038: 帰郷

 カナギと会う約束を交わした数日後、千織は日本行きの飛行機の中でぼんやり窓の外を見ていた。

 ガラスに映る自分は黒いフードを目深にかぶり、その上眼鏡にマスクも付けているせいで、自分でも全く表情が分からない。それでも、目の下の隈だけは隠しきることができない。

 首輪のようなチョーカーに指を添わせた千織は、マスクにそっとため息を吐き出した。

 千織の兄は事実上、国家へ反逆したテロ犯罪者ということになる。その弟であり稀代の頭脳を持つ千織のことを、血眼で探す奴らもどうやらいるらしい。

 そんな追われる身である千織を守ってくれるのが、このチョーカーなのだった。

 現在日本では街頭防犯システムに画像認識が用いられており、極めて高い確率で個人を特定することができる。

 千織のチョーカーはその機械の目をごまかすため、人工知能に対して機能するノイズを発生させるのだ。そのチューニングは街頭防犯システムに寄与した張本人、ドクターが行っている。

 このチョーカーは、ドクターたちが千織に与えた首輪そのものだった。


 キャリーケースを引いた千織が待合スペースに出ると、そこにはやけに人目を惹く美しい男がいた。足を持て余すように座っていた彼は千織に気が付くとさっと立ち上がり、周囲の目も気にせずに颯爽と歩いてくる。

 マスクで顔が隠れていても思わず見とれてしまうような、整えられた黒髪と完璧なスタイル。ラフな装いにも高級感があり、その立ち振る舞いも上品だ。

 注目から逃れるように黒いフードを引っ張りながら、千織は目だけを笑みの形にして言った。


「マッさん。わざわざありがとうな」


 すると彼、雅己もまたそっと目を細め、しとやかに手を口に当てて返した。


「いいえ。家族として、当然のことをしたまでです」


 忍田雅己。類まれなる美貌と明晰な頭脳を併せ持つ脳科学者。しかし黒い噂も絶えず、現に彼が生命倫理をかなぐり捨てた人物であることは、千織もよく知っている。

 彼の放った家族という言葉にどう返答するべきか、千織は考えあぐねて口を噤んだ。場に下りた沈黙に瞬きを一つして、雅己は話題を変えるように続けた。


「聖羅ちゃんたちのお迎えまで時間があるんですけれど、寄っていかれますよね?」


 疑問形ではあるが、答えを確信しているような響きだった。

 千織は目を伏せて、彼の思った通りであろう返答をするしかなかった。


「……もちろん。俺にとって、唯一の兄やから」


 千織の兄は今、雅己の元で特殊な治療を受けている。攻撃性の原因となる歪んだ思考パターンを正すためのものだ。

記憶をすべて失った状態で、『SoL』のようなVR世界で全く新しい生活を営む。

 『SoL』と違うのは、一定の基準をクリアしたと判定されるまでずっと、こちらの世界に戻ってこれないということだ。

 今のところ千織の兄は二年間ずっと眠り続けている。


 雅己の運転する車に揺られて小一時間、二人は郊外のそれなりに大きな病院に辿り着いた。

 綺麗なロビーに入り、雅己が慣れた手つきで受付を進める。そして顔認証を終えた彼に手招きされ、千織もチョーカーによって作り出された架空の人物の顔認証を済ませた。

 完全に機械化された受付には、千織の顔が登録された情報と違うことに気付けるような、生身の人間はいない。


「それでは、行きましょうか」


 そう言って堂々と闊歩していく雅己の後を追い、千織も黒いフードを被り直して歩き出した。

 人気のない病棟の奥に、目当ての病室はあった。

一見何の変哲もない清潔そうな空間だ。閉められたカーテンの向こうからは、傾いた日の光が眩く注がれている。

 その中央の寝台に寝そべるのは、ヘッドギアを付けた痩せぎすの男。その身体には、生命維持のための管がいくつも取り付けられている。


「兄さん……」


 千織は寝台にゆっくりと近寄り、ぽつりと静かに呟いた。


「もう三年が経ちますね。彼が目覚めるのは、一体いつになるのでしょう」


 背後から雅己の声が聞こえてきた。その他人事のような響きに千織はぐっと拳を握ったが、大きく息を吐いてその力を緩めた。


「兄さんがやっとんのは人生のやり直しなんやろ。そんなら兄さんが今まで生きた分……後二十年はかかるかもしれん」

「おや。千織くんにしては随分弱気なことを言うのですね」


 雅己の優しく穏やかな声は、からかうというよりもむしろ励ますかのように聞こえた。

 彼にすっかり寄りかかってしまえたら、どれほど気が楽になるだろう。そう思ってしまうことにぞっとしながら、千織は震える口を開いた。


「兄さんを……犯罪者をこうして繋ぎ止めることに、一体何の意味があるん。終わりの見えん治療なんて、アホらしゅうて敵わんわ」


 流れ出た水が止まらないように、千織の言葉も止めようがなかった。しかしその源流がどこにあるのか、千織は全く分からなかった。


「仮に治療が成功したとして、それを何千何万といる犯罪者全てに適応させるんか? 選別するとしてもその基準設定はどうするん? その面倒に見合う成果を本当に見つけられるん? そんならいっそ、兄さん自身がそう望んだように……死なせてやるべきなんちゃうか」


 まるで自分でない誰かがしゃべっているかのようだった。それでも痛いのは自分の肺で、苦しそうなのは自分の呼吸だった。

 言うべきではなかった。雅己に向かって。自分の兄に聞こえる場所で。

 千織は茫然として、まだ生命を感じさせる兄の手を眺めた。


「……もう少し、我儘になってくれてもいいんですよ」


 雅己は静かにそう言いながら、千織の横にそっと並び立った。


「我儘……?」

「ええ。子供は我儘を言うべきで、大人は我儘を聞くべきなんです。他人の権利を害しない範囲で、という但し書きが付きますが」


 千織が怪訝そうな顔を見せると、雅己は悪戯っぽくウィンクをした。そして寝台に視線を向け、長いまつ毛の影を目元に落としながら続けた。


「家族の未来を望むことは、悪い事ではないですよ。社会が許さなかろうと、あなたには彼を許す権利がある。家族を救いたいと我儘を言う資格がある。そして千織くん。君には、世界を変えるほどの力がある」


 雅己はどこか寂しそうな表情をしていた。その漏れ出た感情が本物かどうかすら、千織には判別がつかなかった。

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