4 スズラン
すやすやと眠っている毛玉の頭を撫でながら、その背中にそっと自分の顔を埋めた。犬の方もふすふすと鼻を鳴らし、体を寄せてきた。彼女は思わず、子犬をぎゅっと抱きしめた。
「ふわふわで、温かいわ……」
ぼそっと呟く。何とも言えない幸福感が、葉子を包み込んでいく。
同時に寂しさが、ふつふつと胸の中で広がっていく。すると一滴の涙が、目から溢れ流れた。
(現実の私はもう……いないのね)
改めてそう思うと、また、涙が溢れてきた。ぎゅっと目を強く閉じ、顔を仰ぐ。
(ごめんなさい。母さん、父さん……! 私、死んじゃったみたい!)
今年の夏、両親に会いに実家へ帰ろうと思っていたが、結局仕事の都合で叶わなかった。
そういえば実家で飼っていた愛猫は、どうしているかしら。あの子ももう年だし、元気ならそれでいいんだけれど……。
会社の同僚や後輩はどうしてるかな。学生以来の友人とは、しばらく連絡取ってなかったな。
とりとめないことが、彼女の頭の中に次々と浮かんでは、消えての繰り返し。しまいには、葉子は子犬を抱きながら、ぽろぽろと涙を流していた。
どれくらい泣いていただろうか。時間の感覚が、数分か数十分なのか、彼女には分からなかった。
嗚咽まじりにすすり泣いていると、涙が一粒、ぽたりと毛玉の背中へ落ちた。その瞬間、子犬の耳が、ピクリと動いた。
葉子は慌てて子犬を地面に下ろした。そして数歩離れ、しゃがむと鼻をすすって服の袖で涙を拭った。
「くーん」
少し離れたところで子犬が首をもたげ、葉子を見つめている。
「ごめん、ちょっと待ってね」
葉子が泣き笑いすると、組んだ腕の中に顔を伏せた。
子犬はそんな葉子をしばらく見ていたが、やがてトコトコ歩いてきて、ぺろりと舌を出した。そして前足を彼女の膝に乗せ、頬を伝う涙をなめた。
『大丈夫、わたしが一緒にいるから――』
そう言いたげに、子犬はじっと彼女を見つめている。そのいたいけな瞳に、葉子は勇気づけられるような気持ちになった。
「ありがと……」
葉子は手を伸ばし、子犬を抱きしめる。毛玉は小さく、「わふんっ」と鳴いた。
ほどなくして、立ち上がると空を仰ぎ見る。太陽の光は優しく、彼女たちを照らしてくれていた。
(これからは、この子と一緒にこの世界で生きていく)
葉子は目を閉じながら、そう心の中で決意を抱いた。そしてくるりと踵を返し、家の方へと歩いて行く。
道中は子犬の名前のことで会話をしていた。
「あのね、あなたの名前なんだけど。いくつか候補があるの」
毛玉が、何々? という風に顔を傾げて葉子を見ている。
「女の子ってあの少年が言ってたわね。だから、あなたにぴったりなかわいい名前を付けようと思うんだけど。ね、ジョセフィーヌ」
「くくーん?」
子犬は、いきなり名前を呼ばれたことに困惑したような声を出した。次に首を傾げた。わたしの名前、いつの間にか決まってる? と言いたげな表情だ。
そんなこんなで、葉子が子犬に話しかけているうちに家の玄関先まで帰ってきたらしい。そこでつい、立ち止まる。
(そういえば……)
犬のことで頭がいっぱいだったが、もう一つ問題があった。あの女神のことだ。
(フローラちゃん、あれからどうしてるかしら)
朝のことを思い出すと、どうにも気まずい。スキンシップが多く、自分に対して愛の重い女神……。
「はあ……」
思わずため息を吐いた。自分はどんな顔をして、あの子と接すればいいのか。
するとカタリ、と音がした。彼女は音のした方へと顔を向ける。
そこには割れた窓ガラスと、窓枠の向こうからぼんやり、外を眺めている金髪の女がいた。
その女は、死んだような目をしていたが、葉子が家に帰ってきたことに気付いた途端、ぴたりと彼女の方へ顔を向けた。女の濁った目は、まっすぐ彼女を捉えながら、やがて口元に微笑を浮かべた。
「ぎゃっ!」
葉子は驚いて、声を上げてしまった。まるでホラー映画に出てくる幽霊のようだったからだ。その拍子に、うっかり子犬を落としそうになった。
すると、向こうは何故か顔を赤らめながら、下へと消えていった。子犬は目をまん丸にして、金髪の女を見ていた。
「ごめんごめん、エリザベス。びっくりさせちゃったわね……」
葉冷汗を流しながら葉子は、一つ深呼吸をして息を整える。子犬は、彼女と先ほどの金髪の女がいた窓付近を交互に見ている。
まだ、動悸が治まらない。葉子は何度か深呼吸を繰り返した。そうこうしているうちに、次第に落ち着いてきた。
「ラスボスはここにいるのよ……」
どうでもいい独り言を言いながら、白い毛玉を抱きしめた。ラスボスってなあに? と言いたげに、子犬は見つめていた。
意を決して、彼女は玄関のドアノブに手をかけた。そして、ドアを開けながら――。
「たのもー!」
踊り出るように、家の中へと踏み込んだ。
と、その声に驚いてなのか、家の奥の方から、「ひゃっ」と間の抜けた声がした。子犬は再び、目を丸くして葉子を見上げていた。
