045: 水の月は指の間から零れる

 料理のほとんどをカナギに分けながら昼食を終え、名残惜しい気持ちで彼と別れた。岩戸邸の最寄り駅には雅己が迎えに来てくれていた。

 千織はカナギと交わした言葉について何も言わなかったが、雅己は千織を一瞥した途端、何かを察したようにふっと儚げな笑みを浮かべた。

 二人きりの車内の中、まるで内省を促すように沈黙が千織を包んだ。雅己はどうやら自分から何かを言うつもりはないようだ。

 おそらく彼が言いたいことは、この後ドクターが宣告するのだろう。

 あっという間にドクターの邸宅へたどり着き、千織は雅己と共にガレージから家へ上がった。


「あ、おかえりなさい」


 出迎えてくれたのは愛結だった。彼女はこれから空き部屋を使ってダンスの練習をするところらしく、上下揃ったスポーツウェアをラフに着こなしていた。


「ただいま。他の人は?」

「お姉ちゃんと真上さんは『SoL』の中。ドクターは起きておられるのか……」


 愛結が首を傾げたときだった。廊下の奥から響くように、凛々しい女性の声が家中のスピーカーから発せられた。


『千織。話がある。モニターの前へ来い』


 その有無を言わせぬ口調に、千織は思わず眉をしかめた。雅己と愛結は励ますような苦笑を浮かべ、重い足取りの千織を見送ってくれた。

 階上のほとんどを占めるのが、『SoL』の心臓部とでも言うべきサーバールームだ。『SoL』内部の情報はここへ集約され、各プレイヤーへ振り分けられる。

 そしてそのサーバールームの手前にあるのが、通称モニタールームと呼ばれる小部屋だ。十をとうに超える数のモニターが壁一面に配置され、『SoL』のあちこちを映し出している。

 千織がモニタールームへ入室した途端、正面のモニターが一つふっと画面を消し、やつれた女性の顔を映し出した。


「ドクター……」


 千織は挨拶を口にしようとして喉を詰まらせた。モニター越しだというのに、彼女のどこか呆然とした瞳に何もかもが吸い込まれるような気がした。

 眼前にしているのは虚無だ。彼女は自分の存在を捨てるかのように、その本名ではない別の呼び方で呼ばれることを望んだ。彼女のことをほとんどの者がドクターと呼び、聖羅だけがママと呼ぶが、それは彼女自身が虚無の縁取りを他者に強いたからだ。


『最近システムの成長が目覚ましい。気づいているな?』


 彼女は千織の惑いを気にも留めず、出し抜けにそう言った。


「ええ。聖羅からの報告を受けて妙やと思いました。表現が威力に影響を与えるようになったそうやないですか」

『それだけじゃない。お前の首枷となった虚無の刀、そして二つに分かたれた冥土の刀。どちらも全く新しい現象だ』


 ドクターに即座に否定され、千織は目を見開いた。


「あれもシステムに影響を受けているということですか? 俺はてっきり、フレーバーテキストが影響しているだけかと……」


 ドクターは顔色一つ変えず続ける。


『個人の経験に基づくスキルの発現、それが複数人の関係から生じるようになったのではないかと私は推察した。スキルではなく装具として現れるのは、それが人の間を行き来できるからではないか』

「筋は通っとるけど……そんなん、検証できひんでしょう」

『少なくとも、お前の首枷に関しては他者の意志を感じる。お前を守ろうとする意志だ』

「意志? あの首枷の意味が何か知っとるんですか!?」


 千織は思わず一歩前へ詰め寄った。

 黒豹となって暴走する千織をカナギが食い止めたとき、【キンモクセイ】が変容して生み出したのがあの首枷だ。装備スロットには表示されておらず、千織は今のところそれを着脱する方法を見つけられていなかった。


『あれはお前のスキルの出力を制限するものだ。恐らく、前回のような事態を食い止めることができるだろう。驚くべきことに、あの首枷はお前のスキルの閾値を理解しているらしい』

「俺はあれがスキルってことも知らんかったけど……」

『ネクロマンサーとテイマーのスキルは特殊だからな。詠唱すれば決まって発動するわけではなく、召喚する対象や支払うコストによって効果が変化する。お前はもう骨身に沁みるほど理解しているだろう』

