第407話 アラクネ討滅戦
草の匂いが混じる緩やかな風を受けながら、草原で向かい合う俺とアラクネ。
それは正しく防衛線における戦いの仕切り直しだった。
ただ、状況は20日前と大きく異なっている。
アラクネの魔法を受けて破損していたガントレットはフロルが修繕済み。
背後に守るべきモノがないため、戦術の自由度は向上。
連戦による精神的な疲労はなく、先の戦いで俺の敗北を決定付けたクソ邪魔な魔導砲撃もここには届かない。
これらは総じて、俺にとって有利な状況の変化だ。
だが、最も大きな変化は別にある。
「ずいぶんとボロボロじゃねえか。狐と亀の喧嘩にでも巻き込まれたかよ?」
「黙レ……!」
大蜘蛛の上で揺れる女の顔は相変わらずの無表情。
しかし、前回は行動の節々に見えていた余裕は見る影もない。
最後にアラクネを見たのは、四尾の妖狐に連れ去られる直前。
あのときも多少の手傷を負っているようだったが、今のアラクネはまさに満身創痍という表現がお似合いのやられようだ。
八本の脚のうち完全な形で残っているものは半分のみ。
大蜘蛛の巨体は至るところが傷だらけ。
特に蜘蛛の頭周辺は損傷が酷く、いくつかの目は潰されている。
どういう経緯でそうなったのか、女の右腕も焼け爛れ、半ばから炭化しているように見えた。
<回復魔法>で治療しないのは、余力が残っていないからか。
防衛線で戦ったときには感じられた威圧感が、ずいぶんと薄くなっているように感じる。
「最後ノ、忠告……。傷ツケナイ、殺サナイ……オトナシク、コッチニ来イ!!」
女の左手に握られた土の長槍の矛先とともに、アラクネは最後通牒を突き付けた。
どこか懇願のようにも聞こえるそれを、俺は再び斬り捨てる。
「悪いな。飼われるのはもう、こりごりなんだ」
「……ナラ、仕方ナイ。手足ヲ、千切ッテデモ、連レテイク!」
アラクネが放った<土魔法>が開戦の合図となり、草原は戦場となった。
『スレイヤ』を保管庫へ送り、土矢をかわしながら大蜘蛛へと疾走する。
防衛線の戦いでは最終的に持久戦を志向したが、この戦いを長期戦にするつもりはさらさらない。
両手を空けたのは、あくまで速度を上げるため。
ここで、この手で、『スレイヤ』で。
俺は、アラクネを仕留めると決めたのだ。
「クッ……」
方針を切り替えた最大の理由は、やはりアラクネの状態にある。
前回戦ったとき、俺はアラクネを削りきることを断念した。
機敏に跳ね回ることで俺を寄せ付けず、何とか与えたダメージも<回復魔法>で治してしまう。
そんなアラクネを前にして、俺一人の力では到底削りきれないと考えたのだ。
力不足ゆえの苦渋の決断だったが、それが間違っていたとは思っていない。
しかし――――
「おら、どうした!」
「コノッ!!」
今は違う。
脚が折れているなら速度が低下しているということだ。
<回復魔法>が使えないなら体力に底が存在するということだ。
<土魔法>の手数から魔力の消耗も察せられ、状態の悪さから焦りも見える。
ここまで弱った妖魔すら討てなくて、上級冒険者など名乗れるものか。
ましてや、英雄など。
「どうした!!こんなとこまで追いかけて来やがって、俺に狩られるためか!?」
「生意気ナ!命乞イ、サセテヤル!」
俺から距離を取るために跳躍したアラクネ。
しかし、アンバランスに残った脚では本来の瞬発力を発揮することはできない。
空中での姿勢制御も不安定で、牽制程度の<土魔法>を撃ちながら逃げてばかりだ。
だから、本命を混ぜてくることもわかっている。
「それはもう見てんだよ!!馬鹿にしてんのか!?ああ!?」
わかっていれば回避も防御も容易い。
前回の戦いで俺のガントレットを破壊した高威力の斉射も、背後を気にする必要もない広い草原で俺を捉えるには制圧力が不足している。
消耗して手数が減った今、それは決定打たりえない。
<結界魔法>を使う必要すらなかった。
「クッ……!?」
土矢の散弾を背後に置き去りに、加速して本体に迫る。
焦りか、それともどこかでもらってきたダメージの蓄積か。
アラクネは俺から逃れようとして跳躍――――を試み、それに失敗した。
(勝機……ッ!!)
