第351話 正義の在処
丸テーブルと椅子をバルコニーに運び出し、敵が陣取る西方が視界に入るよう並んで腰かけた。
洒落た装飾付きの紙袋からクッキーを取り出して大皿に並べると、早速横から伸びた手が1枚持っていく。
それを口に運んだクリスの顔がわずかにほころんだ。
「相変わらず美味しいね」
「フロルのお手製だからな。ああ、お茶もあるぞ」
ソーサーも準備してくれたようだが、面倒なのでティーカップ2つとポットだけを取り出す。
ポットの中は紅茶で満たされており、戦場に似合わない良い香りがバルコニーに漂った。
2つのカップに紅茶を注ぐと俺もクッキーを一枚摘まむ。
サクサクした食感の後、程よい甘みが口の中に広がった。
「…………」
俺もクリスは無言でクッキーを楽しんだ。
それくらいお菓子が美味しかったということであり、気持ちを整理する時間が必要だったということでもある。
ただ、いつまでも口の中にクッキーを詰め込んでおくわけにはいかない。
何枚目かのクッキーを飲み込んだ後、俺は乾いた口を紅茶で潤して口火を切った。
「お前は、どうして戦ってるんだ?」
「罪滅ぼし、かな」
返答に迷いはなかった。
クリスの中では、すでに整理がついていることなのだろう。
「僕はね、間違ってばかりなんだ。そのときそのときは考えて行動しているつもりなのに、小さい頃からどうしてか、結果は悪い方にばかり転がって人を不幸にしてしまうんだよ」
クリスは戦争都市で暮らしていた頃の話をしてくれた。
同僚と馴染めなくて寂しそうな年少のメイドに優しくしたら、そのメイドは主家の子息を惑わしたと咎められて解雇された。
仕事がなくて困っている商家に仕事を振るよう指示したら、その商家の代わりに仕事を失った商家が一家離散した。
そういう類の失敗談だ。
何か普段と違うことをするたびに、結果はクリスが望まない方に転がる。
そんなことが数えきれないほどあったという。
失敗なんて子どものうちに誰でも経験するもので、過度に気に病む必要はない。
濡れている場所で走ると滑るとか、足元に注意しないと転ぶとか。
少しだけ痛い目に合いながら、ゆっくり学んでいけばいいことだ。
ただ、クリスの場合は生まれの良さが災いしたのだろう。
少しだけでは済まず、痛い目に合うのも自分自身ではなかった。
何ならクリスが転んで怪我をしただけで解雇された者もいたという。
周囲の者たちの配慮が足りなかったのか、あるいは最初からメイドや商家を教材として消費することに躊躇いがなかったのかもしれない。
思い過ごしだ。
嫌なことほど記憶に残るものだ。
そんなことを言っても、クリスは耳を貸さないだろう。
それでも微かな望みにかけて、その言葉を口にする。
「行動が裏目に出るなんて、誰にでもある話だ。お前が死ななきゃいけない理由にはならないだろ」
「この戦争が激化した原因の一端が僕にあっても、そう言えるかい?」
ティーカップを口に運ぶ手が止まった。
冗談かと思ってクリスを見ても、否定する素振りはない。
「原因って、お前……。一体何をやらかしたんだ?」
「戦争都市のために戦ってくれた人に、一言だけ助言をしたんだ」
「……それだけか?そんなの責められるようなことじゃないだろ」
例えば交渉の席で敵国のお偉いさんを暗殺したとか。
思わず目を覆いたくなるようなエピソードを聞かされるかと思いきや、クリスの答えは拍子抜けするほどあっさりしたものだった。
しかし、クリスは首を横に振る。
「その助言のせいで公国側に大きな被害が出たんだ。騎士や兵士が大勢亡くなった……それこそ全力で反撃しないと公国が内部から崩壊してしまうくらいにね」
「その報復で戦争が激化したって?それをお前のせいというのは……」