「なるほど。っちゅうことは、俺は常時召喚しとる異端のテイマーやから、知らず知らずのうちに召喚の一個上を作ったかもしれんなあ」

『面白い意見だ。ネクロマンサーとして私も色々試してみるとしよう』


 ドクターが感想のようなものを口にするのが珍しく、千織はちらりとモニターに視線を投げた。しかし彼女の表情は相変わらず無機物的で、千織は岩に向かって話しているような気持ちになった。


『問題は、なぜそのような革新が立て続けに生じたか、という点にある』


 その鉄仮面の口を動かし、ドクターはその問いを強調した。


「なんか心当たりでも?」

『ああ。これについてはもう確証がある』


 千織はまるで心臓を急に冷やされたような、サーバールームの冷気がここまで吹き込んできたような、そんなひやりとした直感を抱いた。

 ドクターがわざわざ呼び出してまで話をする重大性、そして雅己が既に知って動いているらしい緊急性。それらを加味すると、必然的に続く言葉の内容は絞られた。


「まさか、彼女が目覚めたんですか」

『……お前も、“あれ”を彼女と呼ぶのか』


 千織が愕然と呟きを漏らすと、ドクターは少し目を細めてそう言った。しかしすぐに元の真顔へ戻り、機械的な口調で続けた。


『そうだ。こびりついた幻覚が活動を開始してしまった。故にフィードバックの回数が急激に増し、結果として度重なる進化を招いた』

「そうか……だから人の感性に近づいてきているのか……!」


 千織は世紀の発見を目の前にした研究者としての高揚と同時に、震えあがるほどの恐怖を骨の髄まで感じた。

 それはつまり、『SoL』はなってしまったのだ。

 パンドラの箱に。


『神話が機能していれば、“あれ”は神代の姫として蘇る……つまり種別はアンデッドだ。ネクロマンサーである私なら操作できる。しかし問題は、“あれ”が既に他の者の手に渡っている場合だ。そして今、フィードバッグの増加量を鑑みると、既に“あれ”が誰かの元にいる可能性が高い』


 千織は緊張のために乾いた舌を動かして尋ねた。


「やるつもりなんですか? あの計画を……。水の月を掬うぐらい馬鹿げたあの話を」


 ドクターは涼しい顔で汗みずくの千織を見返した。


『こうなってしまった以上、もう戻ることはできない』


 千織は息を呑んだ。今まで見えていた風景が、途端に崩れ去っていくのを感じた。


『月の女神ディアナの名を冠する“あれ”は、人工知能が生みだした史上初の“人工意識”だ。一度世に解き放てば人類は滅亡のシナリオを辿るだろう。それに首輪をつけるために、『SoL』を外部ネットワークから切り離し、迅速に“あれ”の支配権を我々の側へ戻す。その障害となる存在は『SoL』の世界から消滅させる』


 つらつらと並べられる言葉の羅列に、千織は拳を握りしめた。


「プレイヤーを『SoL』に閉じ込めるってことやろ。命の保証無しに」

『そのほうが好都合だ。外部からの干渉を防ぐ人質にできる』

「……っ、そんなの、俺は認めへん!!」


 千織は心で感じるよりも先に叫んでいた。もう目の前のドクターのことも見えていなかった。

 ただ目の前に広がっていたのは、かけがえのない思い出の景色だった。

 ヨウがいた。ブッファとセリアがいた。カーマとクーシーもいた。

 そしてたくさんの人に囲まれて笑う、輝く星のようなカナギがいた。

 その実態は人体実験でしかないと知っていた。背を向けたのは千織の方だった。

 それでも、ずっと続いてほしかった。

 もう二度と手に入らない、穏やかな日常。


『いつの間にか聞き分けが悪くなったな。私のおかげでお前たち兄弟は平和を過ごせているのだと、まさか忘れたわけではないだろう?』

「そんな低俗な脅しに出るなんて……。ドクター、あなたの方こそ随分変わったんやないですか」


 千織が低い声でそう言い返すと、ドクターは数回の瞬きと共に沈黙した。しかしやはり表情は動かさぬまま、変わらない声色で言った。


『決行は八月。お前は日本で待機しろ。大学へは私から伝える』


 そうして千織の返答も聞かぬまま、モニターはぱっと画面を変えて『SoL』の世界を映し出した。

 千織はその場に立ち尽くし、モニターの群れをただ睨みつけていた。

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