顔で葉子を見つめる。
「……あなたが気に入ったのなら、それでいいです」
フローラはそう言うと、外へ出て行こうと玄関へ向かった。
葉子は気になって、「どこへ行くの?」と聞くと、
「水を、汲んできます」
それだけ言うと、金髪の女は出かけてしまった。
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