片側にバランスを崩した跳躍は距離も速度も不十分。
俺は落下点に向けて全力で地を蹴った。
牽制の土矢を<結界魔法>で防ぎ、召喚した『スレイヤ』の柄を握り締める。
狙うは右前脚――――それを潰せばアラクネの機動力は完全に死ぬ。
あとは煮るなり焼くなり思いのままだ。
「もらったああああ!!!」
着地の直後。
アラクネが巨躯を支えるために脚を踏ん張る瞬間を狙い、『スレイヤ』を振り抜いた。
堅牢な防御力は相変わらず。
しかし、『スレイヤ』の斬撃を止めることは叶わない。
「ギィ……!!?」
わずかな魔力と引き換えに、俺はアラクネの脚を斬り飛ばす。
八本脚が三本にまで減ってはバランスの取りようがないのだろう。
大蜘蛛の巨体がバランスを崩してこちらに傾いた。
狙い通りにアラクネの脚を殺した俺は勝利を確信する。
むしろ脚を半分も失ってどうやって戦っていたのか不思議なくらいだから、当然の結果といえばそのとおりだが。
追撃だけはさせまいと思ったのか。
女が左手の土槍をこちらに突き出すものの、俄か剣術より拙い槍さばきでは牽制にもならなかった。
「あばよ」
<結界魔法>が槍を阻む音を聞きながら、人間の女なら下半身があるべき位置から突き出た大蜘蛛の頭に向け、『スレイヤ』を振り下ろした。
脚や腹よりも幾分か硬い感触を残し、大蜘蛛の頭が両断される。
そこからは大樹海で飽きるほど見た光景。
アラクネが光を纏い、その巨躯が魔力の塵に――――還らない。
「は……?」
左腕に何かの感触。
油断はなかった。
潰れかけの蜘蛛の頭が糸を吐くかもしれない。
女が左手に握った槍が突然猛威を振るうかもしれない。
あるいは確実な命中を狙うため、近づいた俺の背後から自身の身体ごと<土魔法>で吹き飛ばそうとするかもしれない。
アラクネが光の塵に還るまで、それらへの警戒を緩めるつもりは一切なかった。
しかし、想定する危険に警戒心を振り向けたからこそ、無意識に警戒が緩んだ部位があった。
「やっと、捕まえた」
長い白髪を揺らし、赤い瞳を爛々と輝かせた女が、流暢な呟きとともに笑う。
焼け付いたはずの右手が、しっかりと俺の左腕を掴んでいる。
瞬間、アラクネの魔力が瞳に収束し、そのまま流れるように放たれた。
「――――ッ!」
振り切った『スレイヤ』をもう一度振り上げる猶予はなかった。
いつぞや辺境都市の歓楽街で邪教徒から受けた魔力の波動――――それを何十倍も強力にしたような力を叩きつけられ、身体が重くなる。
全く動けないわけではない。
ただ、怪力と言うわけでもないアラクネの手を振り払うことすら難しく、超重量を有する『スレイヤ』など微動だにしなかった。
「なん、で……」
「決まってる。お前のような人間を捕まえるのに、手を抜くわけない。脚の四本や五本、治せばいいんだから」
言った傍からアラクネは<回復魔法>で治療を始めた。
両断した頭が、斬り飛ばした脚が、少しずつ治癒されていく。
「…………ッ」
事ここに至って、俺はようやく理解した。
跳躍を失敗したと誤認させること。
弱ったアラクネになら勝てると思わせ、俺を戦いへ誘うこと。
そもそも、本体を提灯と誤認させるところから。
(全部、こいつの狙い通りか……ッ!!!)