「大河の堰を少しだけ崩すようなものだよ。それ自体は小さなことでも、そこを起点として洪水が発生してしまったら無関係だなんて言えないさ」
クリスがいう洪水とは、その後の戦争の推移のことだ。
無理を承知で大戦力を捻り出した敵国は、数年かけて戦争都市の拠点や街村を次々と攻略した。
本格的な反撃が始まる前に長らく前線基地だった街は遥か彼方。
領都から魔道馬車でわずか数時間のところにある最後の砦を前線基地にしなければならないほど、戦争都市は追い詰められている。
この辺りの経緯は『銀狼』のミラベルから聞いたから、クリスが責任を感じる気持ちもわからないではない。
「まあ、これが罪滅ぼしとして正しいかなんて、僕にはわからないんだけどね」
「うん?」
「見てみなよ、アレン。彼らが何のために戦っているか、キミは知ってるかい?」
クリスがティーカップを置いて顔を上げた。
彼らとは、視線の先にいる敵兵のことだろう。
俺はミラベルから聞いた話を記憶から引っ張り出そうとするが――――
「…………帝国から独立するためだと聞いた気はするが」
「独立の理由は?」
ゆっくりと首を振って降参した。
クリスは戦争都市の領主家に生まれた者として、その辺りの歴史もしっかり押さえているようだ。
説明してくれるならと、大人しく耳を傾ける。
「もう百年も昔のことだけど、当時の皇帝が重税を課したのが発端だよ。貴族から皇帝に権力を集めることを目的に、高位の貴族ほど重い税を課した。貴族たちはその負担を領民に押し付けて領民を飢えさせるか、領民の代わりに私財を吐き出すことを求められた」
「はあ……?そんなの上手くいくわけないだろうが……」
「そうは思わなかったから、こうなってるんだろうね。多分反乱は想定内で、ひとつ叩き潰せば残りは大人しくなると踏んだんだろうけど、実際は複数の高位貴族が同時に独立を宣言して帝国は大打撃を被った」
「帝国はそれが許せなくて、百年経っても意地を張ってるって?」
クリスが肩を竦めるのを見て、俺は呆れから大きく息を吐いた。
本当に目を覆いたくなるような話だ。
しかし、権力者が過ちを認めず、それをなかったことにしようとして更なる大惨事を招くという流れは、残念ながら容易に想像できてしまう。
そうして百年経っても帳尻を合わせることができず、遠く離れた場所で育った孤児までも戦争に巻き込もうとするのだから、もう溜息しか出ない。
原因をこさえた間抜け共の首をまとめて刎ねてやりたい。
もう百年続いている戦争だから、発端となった奴らはすでに墓の中だろうが。
「結局、帝国は独立した高位貴族家全てを相手にすることはできなかった。だから、独立した貴族家の中心的役割を担った公爵に狙いを定めて一気に攻め滅ぼそうとしたんだけど……」
「その結果がこのザマか……。泣きたくなるな……」
クリスが知らないだけで、本当は皇帝側に何かやんごとない理由があったのかもしれないが。
そうでもなければ、戦争の犠牲者たちが浮かばれない。
「てか、いくら弱体化したといっても元は国と一貴族の戦いなんだろ?なんでこんなに長引くんだ?」
「独立した貴族たちの一部が公国のさらに西側から公国を支えているし、周辺国家も全力で公国を援助したからね。公国が耐えている限り、彼らは平和なわけだし」
「ああ、そういう……」
自国より強い国同士で睨み合っているうちは、自国が襲われる危険は小さい。
周辺の弱小国家としては、これ以上ないくらいありがたい情勢なわけだ。
俺はクリスの説明に納得しそうになり、しかし矛盾に気が付いた。
「いや、それにしたっておかしい。当時はどうか知らんが、今の帝国は強国のはずだ」
大陸最東端で他国との国境線が短いという地政学的優位を享受した帝国は、この百年で十分に発展して力を蓄えている。
