番外編 ※本編よりも残酷です
1/2 とある脳科学者の独白
鏡に映る自分はいつも他人のように見える。
現実感の消失。まだ大した症状じゃない。だから雅己は、それがトラウマからくるものと知っていても、向かい合うことはしなかった。
側頭葉皮質への刺激によって引き起こされ得る、単なる現象。ということは、言語と世界把握には何かしらの関係があるのだろうか。なにせ側頭葉は言語中枢で――
そんなことをつらつらと考えていた雅己は、鏡の中の人影がこちらへ近づいてくるのに気づき、顔を上げた。
「あのう、どうでしたか」
ラフな運動着を着た愛結だった。一曲踊り終えた彼女は額に汗を浮かべていたが、疲れた様子はなく、落ち着いた呼吸をしている。
雅己は微笑んで言った。
「一つ一つの動きが丁寧で綺麗ですね。ただやはり、自信の無さが動きに表れています。もう少し大胆に動くことができれば十分映えるのですが」
「そ、そうですよね……。自信をつけなきゃって、思うんですけど……」
「難しいですよね。勇気がいることですから」
岩戸邸に愛結がやってきて以来、雅己はこうして彼女のコーチをしているのだった。とはいえレッスン室(本来は拡張現実技術の実験室だったらしい)で、身体の動きの指示をするだけだった。
雅己にダンスの知識はない。知っているのはただ、どのように身体を動かせば魅力的な演出ができるか、ということのみなのだ。
「愛結ちゃんは、どうしてダンスをするのですか?」
彼女は瞳をおろおろとさせた。まるで身体を守るように、片ひじを掴んで縮こまっている。
「えっと、私がダンスでいろんな人に愛されるようになれば、きっとお姉ちゃんは嬉しいだろうなって……」
雅己は首を傾げた。彼女の言葉には彼女の存在を感じられなかった。
「……愛されたいというのなら理解できますが、それが聖羅ちゃんのためというのは?」
真っすぐな輝きを宿す瞳を伏せ、愛結はゆっくりと吐き出す。
「私は……お姉ちゃんが味方になってくれなかったら、きっと夢を抱くことすらできなかった。だから私、お姉ちゃんのために、夢を追いかけたいんです」
誰かのために夢を追いかけること。その美しさに雅己は同意しないでもなかった。
しかしそれは道理に反する美しさなのだ。誰かのための夢ならば、その誰かがいなくなったとき、何を追って生きればいいのか。
「お姉ちゃんはきっと嫌がると思います。私は私のために生きて欲しいって言うと思います。でも、お姉ちゃんは知りませんから。夢を追いかけられることが、どれほど恵まれていることなのかを」
そう。生まれながらにして上の階層にいる者は、下の階層のことを想像すらできない。
脳科学者としてアカデミアに属する雅己は、その事実を痛いほどに感じ取っていた。
しかし愛結は、現実と向かい合うには早すぎるのではないか。
雅己が彼女を励まそうと口を開いたとき、ちょうどレッスン室の扉がノックされた。
「そろそろ昼飯だ。一応、聖羅と千織を呼んできてくれるか」
入ってきたのは真上だった。妙なところで律儀な彼は、武骨なエプロンを身に着けている。
「じゃあお姉ちゃん呼んできます」
愛結がすかさず廊下へ駆けた。それを追うように雅己が部屋を出ると、真上がいつも通りの低い声で言った。
「面倒見るのも程々にしておけ。辛くなるのはお前だ」
その険しい顔を見返して、雅己は微笑んだ。
「今更ですよ、そんなことは」
―――――
雅己は三度、大切なものを燃やした。
一度目はおよそ十歳ばかりの頃。裕福な生家と、育ててくれた人たちを。
かつて雅己が暮らしていたのは、とある劇団のパトロンが住む屋敷だった。主人は大層な蔵書家で、彼が読むはずもないだろう専門的な本ですら、一面の棚を埋め尽くすほどだった。