まただ。
またしても騙された。
大樹海の妖魔はどいつもこいつも、俺をおちょくらないと気が済まないのか。
怒りで頭が沸騰しそうだ。
「殺さないのは本当だから安心して。新しい女もいっぱい用意するから、どんどん孕ませて殖やしてほしい。村の中なら自由にしていいし、きっとすぐ慣れる」
そんなことを宣う間もアラクネの魔力は俺の身体を侵食し、奴が望むように作り変えようとする。
気持ち悪くて吐きそうだが、一度抵抗を止めれば二度と抵抗できない体になりそうだ。
「そうだ。あれ、やって?」
「あ、れ……?」
「なんていうの?魔力がすごく出るやつ。お前を捕まえるためにいっぱい頑張ったから、お腹空いた」
<フォーシング>のことか。
やはり妖魔にとってはご褒美という認識らしい。
アラクネは、もはや俺の腕を掴むことすらせず、両手を胸の前で合わせて楽しげに笑う。
その仕草はデザートを待つ人間の女にそっくりだ。
凶悪な妖魔でなければ、フロルの手作りケーキでも恵んでやったのに。
だが――――アラクネ様は、ケーキよりも魔力がお望みだ。
どうしてもと言うなら、喜んで献上しよう。
俺が魔力をゆっくり練り上げると、アラクネは無邪気に喜んだ。
「よかった。それを目当てに急いで駆け付けたのに、一度ももらえないうちに攫われたから腹が立って仕方なかったんだ…………うん?」
俺は魔力を練り上げながら左手をゆっくりと動かし、アラクネの右腕を掴んだ。
力が入らないから、ただ触れているのと大差ない。
それでも、アラクネは不満そうに首を傾げた。
「……身体を動かすことは許してないんだけど、効きが悪い?」
アラクネは俺の手を払いもせず、再び魔力を集め始めた。
魔力はじきに収束し、瞳から放たれるだろう。
「疲れてるのに、世話が焼ける」
言い終わるや否や。
再び赤い瞳からアラクネの魔力が放たれ――――
それと同時に解き放たれた俺の魔力が、アラクネの魔力をかき消した。
「な――――!!?」
「つ、か、ま、え、たああああああああっ!!!」
身体を侵食していたアラクネの魔力を俺の中から消し飛ばすと同時。
触れているだけだった左手は万力の如く、渾身の力でアラクネの右腕を握り締めた。
大蜘蛛の頭を踏みつけ、槍を握った左腕を斬り飛ばす。
もう絶対に逃がさない。
この手を離すのは、アラクネが魔力の塵となって消滅するときだけだ。
俺とアラクネの距離感は、まるで恋人同士のそれ。
俺が嘲笑すると、アラクネの顔は恐怖に歪んだ。
「なんで!?どうして!?」
アラクネは自分の中に恐怖が生じた理由を問う。
食事を恐ろしいと感じるはずがない、自分の中に生じた感情が信じられないと喚いている。
だが、一体何が不思議なのか。
アラクネほどの妖魔なら――――いや、最低限の知能があるならば、その理由は自明のことだと思うが。
「ひっ――――!?」
殺さないという約束はどこへ行ったのか。
<土魔法>を構築すべく周囲に展開される大量の魔力は、まさしくアラクネが感じている恐怖を写す鏡だ。
極上の餌を確保することなど思考の彼方。
今はただ、目の前の恐怖から逃れることだけがアラクネの思考を占めている。
しかし――――
「そんなっ!!?」
流れるように淀みなく構築されかけた<土魔法>は、アラクネの制御を離れて術者の悲鳴とともにかき消えた。
妖狐村から脱走するために用意した奥の手が、狙い通りの効果を発揮したということだ。
「なに!?何なのよ、これは!!?」
恐怖を超えて錯乱するアラクネは、その現象の正体を問う。
あるいは理解していて、自身を襲う理不尽を呪っているだけかもしれないが。
(だが、聞かれたならば答えてやろう……!)
これは、幼いころから続けていた日課。
フロルと出会ってからやらなくなった訓練。
そして、正しくない魔力の育て方。
「これが……、俺の……、<強化魔法>だあああああっ!!!」
咆哮とともに、俺の魔力が草原に吹き荒れる。
全身から放出される魔力の暴風は周囲の空間を塗り潰し、アラクネが魔法を行使するために放った魔力を欠片も残さず排撃する。
魔法は、自身の魔力が浸透した空間でしか発動できない。
自分以外に作用するほぼ全ての魔法は、術者の魔力を空間から排除することで無力化できる。
それは、幼い頃にラウラから聞いた魔法戦の応用理論。
実現するための魔力量や技術が足りなかった――――のは、当時の話。
人間は、成長する生き物なのだ。
「ああアああああっ!!!ああああアあああアあ゛っ!!!!」
アラクネは泣き叫び、目前に迫る滅びを先延ばしにしようと醜く足掻いた。
<土魔法>を発動できないと理解したアラクネは瞳に魔力を収束させ、謎のスキルを連発する。
正体不明の金縛りは<フォーシング>と同様、おそらく自分の中で練り上げた魔力を放出して対象に影響を及ぼすスキルだ。
