第414話 契約
契約。
互いに履行すべきことを合意し、その内容に拘束力を持たせる手続きのことだ。
人間同士ならば売買契約や雇用契約が契約の代表格だろう。
内容を書面にしたためて互いにサインすることで、合意内容を第三者に示せるようにすることも少なくない。
しかし、妖精や精霊が人間と結ぶ契約は、人間同士が行うそれとは全く異なる。
契約を提示できるのは基本的に妖精側からのみ。
第三者に示す必要がないから契約書など存在せず、妖精側も人間側も契約の掛け持ちは許されない。
だからこそ契約を結んだ妖精と人間は、ラウラと結んだような協定とか仮契約とか呼ばれる緩い関係とは一線を画す強い絆で結ばれる――――らしい。
(まあ、俺からすると、やることは変わらないんだけどな……)
フロルは家事、ラウラは知識と戦力。
魔力と引き換えに提供されるものこそ違うが、結局は似たようなもの――――そう考えてしまうのは、俺が人間だからだろう。
この辺りの機微を人間側が理解するのは難しいのかもしれない。
ただ、ラウラと緩い関係を結ぶときですら面倒な貸し借りの精算があったことを思い出せば、契約というものが妖精や精霊にとって如何に重要なものであるか想像することは難しくなかった。
だから――――
「悪いな。もう契約は済ませてるんだ」
答えは当然ノーだ。
右手を胸の高さに挙げ、手の甲を妖精に見せる。
そこにあるのは俺とフロルの瞳の色と同じ、深い青色の紋章。
紋章がないと契約が成立しないというわけではないそうだが、契約の証であることに違いはない。
人間にはピンと来なくとも、妖精が見れば契約済みであることは一目瞭然。
そう思ったのだが、しかし妖精はそれを見ても契約を諦めなかった。
「皇帝の隠し部屋は、誰も見つけてない。あなたが一番」
初代皇帝が日本語で記した暗号が示す場所。
誰かは見つけていると思ったが、意外なことに未発見であるという。
たしかに、7文字集めた者は見当違いの場所を掘り返して処刑され、8文字集めた者は魔法の罠に嵌って死体になるという流れからすると、9文字目があっさり入手できるとは考えにくい。
よほど発見しにくい場所にあるか、あるいは道中に酷いトラップでも仕掛けられているのだろう。
「力と知恵、それに財宝も。そこに行けば、全部手に入る」
「へえ……」
「特に力……スキルの習得は、もうほかの場所では無理。この機会を逃したら一生習得できないスキルも、あるかもしれないよ?」
「そりゃすごい」
「どうしてもって言うなら、契約するのはあなたが公園内にいる間だけでいいから。皇帝の財宝を回収してここから出たら、また元の妖精と契約し直せばいいよ」
「ふむ……?」
妖精は、まるで新商品を売り込む店員のような軽い調子で、お試し契約を提案する。
契約に対するスタンスが俺の知るものと大きく異なるようだが、この辺の感覚が個人差によるものなのか地域差によるものなのか、はたまたそれ以外か――――判断する材料を、俺は持ち合わせていない。
なにせ俺が知っている契約の知識は、しばしば大事なことを言い忘れるラウラから聞いたもので、フロルは契約について何も語らない。
そもそも俺とフロルはどのような契約を結んでいるのか。
そんな基本的なことすら、俺は知らないのだ。
顎に手を当てて考えるような仕草を見た妖精は、ここぞとばかりに畳みかける。
「これは、恥ずかしいから言いたくなかったんだけど……。私たちにも色々あって、時々人間と契約しないと仲間内で馬鹿にされちゃうの。だからお願い、助けると思って……ね、良いでしょ?」
少女の姿をした妖精は明るい茶色の髪を揺らし、両手を合わせておねだりする。
聞いていれば少し可哀そうな気もするし、些細なお願いなら叶えてあげたい気持ちもある。
フロルとの契約を切るのも、一時的なら実害はきっとない。
俺は少しだけ考え、小さく笑った。
「まあ、話はわかった」
「本当?嬉しいな」
妖精は笑顔で右手を差し出した。
フロルが右手に紋章をこさえたときも、フロルは俺の手を握っていた気がする。
一歩、二歩、妖精に歩み寄って右手を差し出す。
ただ、その手は妖精の手を握るためではなく、彼女の頭を優しく撫でるためのものだ。
「悪いな」
妖精の笑顔が固まった。
彼女からすれば、ここまで好条件を提示して断られることは想定外だったはずだ。
想いを告げる少女を袖にしたような罪悪感が、胸の内に生まれる。
だが――――
「そんなものと引き換えに捨てられるほど、この絆は安くはないんだ」
初代皇帝の財宝に魅力がないなんて言えない。
スキルの習得なんて、想像すらしていなかった。