無駄な調度品に溢れたこの屋敷を管理していたのは、メイドとして雇われていた一人の女性だった。“鈴木さん”と呼ばれていた彼女は下の名前すら明かさず、そもそもそれが本名なのかどうかすら、雅己には分からなかった。
しかし彼女は実母のように雅己を可愛がってくれた。学校から遠ざけられていた雅己の勉強の面倒を見てくれたのも彼女だった。
雅己には主人から課された使命があった。
劇団のスターになること。それ以外許されなかった。
雅己は子役として数々の公演をこなした。共演者も様々で、人もいればロボットもいた。
脚本を通して雅己は外の世界を知った。子役である雅己は誰かの娘や息子役ばかりで、雅己は彼らの言葉を口にするたび、どこか後ろめたい気持ちになった。
自分の親は一体誰なのだろう。そんな疑問を抱えながら、寒々しい屋敷へ帰る毎日だった。
仕事が落ち着いたある日、雅己は“鈴木さん”がとある部屋に入っていくのを見た。
それは屋敷の主人が雅己に入室を禁じた部屋だった。
自分が入ってはならないのには何か理由があるのだろう。そう思って雅己は素直に従っていたが、“鈴木さん”の目の前でそのルールを破ってみたくなってしまった。
他の部屋と変わらないつるりとした木の扉。その冷えた金色のノブをそっと回すと、かちゃりと小さな音が響いた。
ぎぎっと木が擦れてできた隙間から、雅己はそっと目を覗かせた。すると音で気づいたのか、中の“鈴木さん”と視線が合ってしまった。
何かを愛おし気に撫でていた。その手がぴたりと止まってしまい、してはいけないことをしたと雅己は気づいた。
彼女は一瞬顔を強張らせたが、そのまま雅己を見つめ、諦めのような息を吐いた。
「坊ちゃん。こちらへおいでください。いずれ見せねばと思っておりました」
招かれると思っていなかった雅己は目を瞬かせたが、言われるがままにそっと足を踏み入れた。
小さな部屋だった。その中央に大きなベッドがあった。管が何本も伸びていて、蜘蛛の巣のようだった。
“鈴木さん”がそっと横に逸れると、寝台に乗った人の顔が見えた。
雅己だった。
いや、雅己と瓜二つの誰かだった。
驚き、もしくは恐れのような震えが雅己の身体を走った。茫然と立ち尽くしていると、“鈴木さん”が静かに語った。
「彼女は、あなたの母上です」
ははうえという響きは、魔法の呪文みたいだった。
“鈴木さん”は目を伏せながら微笑んだ。役者が浮かべる笑顔だった。
「交通事故に遭われてしまったのです。脳が損傷してしまったせいで意識が戻らないのだと、お医者様は言っておりました」
「脳……」
雅己は“鈴木さん”を見上げた。
「それを治せば、母上は僕と喋ってくださいますか」
“鈴木さん”は曖昧な笑みのまま、雅己を見つめ返した。
「ええ、きっと」
そして雅己は勉強に没頭するようになった。元々脚本を覚えるのが早かった雅己は、今まで蓄積された研究データを網羅するにも大した時間はかからなかった。
しかし、その願いが叶うことはなかった。
少し時が流れ、雅己の喉仏が薄っすら出てきた頃のことだった。
雅己は太陽が出る前に目を覚ました。いつもなら部屋の中で本を読み、朝食までの時間を潰すところだったが、その日はすぐに本を読み終わってしまった。
雅己は誰も起こさないようにそっと廊下へ滑り出た。蔵書室に本を返し、また何冊か借りてこようと思ったのだ。
そうして目にしたのは、屋敷の主人が母の部屋へ入っていくところだった。
雅己はなんとなく嫌な気持ちになった。あの部屋は“鈴木さん”以外が入るべきではないような気がした。
意を決して雅己はその扉を開けた。そしてなぜここに来たのか尋ねようとしたが、思わぬ光景を目にし、喉は身勝手に縮まって何も言えなくなった。
獲物に被さった蜘蛛がゆっくりとこちらを向いた。そして巣から降りて言う。
「この部屋に来てはならんと言っただろう。しかし、お前は本当にこの女に似たよのう」
雅己は震える足で後ずさった。じりじりと蜘蛛が迫ってきていた。
「お前が男なのが残念よ。そうだな……今のうちに味わうとしよう」
愉悦の滲んだ声だった。聞いた途端ぞっとした雅己は、後先も考えずに駆け出した。だが、どこへ逃げればいいのだろう。
雅己は食堂へ逃げ込んだ。しかしそこは朝食の準備すらまだのようで、“鈴木さん”の姿は見えなかった。
この先にはキッチンしかない。行き止まりだ。
雅己は振り返ってまだ主人が追ってきているのを見た。早い鼓動も荒い息も、悪夢のように現実感が無かった。
雅己は追い込まれるようにして入ったキッチンを見回した。そして薄明の中の輝きを目にし、すがる思いで手に取る。
「追い詰めるというのは気分が良い! あの半死の女にもこうしてやりたかった!」
笑うような声が近づいてきた。握りしめる手が震えた。
「お前の母親はなあ、意識が無いままお前を生んだんだよ!」
肩に手がかけられた途端、雅己はぐるりと振り向いて右手の包丁を突き立てた。
何度も、何度も。
「ああああ、あああ!」
声が止まない。人間はこんなにしぶといのか。
そんな冷えた声が胸の内から響いてきて、雅己ははっとした。
「あああああ! ああああああああ!」
叫んでいたのは自分だった。
成長期を迎え、がさがさと掠れた声。
いつの間にか、主人は静かになっていた。
「どうされましたか!?」
食堂の方から“鈴木さん”が駆け込んできた。いつの間にか昇った朝日が、キッチンの惨状を照らし出していた。
錆びた匂いが鼻を刺した。床に広がった血が、ぬらぬらと輝いていた。
脳が不快の信号を鳴らす。同時にどこか高揚している。一仕事終えた達成感が、手足の先まで駆け巡る。
「坊ちゃん。その包丁を渡してください」
恐る恐る見上げると、“鈴木さん”は覚悟を決めたような顔をしていた。初めて雅己がルールを破った日と同じ表情だった。
「ですが……」
「大丈夫です。私が何とかします。さあ早く」
強く急かされ、雅己はおずおずと包丁を差し出した。“鈴木さん”はその柄をスカートの裾で拭い、今度は自分で握って流しの上へ置いた。
そしてメモ帳とペンを取り出し何かを書きつける。
「これはあなたの母上が所属していた劇団です。あなたのことも歓迎してくれるでしょう。着替えましたらすぐにこちらを訪ねてください。さあ、早く手を洗ってください」
言われるがまま雅己は血の付着した手を洗う。その間に“鈴木さん”が持ってきてくれた服に着替え、劇団の住所らしいメモを受け取った。
“鈴木さん”は屋敷の玄関まで雅己を送ってくれた。朝の冷えた空気にやっと、全てが変わってしまったという後悔と喪失感が、雅己の胸を満たした。
「ここでお別れですね」
しんみりとした声だった。無理だと頭では分かりながらも、雅己は声を震わして尋ねた。
「鈴木さんは来ないんですか」
“鈴木さん”は困ったように笑った。今までよりずっと、彼女らしい笑顔だった。
「私はあなたの母上に付き従う役目がございますから。……私は、一生をあの方に捧げると誓ったのです」
そうして彼女は、雅己が庭の正門を潜るまでずっと、どこか晴れ晴れとした様子で見送っていた。
その後、劇場に転がり込んだ雅己は、消防車のサイレンが遠くから聞こえてくるのを耳にした。
日が暮れて、親しく迎えてくれた団員が言う。
「向こうで火事があったらしいぜ。男一人と女二人が亡くなったんだとよ。消防隊が言うには、女二人は仲睦まじく重なり合って死んでたってさ」
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