2/2 とある脳科学者の独白

 数年が経ち、雅己が劇団でそこそこの活躍をするようになった頃、小さな劇場が焼けた。

 照明器具の管理が甘かったことによる発火だった。ちょうど舞台に上がっていた雅己は、袖のほうから迫ってくる火に立ち尽くしてしまった。

 観客も役者もこぞって出口へ急いでいた。その波に取り残されたまま、雅己は炎を見つめた。

 母と“鈴木さん”が手招いているような気がした。じりじりと近づいてくる熱に、暖かな家族の光景を思い描いた。

 炎の方へそっと一歩を踏み出したとき、雅己の腕を誰かが掴んだ。


「おい、何やってる。逃げるぞ」


 くぐもった低い声。火の中にいるとは思えない冷静なトーンだった。

 振り返るとそこには大柄な男がいた。鋭い視線は、彼が数々の死線を潜り抜けたことを物語っているかのようだった。

 雅己が応じるよりも先に、彼は雅己の身体を小脇に抱えて駆け出した。

 常人離れした力とスピードに、雅己は目を白黒させるしかできなかった。


「まあまあ、人には逃げない権利だってあるじゃないか。誕生を拒否することができないなら、生存を拒否することぐらいさせてやればいい」


 そんな言葉が聞こえて初めて、この男が抱える人間が自分一人ではないことに雅己は気づいた。

 もう片方の腕に納まっていたのは長い髪を雑に束ねた女性だった。その目の下には隈が染みつき、かなりの疲労が読み取れる。

しかし彼女はずっと楽しそうに笑っているのだった。


「死なれる側の苦労はお前が一番知ってるだろ」

「だからこそさ。死なれた側の人間として、彼の気持ちはよく理解できる」


 雅己の顔をじっと見つめて彼女は言った。


「数年前、この辺りで火災が起きた。男一人と女二人の遺体が見つかった。それらは住人のものと推定されたが、その屋敷にはもう一人住んでいたはずだった。齢十余りの少年が」


 炎は段々遠ざかり、外の光が徐々に見えてきた。暗い劇場に慣れた雅己には、光に照らされる彼女が眩しく思えた。


「遺体で見つかった三人は、同じ場所で暮らしていながら血の繋がりはなかった。三人の共通点はただ一つ、とある劇団の関係者だったということだけ。そう、今日ここで公演をした劇団のね」


 大通りへ出て男は二人を下ろした。劇場は今にも焼け落ちそうだった。遠くから消防車のサイレンが、何重にも重なって聞こえてきた。


「君がその少年なのだろう?」


 女は確信したような笑みを浮かべた。

 雅己はどう返せばいいか分からなかった。初対面であるはずなのに素性を把握されているというのは、ひどく落ち着かない気分だった。


「別に大した推理じゃない。この地域の新聞の過去数年分の記事を全部頭に入れてきたんだ。何か役に立ちそうな気がしてね。それに、他人の年齢の推計は容易い」


 得意げな女の語りを制止するかのように、男が大きく咳ばらいをする。


「とにかく、俺たちはもう帰るぞ」

「待て待て。彼をここに置いていくというのか?」


 すかさず女が引き留めて、男は明らかに嫌そうな顔をした。


「はあ? お前こそ、こいつを連れていくとか言うつもりじゃねえだろうな」

「おや、流石真上だな。私のことをよく理解している」


 女は男の威嚇を涼しい顔で受け流した。男は大きく頭を振ったが、諦めたのかそれ以上は何も言わなかった。


「ちょうど人手が欲しかったんだ。帰る場所がないなら、うちに来てくれないか」


 そうして差し出された白い手を雅己はただ見つめる。その困惑が伝わったのか、女は慌てて続けた。


「ああ、怪しい誘いじゃない。ただ人の子の面倒を見て欲しいだけだ。ええと」


 どれだけ言い募っても顔が強張ったままの雅己に、彼女はあたふたとした。見かねて男が口を出す。


「お前が自己紹介もせずにべらべら相手の素性を喋ったのが悪い。警戒されて当然だ」

「ああ、そうか! つまり自己紹介をすればいいのか」

「そういう問題じゃねえ」


 どこかずれたままの女に男はまたため息を吐いた。

 女は再び雅己に手を差し伸べた。細い中指にペンだこがあった。


「私は岩戸照珠いわどてるみだ。人工知能の研究をしている」


 研究という言葉に雅己はかつて抱いていた夢を思い出した。

 脳の研究をし、母の治療をすること。今となっては叶うことのない夢だった。

 その後彼らの車に同席した雅己は、東京へ続く高速道路の中で彼らの現状を聞いた。

 男は真上晶まがみあきらという警察官で、著名な学者である岩戸の身辺警護を請け負っているということ。岩戸には一人娘がいること。彼女の夫は数年前に死んでしまっていること。岩戸は仕事に忙殺される日々を送っており、娘の面倒を全く見れていないこと。