あるいはここで機会を逃したことを、いつか後悔する日がくるかもしれない。
上級冒険者になった俺は力に対して貪欲であるべきで、本当は綺麗ごとを言う余裕なんて無いのかもしれない。
しかし、それでもこの手は握らない。
力も知恵も金も、俺自身の手で掴み取るべきものだと信じているからだ。
仮に初代皇帝が遺した謎を自力で解き明かし、隠し部屋とやらに辿り着いたなら。
そのときは俺自身の力で勝ち取った成果として、迷いなく我が物にできたのだろうが。
(まあ、これじゃただのズルだしな……)
魔力を餌に妖精に取り入って答えを教えてもらうというのは、流石に反則だろう。
まして、そのためにフロルを裏切るような真似なんてどうしてできようか。
一時的に契約を切る。
保管庫に置かれたメモを見たときフロルが何を思うか、考えるだけで胸が締め付けられる。
フロルの泣き顔が目蓋の裏にチラついたままでは、初代皇帝の隠し財宝部屋を訪ねたところで喜べやしない。
そもそも隠し財宝なんて、今すぐ見つける必要は全くない。
妖精の言葉が真実なら二百年以上も未解明の謎。
少し遅れたところで何が変わるわけでもない。
また機会を作り、ここを訪ねればいいのだ。
9文字目は、そのときまでお預け。
それまでに誰かが財宝を見つけてしまったら――――そのときは、盛大に悔しがるとしよう。
「別にお前に魅力がないってわけじゃない。ただ、縁がなかったんだ」
すでに右手を下ろして俯いている妖精に、励ましの言葉を贈る。
妖精や精霊、妖魔にとって、俺の魔力が御馳走に見えるということは、ここ最近の待遇で十分に理解した。
この家妖精からすれば自分に乗り換えるよう誘うことに悪意などなく、手持ちの交渉カードを使った営業トークに過ぎないのだろう。
糸で簀巻きにしたり襟首くわえたりして突然連れ去る奴らと比べたら、よほど良心的な提案だ。
だから、妖精の少女に対する怒りはない。
残念ながら、頷いてはやれないが。
「……そっか。あなたの妖精が、羨ましいな」
「あまり屋敷には居てやれないんだが……。そう言ってもらえると嬉しいよ」
交渉が成らなかったことに落胆を見せていた妖精は、悲しげな雰囲気を残したまま笑顔でこちらを見上げた。
自分の願いが叶わなくても誰かの幸せを祝えるなら、この子はきっといい子なのだ。
俺なんかよりも良い契約者が、きっと見つかるだろう。
(あ、しまった……)
8文字目に興奮するあまり、クレインのことを失念していた。
美術館から少し離れてしまったから、こちらを探しているかもしれない。
俺は妖精の頭を撫でていた手を引っ込め、一歩二歩、距離を取った。
「さて、今度こそお別れだ。元気でな」
美術館の方へ踵を返し、ゆっくりと歩き出すと背後から声が掛かった。
それは、今の今まで話していた妖精の声。
引き留めるでも別れを告げるでもない一言が、俺の耳に届いた。
「合格」
足を止めて振り返ると、妖精は後ろで手を組んで嬉しそうな笑顔を見せた。
そして徐に人差し指を立てると、それを自然公園内にある建物の1つに向ける。
「迎賓館……今は館長や職員が使っている建物の応接室。9枚目はそこにあるよ」
妖精が指し示す方向に視線をやると、木々の向こうにそれらしき建物が見えた。
制服を着た人間の出入りが多いから、あれが事務所なのだろう。
思えば先ほど館長も、俺たちと別れた後はあの建物に向かって歩いて行った気がする。
俺が戸惑うのも気にせず、妖精は続ける。
「あいつだって、まさか二百年先まで辿り着く奴が一人もいないなんて思わなかっただろうし。本来の手順じゃないけど、ご褒美は胸を張って受け取っていいよ。だって――――」
そこで、言葉が途切れた。
事務所の方を見ながら話を聞いていた俺だったが、どうしたのかと思って妖精の方に視線を戻す。
学芸員の制服を着た妖精の姿は、すでになかった。
代わりに居たのは、クラシックなエプロンドレスを纏った妖艶な美女。
「私が仕掛けた罠の方が、本物の試練よりもずっと悪辣だったから」
「は……?」
俺の間抜け面がよほどお気に召したのか。
ふわりと宙に浮かび、虚空に溶けていく女――――精霊は上機嫌に笑った。
「もし私の手を取っていたら、お前は二度とここから出られなかったよ?」
「……………………」
とんでもないことを口にした直後、硬直する俺を残して精霊は姿を消した。
呆けること十数秒。
今頃背筋を凍らせたところで、もはや手遅れだろうが。
「またか…………」
もう、騙されたと怒る気力もない。
大きな溜息だけをその場に残し、俺はとぼとぼと来た道を引き返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます