005: 起点 -- 『仇花の宿』にて
また少し時は流れ、とある昼下がり。『仇花の宿』の武家屋敷の縁側で、日差しに猫毛を柔らかく照らされながら、センリは縁側に座って本を読んでいた。
レーセネの図書館から借りてきた、日本の古典文学だ。その巻数はかなり多く、センリが座る横に置かれたそれらは、彼の胸のあたりまで高く積み重なっている。
その背後、広々とした座敷間からは、マガミの滔々と語る声が聞こえてくる。
「同業者に出会ったらまずは合言葉の確認だ。下の句を返せない奴は遠慮なく殺せ」
「はい」
従順な返事をしたのはすっかりこのゲームに慣れたカナギだった。未だに初心者の装備のままだが、その傷一つ付いていない袴が彼の実力の高さを物語っている。
「合言葉は覚えているな?」
問われたカナギは一つ息を吸って、凛とした声で答えた。
「”見る人もなき山里の桜花、他の散りなむ後こそ咲かむ”」
「よし」
マガミは満足そうに返した。
センリは丁度読み終えた本をぱたんと閉じ、座敷の方を振り返らずに言った。
「そんなに後ろ向きな言葉ばっかり使わんくてええのに」
すかさず背後からマガミの怒号が飛んでくる。
「黙れ。他人の命を散らすやつこそ、散る覚悟ってのを忘れちゃいけねえんだ」
そしてどすどすと近づいてくる足音にセンリが振り返ると、すぐ近くにマガミのしかめっ面があった。
「というか、なんでお前がここにいる」
問われたセンリはいつも通りの胡散臭い笑みで答えた。
「ここが一番暖かくて勉強が捗るから」
「あ、勉強……」
座敷の奥からカナギの小さな呟きが聞こえてきた。センリと同い年であるはずの彼も、大学で勉学に追われる身なのだろう。
「お前、カナギに変なこと思い出させるな」
「学生の本分を変なこと呼ばわりするあんたのほうが、よっぽどやと思うけど?」
センリとマガミが言い合っていると、座敷の暗闇からカナギもつられるように顔を出した。そして本の山を見つけ、少し目を丸くして言う。
「センリ、こんなに読むのか?」
「流し読みするからそんなに大変じゃないで」
センリが事も無げにそう返すと、カナギは感心したような顔ですぐ隣に腰掛けた。
すっかり説明の雰囲気ではなくなり、マガミもため息を吐いてカナギの向こうに腰を下ろした。
「仕方ねーな。カナギ、なんか質問あるか」
真っ先にセンリが手を上げて言った。
「カナギはもうPKデビューする感じなん?」
「お前が質問するのかよ」
マガミは軽く突っ込んで、眉をひそめたまま答えた。
「草原はもう余裕で突破したからな。レーセネに近いPKエリア……山脈の向こうとアルカジアの森にはもう行けるだろう」
「おお。もうそんなに」
予想外の成長スピードにセンリは思わず声を出した。マガミも頷き、眉間をほぐしながら続きを口にした。
「俺もびっくりだ。とはいえ、自分からプレイヤーに喧嘩売りに行くような段階じゃねえ。PKエリアの雰囲気を掴むのが今後の課題だな」
「PKエリアの雰囲気?」
カナギは首を傾げて聞き返した。
「PKエリアにもモンスターはいるし、独特の緊張感もある。当分は逃げ隠れしながら戦場の空気に慣れるこったな」
マガミがそう答えると、カナギはその言葉を心に留めるように深く頷いた。
「じゃあ早速行ってくる」
「もう行くん?」
さっと立ち上がったカナギに、思わずセンリは名残惜しそうな声をかけた。その言葉に振り返り、カナギは色素の薄い瞳でセンリを見つめた。
「マガミさんが暇なうちに成果を報告したいし、俺も勉強があるから」
そう言われると強く引き留められず、センリは渋々頷いてカナギを見送った。
「俺、別に暇じゃねえんだけどな」
マガミはカナギの姿が見えなくなってからそう呟いた。そして一息置いて、空中に放り出すように声を放った。
「マサ、出てこい」
その瞬間、影のような何かが目の前の庭に軽い身のこなしで着地をした。
顔を上げたその人物は、忍者のような口布を下げて端正な顔を露わにした。あまりに整いすぎていて、性別すらはっきりとはしない容姿だ。黒装束から零れる深緑の髪はつやつやと輝き、美しいという印象をより強めている。
「マッさん!? 全然気づかんかったわ」
センリは驚きを隠せず大声を出した。マサはにこりと笑顔を浮かべ、上品に手を頬に添えて口を開いた。
「お久しぶりです、センリくん。うちの帽子、使ってくれとりましたよね」
「見てたん!? どっから!?」
「センリ、少し静かにしろ」
騒ぐセンリにこめかみを抑えたマガミがそう言った。センリが口を両手で抑えると、マサも口を隠すようにしてくすくすと笑った。
マサはセンリと同じく、ギルド外の人間でありながら『仇花の宿』に協力するプレイヤーだ。特に防具作りに長けていて、レーセネに構える店はセンリのものとは違ってかなりの人気を誇る。
そしてセンリとマガミの共通の知人でもあった。センリが知る限り、マサ以上に知恵に富んだ人はいない。その上、気に入った人物はお手製のコスチュームを手にしぶとく追いかけ回す癖がある。
もしこの人が敵に回れば何をされるか分からない。マサと対面するとき、センリはいつもそう思って冷や汗をかくのだった。
「マサ。カナギの見守りを頼んでいいか」
センリの心配をよそに、マガミは呆気なくそう言った。マサはゆっくりと頷き、心底嬉しそうな顔で答えた。
「承知しました。……ふふ、ちょうどいいですね」
「何が!?」
その含みのある言い方にセンリは思わず声を出し、横のマガミに睨まれてしまった。そして颯爽とマサは任務へ向かい、センリは不機嫌なマガミの隣に取り残されてしまったのだった。
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