 そうして最後に、岩戸は雅己に伝えた。


「私の代わりに、娘の話し相手になってくれ。家事は真上に任せられるし、便利なロボットもいるんだが、それだけではどうも……心が育たないらしい」


 彼女の娘は岩戸天璃いわどあめりといった。

 岩戸の広い自邸に着いたとき、大きな窓の向こうの丸い目と一瞬視線が交差した。

 地下のガレージから上がりリビングに通される。そこには、犬のようなロボットに囲まれた小さな少女がいた。


「初めまして」


 雅己が微笑んでも、彼女は目をまんまるにしたまま何も言わなかった。


「では後は頼んだ。私は資料の整理をしてくる」


 岩戸は娘との挨拶すらおざなりにして、さっさと自室へ引き上げていった。

 真上もまた、家事を片付けてくるとかなんとかですぐに姿を消し、がらんとしたリビングに少女と二人残されてしまう。

 少女は二人を寂しげに見送っていたが、すぐに興味津々な様子で雅己の顔を見上げた。


「どちら様ですの?」


 その古めかしい口調に一瞬雅己は虚を突かれたが、すぐに優しい兄の仮面をつけて答える。


「雅己です。今日から一緒に住むことになりました。よろしくお願いしますね」

「ふうん……」


 少女はつまらなそうに視線を巡らせた。しかしそわそわと動く指を見る限り、新しい同居人を嫌がっているわけではなさそうだ。

 つんとそっぽを向いたまま、少女は言った。


「ワタクシは岩戸天璃と申しますわ。天璃と呼ぶことを特別に許可いたしますの」

「ありがとうございます。天璃ちゃん」


 天璃は雅己の微笑みを横目で見、すぐ視線を逸らした。決して心を開くまいとしているかのようだった。

 それから何度か季節が巡り、いつの間にか雅己と天璃は本当の兄妹のように仲良くなっていた。

 天璃は今まで話す相手がいなかったためか、たくさんのことを雅己に語ってくれた。

 彼女の独特な口調は好きな小説の主人公を真似ていること。母親は昔から自分の面倒を見てくれず、父親との記憶しかないこと。その父親が亡くなってからは、父親の遺したロボットたちだけが遊び相手だったこと……。

 絆に飢えた少女だった。彼女は桂葉学園に通っていたが、特異な生育環境のためか感性がどことなくズレていて、友人もなかなか出来ないようだった。

 さらに、彼女は暴力的になる悪癖があった。ほとんど周期的に、まるで生きているだけで何か悪いものが溜まるかのように、彼女はロボットたちを壊した。

 それらを直すのは真上だった。彼だけが、製作者を亡くした機械達を直すことができた。

 そんな彼女にヒヤヒヤしながらも穏やかな生活を送っていたある日、岩戸と真上が学会のために遠出をすることになった。

 それも慣れたことだったから、いつも通り雅己と天璃は彼らを見送った。

 そして二人きりの日々の最中、天璃は珍しく休日に用事があると言った。


「今度学園のボランティアで、付属幼稚園のお手伝いをいたしますの!」

「付属幼稚園って、あのロボットが導入されている……」

「ええ! 私のお父様とお母様がお作りになられましたのよ!」


 天璃が誇らしげに胸を張るのを、雅己は驚きながら見つめていた。

 桂葉附属幼稚園はその名の通り桂葉学園の運営する幼稚園で、ロボットによって保育する世界初の施設だった。

 雅己は天璃の衝動性を少し心配したが、満面の笑みを浮かべる彼女を止めることはできなかった。

 しかしそれが最後のチャンスだったのだ。

 天璃が附属幼稚園へ赴いた日の昼、街中に消防車のサイレンがこだました。

 雅己は総毛立った。その音はいつも雅己に最悪の結末を運んでくる。

 天璃の無事を祈りながら雅己は外へ出た。そして、幼稚園の方角に煙が立ち上っているのを見た。

 急いで帰ってきた岩戸は、娘の訃報を聞いても表情を崩さなかった。

 「状況の把握が最優先だ」と言って自室に篭り、彼女自身が練り上げた幼稚園の警護システムを調べ上げていた。

 雅己は彼女のことを心配したが、真上は「人のことを心配している場合じゃない」と言った。


「覚悟しておけ。これからとんでもないことに巻き込まれるぞ」


 そして彼は遠くを見つめるような目になった。記憶を呼び起こそうとしているようにも、ただ適当に焦点を定めているだけのようにも見えた。


「まあそれは、お前があいつの手を取ったあの日から決まっていたことだろうがな」


 何日か振りに姿を見せた岩戸は、すっかり様変わりしていた。

 不健康さに拍車がかかり、目の下の隈がますます色濃くなっている。

 そして豊かだった表情は、今や人形のように抜け落ちてしまっているのだった。


「あの、岩戸さん。少しお休みになられたほうが……」


 岩戸は虚な瞳を雅己に向けた。その虚無に吸い取られるように、雅己の声は小さく掠れていった。


「心配はいらない。私は決断した。人であることを辞めると」


 その意味を受け止めきれず、雅己は口を開けたまま、超然とした彼女の姿を眺めるしかできなかった。


「私は名前を捨てる。記憶を捨てる。そして感情を捨てる。個人として存在せず、集合知として振る舞う」


 白髪の増えた髪が、白い肌に舞っていた。


「以後、私のことは単にドクターと呼んでくれ」


 雅己は三度、大切なものを燃やした。

 一つは家族。

 一つは居場所。

 最後の一つは、守るべきだった人。


—————


 小さくノックしたが返事はなかった。そっと入ってみると、千織は机に突っ伏したまますっかり寝入っているようだった。

 これは食事どころではないな。雅己は微笑みをこぼし、つけっぱなしだった照明を消した。

 自分があのとき天璃を引き留めていれば、彼がここまで苦心することはなかったかもしれない。


「君は、僕を許してくれますか」


 返事はない。

 雅己は静かな部屋をそっと後にした。

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