042: 帰宅
夕闇が段々と濃くなり、車の外の景色は寂れたものに変わっていった。
人口減少の波は都心といえど逃れられるものではなく、特に一軒家が立ち並ぶ住宅街は、まるで家の墓場のような雰囲気が漂っている。
そんな手入れを久しくされてないであろう家並みの中に、つるりとした白いモダンな建物があった。その窓はカーテンですっかり閉め切られていて、見ているだけで息が詰まりそうな外観だ。
雅己が手慣れた様子でハンドルを切ると同時に、その建物の壁の一部がゆっくりと開いていき、地下へのスロープが現れた。するりと車が滑り込めば、窓の向こうにオレンジの明かりが等間隔で続く。
すぐにガラス張りのガレージへ到着し、雅己が定位置に車を止めた。さっと降りた千織は一年振りの光景を見回し、その変化の無さになんとなく安堵する。
「あーお腹すいたー」
「そうだね。……あっ」
気だるげに歩いていく聖羅の後を追おうとした愛結は、小さく声を漏らしてくるりと雅己の方を向いた。
「今日もお迎えありがとうございました」
「いえいえ」
礼儀正しい彼女の言葉に雅己は顔をほころばせて返事をする。一方聖羅は手をひらひらさせるだけで、すぐに室内へ入っていってしまった。
「あいつ、相変わらずやなあ」
千織が思わずそうぼやくと、雅己は微笑ましそうな顔をそのまま千織に向けた。
「千織くんも遠慮しなくていいですからね」
「……気持ちだけ、ありがたく受け取っとくわ」
その三日月状の瞳に背を向けるように足を踏み出した千織は、追いかけてくる笑い声に顔をしかめながら室内へ続く階段を上った。
がらんとしたエントランスに出て室内靴へ履き替える。家主の無頓着な性格に反して隅々まで綺麗にされた廊下は、恐らく真上の努力の賜物だろう。廊下の先から掃除用ロボットの駆動音が聞こえてくるが、その面倒を見ているのはいつも真上だけだ。
リビングの戸を潜ると、一気に開けた空間が現れた。家具は落ち着いたシックな色合いで統一され、所々に置かれた植物はつやつやと緑を添えている。
黒のL字ソファには既に聖羅が寝そべり、数枚のプリントと本を広げて唸っている。どうやらデザインの修正案を考えているらしい。
その向こうでは愛結が夕食の準備をしていた。この家には偏食家や生活リズムの崩れた人が多く、食事を摂る時間やその量は人によってバラバラだ。そのため、食事の準備と片づけは全て自分でするのがこの家のルールになっている。
千織はもともと小食な上に夜更かし癖があるせいで、誰かと夕食を共にすることは滅多にない。夜に機能食品でも食べに来ようかと考えながら、千織がふらふらダイニングへ歩いて行くと、キッチンカウンターで調理器具を洗っていた真上と目が合った。
「おう、おかえり。元気そうで良かった」
彼は洗い物の手を止めてそう言った。千織は頭を掻いて、ぼんやりと返事をする。
「あー……ただいま。なんか、久々って感じがせんなあ」
千織がそう言うと真上はふっと笑った。
「ゲームの中で嫌になるほど顔を合わせてるからな」
「別に会いたくて会いにいっとるわけやないんやけど」
「文句は俺じゃなくてドクターに言ってくれ」
からかうような言葉に千織がムッとすると、真上は話を切り上げるようにそう言って、少し笑みを浮かべながらまた忙しそうに洗い物を始めた。
「千織くんはもう部屋に行かれるんです?」
後ろから雅己がやってきてそう言った。規則正しい日々を過ごす彼は、このまま愛結たちと共に夕食を摂るのだろう。
「せやなあ。明日も早いし」
そう返しながら千織は心がざわめくのを感じた。
そっと目を伏せて床の上に広がる影を見つめた千織は、その黒い輪郭にカナギの黒髪を思い出していた。
彼との待ち合わせはあの駅前、千織の兄が事件を起こしたあの場所だった。
著名な再開発都市であるそこは、遊びに出かける先としては申し分のない繁華街だ。事件から数年が経過した今では、すっかり傷も癒えて賑やかになっていることだろう。
人の心はそうもいかない。現にカナギは未だ車の音を嫌う。
『それでも、お前と一緒なら克服できる気がする』
会う約束を結ぶとき、カナギはそう言っていた。彼の左目から伝わってくる信頼を受け止めるべきか否か、千織はまだ迷っている。
「せや。カナギのデータ、勝手にドクターに渡したやろ」
顔をばっと上げた千織がそう尋ねると、真上は千織のしかめっ面を一瞥して答えた。
「あれをお前から取り出したのはドクターだ。お前の暴走があれにどう影響するか分からないからな」
「織り込み済みやったってこと……いや、まさか」
千織の言葉を遮るように、真上はすすぎ終わったまな板を食洗器に入れた。続けて包丁を手に取りながら、真上は言い聞かせるように語る。
「誰にも言うなよ。『SoL』を通じてのデータ収集は、明らかにアシロマ原則に反する行為だからな」
千織は眉をひそめて返す。
「……あんなの、守っとる人ほとんどおらんけど」
「感情的な奴らに見つかると厄介なんだよ。ただでさえAIの開発停止を求める運動はあちこちで起きてるし、技術者を狙った事件も多い。アシロマ原則に強制力がないとはいえ、お題目として持ち出されると面倒だ」
アシロマ原則は、2017年に発表されたAI開発のためのルールのようなものだ。研究課題、倫理と価値、長期的な課題の三つの視点で作られたそれらは、端的に言えばAI開発の足を引っ張るようなもので、ただ利益や研究結果を追い求める人にとっては煩わしいものでしかない。
千織が今まで関わってきた開発チームでも、それを真面目に守ろうとする人は皆無だった。それでも千織は、“知能”とは何か問おうとする人々の叫びを、無視することができなかった。
「明日は折角遊びに行くんですから、研究のことは忘れましょうよ」
雅己の言葉に思わず「どうやって」と叫び返そうになり、千織は息を長く吐き出した。
戦争から生まれた技術。千織が幼い頃から身を捧げてきたコンピュータ科学は、そういうものだと知っていた。
相手を出し抜くために開発され、人の命を効率的に奪う方法を模索し、平和な時世となっても人の心を蝕み根を張っていく。それが千織の才能をくべて燃え上がる炎だった。
自分の影がどこまでも追いかけてくるように、一瞬たりともその絶望感を忘れることなどできないのだ。
「……せやな。ちょっと今日は、早めに寝るわ」
千織はそれだけを言い残し、その場を立ち去って自室へと向かった。
廊下で掃除用ロボットとすれ違い、思わずその行く先、明るい光が漏れるリビングの扉を振り返る。
アルゴリズムにただ従うロボットのように自分も無邪気だったなら、こんなに苦しむことはなかったのだろうか。
千織は唇をかみしめて、暗い道を歩いていった。
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