ゆえに、発動だけは叶う。
「………………あぁ」
もちろん、俺の魔力が空間を掌握する状況下、放出されたアラクネの魔力が俺に届くことはない。
仮に届いたとしても本来の効果を発揮しないのだから、俺の魔力操作の隙を狙って<土魔法>の速攻に賭けた方が幾分かマシだ。
一方、こちらも<フォーシング>が効かないのは同じこと。
妖魔にとって魔力は栄養だ。
周囲に満ちた俺の魔力すら、本来は魅力的な食事なのだろう。
俺と殺し合いをしながら、これほど膨大な魔力を取り込む余裕があるならば。
「あり、えない……」
幾度となく魔力を吹き散らされ、魔法の発動に失敗し、それでも現実を認められないのか。
アラクネは愚にもつかない戯言を口にする。
構わず『スレイヤ』の剣先を向けると、アラクネはこちらを睨みつけた。
「お前の魔力量は私より少ないのに……、私に勝てるはずないのに……!どうして、私の力に抵抗できる!?どうして、ここまで質の高い魔力を扱える!?お前、何をした!!どんな魔法を使った!!?」
まるで詐欺師を糾弾するかのような物言い。
魔力の質というのはラウラが薄いとか美味しいとかいう評価のことだろうが、量と質が比例するような話は初めて聞いた気がする。
そもそも、この手のスキル抵抗は魔力量で決まるのではなかったのか。
魔力量が増える過程を考えれば、量とともに質が上がるのはわからなくもないが――――
「ふは、ははっ、あっはははははっ!!!」
俺は堪えきれずに噴き出してしまった。
笑わせて魔力操作を誤らせようという作戦なら大成功だ。
今なら<土魔法>で小石くらいは作れるだろう。
だが、当のアラクネは怒りに震えるだけで、この機に乗じる様子はなかった。
「何がおかしいっ!!」
「ははっ、悪かったよ。だが、おかげでお前の愚行が理解できた」
自身を傷つけてまで効かないスキルを切り札としたのはなぜなのか。
なるほど、あれで決着すると信じていたなら納得だ。
「お前、さては俺をずっと尾行してたな?」
「それが、どうした!!?」
返事は肯定。
おそらくアラクネは大樹海の中で時間をかけて俺を観測し、消耗した魔力の回復が止まる水準から俺の魔力総量を推定したのだろう。
そして推定した魔力総量から魔力の質とやらに見当を付け、その結果から自身のスキルが効くと確信した。
だから正面から戦って俺を取り逃がす、あるいは俺を誤って殺してしまうリスクを嫌って、わざわざこんな回りくどい方法を選んだのだ。
だが、それはとんでもない勘違いだ。
アラクネが観測した魔力量は、どこまで行っても現在の魔力量――――魔力残量に過ぎない。
だって、アラクネが俺の魔力総量を知るはずがないのだ。
大樹海を彷徨う間、俺の魔力が3割を超えたことなど、一度もないのだから。
つまり――――
「俺の魔力量は、お前の観測の3倍だ。魔力の質とやらも、多分それに比例するんじゃないか?」
「…………は?」
最近になって粉飾決算が判明したので、実際は4倍くらいかもしれない。
ついでに言えば、俺の魔力は奥の手の発動によってゴリゴリ減り続けているので、すでに1割ほどしか残っていない。
それはこの際どうでもいい。
重要なのは、そこではない。
騙されてばかりの情けない主人に代わり、フロルがアラクネを騙し返してくれた。
本当に、どこまでも過保護な家妖精だ。
「お前が認識した俺の魔力量なあ……。ウチの妖精の、食べ残しなんだ」
「………………」
アラクネの瞳から知性の色が消えた。
理解を拒絶し、思考を放棄したようだ。
ならば話は終わり。
アラクネの命も、ここでおしまいだ。
「が、ふっ……!?」
青い煌めきを放つ『スレイヤ』を女の胸に突き立てる。
そのまま串刺しにして腹を踏みつけ、骨をへし折り、女の背後にある大蜘蛛の背中までを深く貫いた。
「が、あ゛、待っ――――」
命乞いは続かなかった。
あるいは急所を見つけるまで斬り刻む必要があるかとも思ったが、女の上半身は正しく本体であったらしい。
アラクネは滅びを迎え、巨体を形成していた魔力は光となって緩やかに解けていく。
俺が周囲の空間を解放すると、魔力となり果てても俺に囚われていた光たちは勢いよく弾けて草原に広がり、世界へ還っていった。
足元の大蜘蛛が消失したのと同時に『スレイヤ』を保管庫に送り返し、バランスを崩しながらも草原へ着地。
そして――――片手では掴めないほど大きな魔石を拾い上げ、空に掲げる。
「アラクネ、討ち取ったりいいいいいいっ!!!」
誇りと生存をかけた戦いは、俺の勝利で幕を閉じた。
勝ち誇る間もしっかりと警戒していたが、やはり妖狐は来なかった。
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