「わっ! 驚かせちゃったみたいね。マリー」
子犬はさっきからマリーだの、エリザベスだの、名前を呼ばれ若干混乱している様子だった。
葉子は、子犬の頭を優しく撫でながら言った。
「ここが、今日からあなたのお家よ。よろしくね、スズラン」
スズラン――。
先ほどまでとは違う言葉の響きに、子犬は何か感じるところがあったらしい。その途端、しきりに葉子の胸元に顔をこすり始め、むにゃむにゃ言い始めた。
「あなた、この名前がいいの? スズランでいいの?」
こくり。子犬はつぶらな瞳を真っすぐ、彼女へ向けながら、しっかりと頷いた。
「それじゃあ、スズラン。今後ともよろしくね!」
そう言って、再び子犬の頭を撫でる。スズランは嬉しそうに、「わふっ」と鳴いた。
その様子を物陰から見ていた金髪の女が、葉子と子犬の元へにじり寄ってきた。
「あ、あのぅ……」
女は気まずそうに葉子から目線を逸らしながら、しかし子犬にはしっかり照準を合わせながら、おずおずと近寄ってきた。
「その犬はどうしたのです? 浮気ですか? そもそも、犬は私からプレゼントするって言いましたよね? あれ、言いませんでしたか。そもそもそれは、あなたの好みですか。私ならあなたの欲しいものをプレゼントしますよ。本当にその犬でいいのですか? いいんですかいいんですね。そうですか……」
色白の指先を口元に持っていきながら、金髪の女はしどろもどろになっている。時おり、「そうですかぁ……」と宙を見上げながら、一人呟く。
「フローラちゃん……。顔は大丈夫?」
葉子が戸惑いながら女の名前を呼ぶ。すると、フローラと呼ばれたものは、
「はあい! おかげさまで私は元気ですよ。ふふっ……私だけの葉子さん」
先ほどの様子とは打って変わり、可憐な花のように微笑んだ。つられて葉子も微笑んだ。ちょっと言葉の端に引っかかりはしたが。
しかし次の瞬間、彼女が抱いている子犬を細目で睨む。
「それで葉子さん。この毛玉は」
「ああ、この子ね。さっき親切な人から譲ってもらったの」
「親切ぅ~? その人が、あなたにご迷惑おかけしませんでしたか? 怪我はしていませんか? かすり傷の一つでもあると大変ですね。私が服を脱がして、よく確かめないと」
「そんなことないわよ。というか私、怪我なんてしてないから」
「そうですかぁ? ふーん」
「そうよ。それにね、この子以外にもたくさん子犬がいたのよ。みんな可愛かったわ!」
「つーん」
何故だろうか。フローラはスズランに対して、何だか友好的ではないような印象がある。
「それでね、この子の名前はスズランっていうの。今日からここで、一緒に住むのよ」
「は、はあ……。そうですかぁ……」
フローラは、子犬をじとっと見ると、そのままふいっとそっぽを向いた。
「さあ、スズラン。フローラちゃんに挨拶よ」
「葉子さん、そんなのいいですよぉ。私、犬はちょっと……」
「もしかして苦手?」
「そ、そういう訳では……」
葉子とフローラのやり取りを見ていたスズランは、あくびをするように、「もふーん」と鳴いた。
「くすっ! 何ですかぁこの犬。ふふっ。随分と間の抜けた鳴き声ですねぇ!」
そう言うなりフローラは、ずいっとスズランに顔を近づけた。そして、右手の人差し指を子犬に向ける。
「フローラちゃん?」
葉子が戸惑い気味に言うのをよそに、フローラは両目をカッと見開き、スズランを見下ろしながら、
「葉子さんにお似合いな犬は、この私ですよ! お前みたいな毛玉、私がブラッシングして綺麗にしてあげるんですから!」
「な、何言ってるのよ、あなた」
「ねえ、葉子さん。この毛玉に色々としつけが必要ですよ」
「そうかしら。何だかこの子、その必要がなさそうなの」
「それに……葉子さん。私もあなたの犬ですぅ。たくさん躾けてくださいね? ね?」
「嫌よ。どうして友達にそんなこと」
「きゃうぅぅん!」
フローラは仰け反ると、両腕で自身を抱きしめた。
「葉子さあぁぁん! 私では駄目なんですかぁぁ!」
その気迫に、葉子は思わず一歩後ろへと下がった。
フローラは、ひとしきり雄たけびを上げると、今度は頭に疑問符を浮かべながら、葉子を見つめてきた。
「どうしたのよ。というか、あなた大丈夫? 大丈夫じゃない? 一旦休む?」
「今……友達と言いました? あの、私が、葉子さん。あなたの?」
「そうよ。何か変なこと言った?」
フローラはきょとんとしていたが、次第にその目からは涙が溢れていた。
「いいのですか? 私が、あなたの、その」
「どうしたのよ、急に!」
葉子がおろおろとするそばで、フローラはさめざめと泣いていた。その様子をスズランは、葉子に抱っこされながら静観していた。
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