第8話 天下安寧を目指す道

敗軍の将とはこれほど情けないものか。信長には今まで戦の先頭に立って負けた経験はなかった。仲間と鷹狩りや戦の訓練と称した遊び事はやったが、誰かが死ぬということももちろんなかった。尾張をまとめるため、策を弄して人を殺めても、これほどまでに後悔と悔しさとがないまぜになった感情を持つことは初めてだった。自分自身のこの感情をもはや自分で押さえられなかった。

 城に戻ると、負傷した兵を心配して見守る兵達の家族が待っていた。兵達の妻や子、年老いた母親や父親が涙ながらに帰還した兵と抱き合い、無事に会えたことを喜んでいた。必至で身内を探す者もいた。信長はこの光景を忘れまいと心に焼き付けた。

 武具を脱ぎ、麻の着物に袖を通した信長は妻が待つ仏間に入った。父親にも申し訳が立たぬという思いもあった。

 「ご無事で何より。」

静かな調子で濃姫は座ったまま迎えた。信長はここでようやく我に返り、濃姫を愛おしく思った。濃姫がいて心が安らいだことは初の体験であった。そして濃姫の正面に頽れるように座った。

「濃よ、済まぬ。親父殿を助けられなんだ。」

その声は悔しさとともに何もできなかった自分への情けなさに満ちていた。

「戦に生きる者は戦となれば死を覚悟して戦うもの。その妻や身内の者も、戦に出ていけばそれを覚悟しているのです。それよりも、あなた様が戻ってこられたことが何よりの吉報です。」

「吉報?」

信長には意味がわからなかった。

「そうです。父、道三はもはや、戦に強くとも家臣の多くが離れてしまっていては先が見込めませぬ。そしてあなた様は道三の意志を継ぐ者として、これから生きていくのです。私はそれにふさわしいと思ったからこそ、今ここにいるのです。」

濃姫とはここまで心の強い女子であったか。信長は今まで打ちのめされていた心でどうしようもなかったが、負けてはおられぬと思った。

「濃よ、私はこれまでうつけと言われてきた。我が父、信秀を失ったとき、どうして自分を戦で先頭に立たせてもらえなんだか、そうすれば父を死なせずとも良かったのではなかったか、悔しかった。もっと良い合戦ができたのにと。だが、ワシの気持ちは誰にもわかってはもらえなかった。ただひとり、わかってくれていたのは平手の爺だけであった。ワシと他の家臣達との板挟みになり、ワシに気持ちはわかるが、もう少しおとなしくせよと、諭してくれたのだ。だが、今ならわかる。もし戦の先頭で戦に出ていても、父、信秀は救えなかったであろう。私の実力などたかがしれていたのだ。道三殿を救えなかったのも当然のことじゃ。」

さらに信長は続けた。

「ワシは義龍を討つ。あやつはワシとの約束を破ったのじゃ。あれほど戦はせぬといったのに。この信長は道三殿より、美濃を頼むと言われてきた。義龍を討たねばワシの気持ちは収まらぬ。」

その言葉にキッとした目で濃姫は話を遮った。

「信長様、あなた様はなんのために戦をなされる?」

意外な言葉に信長は答えに戸惑いつつ、問い返した。

「そなたは父の敵討ちを望まぬのか?義龍に恨みを抱いていないとでも?」

濃姫は少し笑っていた。

「あなた様はやはりうつけでしたか。あなた様は尾張をなんのために平らかにしようとしたのですか?美濃をとったとしてその後はどうなされる?西には六角もおります。東は今川、武田、そして南には都にも通じている北畠もおりまする。それらと戦わねばなりますまい?美濃をとったところで、今のあなた様には変わらぬ戦の日々が続くだけです。」

信長はその言葉にはっと我に返った。そして道三の言葉を思い出した。

「領民を安心させて暮らさせさせるには、海が欲しい。そして富をえることによって国を栄えさせるのじゃ。」

そうだ、まだまだ尾張も美濃も民は苦しんでいる。道三の役割を引き継がねばならぬのだ。

「信長様、天下を動かすのです。そして誰も戦で死ぬことがない、親子や妻子が悲しむことのない世の中を、あなた様が創るのです。」

 力強く、しっかりとした声で濃姫は信長を見た。

「天下か。濃よ、お前は強い女子よの。」

それに応えるように信長は濃姫を抱きしめた。

 

一方、伊勢の地では、道三の死の知らせを聞き、もう一人の男が天下を憂いていた。北畠具教である。


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