040: 忍草

 その視線は顔を隠した不審な人間を咎めるかのようだった。

 千織がフードを脱ぐべきか迷っていると、雅己が助け舟を出した。


「彼は雇いの助手ですよ。実験の手伝いに加えて、家庭のことも手伝ってもらっているんです」

「なるほど……いや、詮索は止めておきましょう」


 学園長は意味深に言葉を濁した。そして雅己に向き直り、鋭い目を三日月状に細めて言った。


「お忙しいところを呼び止めてしまい申し訳ありません。しかしお聞きしたいことがございまして」

「僕がお役に立てることはあまりないと思いますが、どうぞ遠慮なくおっしゃってください」


 雅己も笑みを張り付けて応じる。狐の化かし合いのような緊迫感が、千織の喉を締め付けて場に重たく降りていった。


「忍田先生。あなたは、夜間千織という名前に心当たりはありませんか?」


 喉をつまらせた緊張感に千織は思わず感謝した。無言のまま、何気ない顔を装って深く息を吸う。

 心配そうにこちらを見上げる愛結がちらりと目に入った。一方聖羅はいつも通りの態度で、長い立ち話に退屈したと言いたげに髪を弄っている。


「ええ。なにせ期待の新星ですからね。分野は異なるとはいえ、僕の耳にも彼の噂は届いておりますよ」


 雅己は一人の研究者としての立場を崩さず、すらすらと答えた。


「今や人工知能というものは、組織を動かすために必要不可欠なもの。あなたが彼を気になさるのも無理はありません。しかし、僕は力になれませんよ」

「岩戸先生がおられるでしょう」


 学園長は畳みかけるようにそう言って、試すような視線を雅己に向けた。

 雅己は相変わらず柳のように立っていたが、そのまとう雰囲気が一瞬燃え上がったような気がした。


「たしかに、あのお方なら何かご存知かもしれませんね」


 雅己は変わらず穏やかな声で返答した。しかしその中性的な声は、いつもよりも掠れているように聞こえた。


「分かりました。僕から尋ねてみましょう。ですがご期待はなさらないでください。彼女が僕の言葉を取り合ってくれたことなど、ほとんどありませんから」


 学園長はふっと笑い、高級そうな革靴の向きを変えながら言った。


「彼女は利益のみを追い求めていらっしゃる。まるで彼女自身が人工知能になってしまったかのように。しかしそれが、この加速しきった現代において最も優れた戦略でしょうな」


 そして彼は軽く会釈をし、ちらりと千織に視線を投げたものの、すぐに青いカーペットを颯爽と歩いて行った。

 それを見送った雅己は、いつもの柔和な笑みを千織たちに向けた。


「ようやく帰れますね」


 雅己に同意するように、聖羅が大きく伸びをして言った。


「あー無駄に疲れた! わざわざ話しかけに来なくてもメールで済ませばいいのに。ね、愛結」

「う、うん……」


 愛結は固い表情で頷いた。その縮こまった背中は、彼女がこの環境を楽しめていないと言外に伝えるようだった。


「不良と劣等生のくせにデカい面しやがって……」


 ラウンジの方からぼそりと声が聞こえた。聖羅がばっと振り返って睨みつけると、テーブル席の学生たちが気まずそうに目を逸らした。


「早く帰ろ。他人を気にすることしかできない奴らのいる場所なんてさあ、あたしの能力まで下がりそうで嫌だわ」


 聖羅はそう言いながら、俯く愛結の腕を掴んでずんずんと歩き始めた。

 千織と雅己は顔を合わせ、すぐに姉妹の後を追った。


「ご、ごめんお姉ちゃん。私のせいでお姉ちゃんまで……」

「そんな訳ないし! あいつらは推薦組を目の敵にしてんだよ。自分で努力してコネクション作ればいいのに」

「でも実際……運が良かっただけだよ」

「それは違う!」


 聖羅はいきなり立ち止まり、愛結の肩を掴んで正面から見据えた。


「あたしが頑張れてるのは愛結がいてくれたから。あのとき愛結がうちに来てくれなかったら、あたしきっと……母親が帰ってくるのをずっと待ってるだけだった。ママの手を取ろうと思えたのは、愛結と一緒なら頑張れそうだって思えたからだよ」

「お姉ちゃん……」


 幼い頃から豊かな教育を施されたせいか、聖羅は創作活動だけでなく学業においても優秀だ。

 その一方、愛結はなかなか芽が出ない。千織が知る限り、彼女は真摯に勉強をしているのだが、どれだけ時間をかけても結果がついてこないのだった。

 兄もあんな表情をしていたっけ。自分を殺し周りを立てるための笑顔。自分を出すことを諦めた、力のない笑顔を。

 千織がそう思いながらぼんやり姉妹の様子を見ていると、横で雅己がぼそっと呟いた。


「家族……」


 千織はちらりと雅己の方に目を向けて、その顔に浮かぶ見たことのない表情に小さく息を呑んだ。

 それはまるで対岸の火事を見ているかのような、どこまでも傍観者の瞳だった。寂しい夜の風景にぱちぱちと山火が燃えているような、そんな景色を映していた。

 思い返してみると、千織は彼の本当の家族の話を聞いたことがなかった。彼はよく「それは家庭環境のせいでしょう」などと口を挟んでいたが、説明的でない言葉で家庭の話をしたことはなかった。

 それに表情を取り繕うのが上手いせいか、彼の育ちを予想することも困難だった。

 立ち振る舞いは間違いなく上流階級のものだ。しかし裕福な育ちの聖羅やドクターのように金に糸目を付けないというわけでもなく、高級車に傷を付ける心配をするくらいには庶民的な感覚もあるらしい。

 それ以上に気になるのは、彼の使う言葉のイントネーション。千織の関西弁と少し似通ったあれは、恐らく京都の方言だ。

 観光と学問の両輪で駆動する街。熱がこもる京都には、世間体を気にしない研究者と、日本文化を背負って過酷な労働に従事する人々が入り混じっている。

 彼はそのどちら側だったのだろうと、千織はその端正な顔を見やりながら思った。

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