039: 学園

 結局、千織たちはたった数分で兄の病室を後にした。来年もこうして顔を見れるか分からないと思うと、少し呆気ないような気もした。

 雅己と共に車へ乗り込んだ千織は、景色が静かに滑り出していくのをぼんやりと眺めた。

 街は縦長のビルとくすんだ飲食店を一定のリズムで繰り返した。そして大企業のひしめくエリアに入ると、つやつやとしたガラスを光らせたオフィスビルがあちこちに見えてくる。

 人は地位によって綺麗に分断されている。大阪に居た頃もアメリカでも一等地で暮らしていた千織は、ガラスの檻の向こう側を見たことがなかった。

 空を突くビル群の中にぽっかりと開けた場所がある。そこには背の低い、それでも十分威圧感のある建物があった。

 灰色のビルの中でひと際目立つブラウンカラー。広い敷地のアスファルトには街路樹の葉が影を落とし、威風堂々たるその校舎へと来訪者を誘っていた。

 ここは桂葉学園といい、日本で最も優秀な人材が集まる小中高一貫の学校だ。

 通うことができるのは、権力者の子息か受験競争を勝ち抜いた学生、そして設立に携わった人々が推薦した才気あふれる子供たちだけ。彼らは小学生から高等教育を叩き込まれ、中学生となるころには産学連携として企業の研究開発に関わっていく。

 繁る緑の雰囲気とは裏腹に、ぴんと張りつめた空気がいつもここには漂っているのだった。

 雅己は広く開放された正門にゆっくり車を通らせて、駐車場まで迷うことなく千織を乗せて走った。この一瞬でも正門に取り付けられたカメラは、千織たちの顔を捉えたはずだった。

 学園の端に設けられた駐車スペースには、千織たちと同じように生徒を迎えに来たらしい高級車があちこち止まっていた。その中を縫うように車を運転させた雅己は、駐車するために自動運転に切り替えてようやく深々と息を吐いた。


「全く。高級車の中を運転するのは、神経細胞間の活動を弱めてしまうので嫌なのですが」

「緊張するの一言で済むやろ」


 思わずツッコんでしまい、千織は居心地悪く口を噤んだ。雅己を信用したくないという気持ちはあったが、軽口がつい出てしまうぐらいには親しく思っているのも事実だった。

 その機微すら読んだように雅己はくすくすと笑い、シートベルトを外しながら千織に声をかけた。


「さあ、早くラウンジへ行きましょう。きっと先に着いて待っているはずです」


 千織は頷いて、重たい車のドアを開けた。

 この敷地の中央付近にあるのは高等部の校舎だ。その入り口近くには居心地の良いラウンジが用意されており、生徒同士の交流に活用されている。

 濃茶のアプローチを通りロビーに入ると、深海のような青いカーペットが目に飛びこんでくる。学校と言うよりもむしろ高級なホテルのような内装だ。

 そしてエレベータまでの道中から逸れたところに、つやつやとしたソファと丁寧に磨かれたガラスのテーブルが置かれているラウンジがある。一人向けの席は黙々とデスクワークをする学生たちが占拠しており、グループ向けの広いソファではコンペに参加するらしい学生たちが熱心に議論していた。

 そんな忙しない雰囲気の中、悠々自適にティーカップを口に運ぶ女子高校生がいた。彼女はつやのある黒髪をかきあげ、つまらなそうに足を組んでいる。

 その横には緊張の表情を浮かべた少女が座っていた。忙しなく視線を走らせる彼女は、こちらを見た途端はっとして、弱々しい笑みを浮かべた。


「聖羅ちゃん、愛結ちゃん。お待たせしました」


 雅己がそう声をかけながら歩いて行くと、ラウンジの学生たちは顔を上げてはっとしたような顔をした。

 その美貌に目を奪われたというよりも、彼の顔を知っている者が多いのだろう。

 雅己もまた、研究者としてこの学園に出資をした人物だ。彼の執筆した本は全てここの図書館に収まっており、授業でも取り扱われることがあるらしい。


「ぜーんぜん。さっきまで打ち合わせだったしぃ」


 ティーカップをソーサーに置いた少女、聖羅は不機嫌を隠さずにそう返した。隣の小さな少女、愛結は姉をなだめるように苦笑して話す。


「急に予定入ったんだよね……。お姉ちゃんのデザインに少し問題があるとかで」

「はーあ。萎えるわ。あたしはデザインじゃなくてアートをやりたいんだっての」

「でもお姉ちゃんのデザインは的確でものすごく人気でしょ? 顧客の心を掴むのが上手いって先生もお褒めになってたよ」


 聖羅と愛結は会話をしながら立ち上がり、雅己と共にこちらへ歩いてきた。この場の注目が自分にも注がれるのを感じた千織は顔を引きつらせ、被ったフードをそっと引っ張った。


「おかえりなさい。お兄ちゃん」

「お土産ちゃんと買ってきた?」


 愛結がにこにこと愛想良くする横で、聖羅はふてぶてしい態度を崩さなかった。千織はこれ見よがしにため息をつき、渋々口を開いた。


「ただいま。ちゃんと土産も買うてある」

「よっしゃ。デザイン修正のやる気出てきた」

「現金なやつやなあ」


 千織と聖羅がそう軽口を叩き合っているときだった。


「あら、学園長さん」


 雅己の声が聞こえて、千織たちはその方向を見た。

 そこには身なりの整った初老の男性がいた。柔和な表情をしているが目は鋭く、日本有数の学園を任されるほどの胆力が窺える。

 桂葉学園の長。千織がその姿を目にするのは初めてだった。


「忍田先生。ご無沙汰しております」

「先生だなんてよしてください。僕は一端の研究者に過ぎません」


 雅己のまとう雰囲気が一気に乾くのを千織は感じた。

 彼は女性的な態度と男性的な態度を巧みに切り替えることができる。前者での懐柔が通らない相手には後者で対応するのだ。


「聖羅くんも愛結くんも、お元気そうで何より」


 学園長は次に少女二人に目を向けた。

 聖羅は先ほどまでの不機嫌が嘘のように上品な笑顔を浮かべ、さらりと髪を垂らしながらすらすらと礼を述べた。


「お気遣いのほどありがたく存じます。おかげさまで充実した日々を過ごしております」

「あっ、ありがとうございます」


 愛結は聖羅に倣うように慌てて感謝を口にした。その表情は怯えに固まっており、ぺこりと頭を下げた後、彼女は聖羅の影に隠れるようにそっと一歩下がった。


「そして君は……」


 学園長が次に視線を寄こしたのは千織だった。人の目は誤魔化せないチョーカーを、千織は頼りなく感じた。

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