実際、帝国は一都市に過ぎない戦争都市だけで公国と戦争をしているし、全国各地を旅しているわけではないが、立ち寄った帝都や中継都市に戦争の空気は皆無だった。
押し込まれているなら、近隣の都市から領主軍を派遣すればいいのだ。
それが難しくとも帝都には正規軍がいる。
彼らは一体どこで油を売っているのか。
当然の疑問だと思うのだが、クリスの微笑はどこか諦観を孕んだものだった。
「忘れたのかい?この戦争は、貴族の弱体化を企んだ皇帝が引き起こしたんだよ」
それはさっき聞いた。
反射的に口から飛び出そうとする言葉を押しとどめ、俺はクリスがその説明を繰り返した理由を考える。
そして、ほどなくそれに思い至った。
「まさか、戦争都市の力を削ぐために支援を渋ってるのか……?冗談だろ?」
「冗談だったら良かったんだけどねえ……」
俺たちは戦争都市への道中、帝都に立ち寄った。
そこで見たのは繁栄を極めた大都市と、外縁部ですら眩暈がするような人の群れ。
支援する余裕がないなどと言い訳されても、それを信じるのは不可能だ。
「帝国は、一回滅んだ方がいいんじゃないか?」
「同感だよ。できるものなら目の前の軍勢をそのまま帝都にご案内したいね。まあ、実際に案内したところで正規軍に踏み潰されるだけだろうし、それどころか宮廷魔術師だけで蹂躙できるのかもしれないけど」
「宮廷魔術師ってそんなに強いのか?」
たしか10人くらいしかいない帝国最強の魔法使い集団だったか。
クリスはしみじみと頷いた。
「僕が会ったことがある宮廷魔術師は魔法の射程が2000もあるし、一度に数百人の兵士を薙ぎ払うと聞いたよ」
「なんだそりゃ……。もうそいつ一人連れてくれば全部片付くんじゃないか?」
「…………ああ、そうかもしれないね」
強力な魔法使いと言われて思い浮かぶのはティアのこと。
しかし、彼女の射程は甘めに見積もっても精々400メートル程度。
<氷魔法>の性質もあるとはいえ、十分に時間をかけて密集したところに撃ち込んでも一度に100人以上は厳しいだろう。
それだって並みの魔法使いと比較すれば隔絶した力なのだが、やはり上には上がいるということか。
クリスの表情が硬くなったのは少し気になるが、その知り合いの宮廷魔術師とやらも戦争都市の危機に駆け付けてはくれないのだから、色々複雑な思いがあるのかもしれない。
ティーカップに残っていた紅茶を一気に飲み干すと、そこには普段の微笑が戻っていた。
「話を戻そうか」
「ああ、何の話だったか……」
「僕の罪滅ぼしは正しいかという話だよ、アレン」
そうだった。
クリスが彼ら――――敵兵を見てみろなんて言うから、話が逸れてしまった。
「それで、僕が何を言いたいのかわかってもらえたかな?」
「正直に言うと、わかりたくないな……」
帝国の暴挙から逃れるために独立を宣言し、自由と領民を守るために百年も戦い続けている敵国。
百年前の間抜けな皇帝陛下のために、嫌々ながらも死ぬ気で戦わなければならない戦争都市。
この戦争の構図のことを言っているのだろう。
これでは――――
「僕には、帝国に正義があるとは思えない」
どちらが悪かわからない、と煙に巻くことすら難しい。
思えば、敵軍――――公国軍の置かれた戦況は絶望的だ。
帝国の一部に過ぎない戦争都市を相手に、周辺国の支援を受けながら百年戦争。
乾坤一擲の勝負を勝ちきったところで、待ち受けるのは更なる戦いの日々。
しかも、次の相手は戦争都市領主軍より遥かに強大な帝国正規軍だ。
戦いが成立しているのは、帝都が真面目に戦争をする気がないからだ。
帝都がその気になれば、俺たちを踏み潰そうとしている目の前の軍勢すら簡単に溶けて消えるのだろう。
強大な魔法使いを擁する帝国正規軍は公国が必死の思いで攻略した地域を瞬く間に取り戻し、逆侵攻して公国を滅ぼすことだって決して難しくはないのだ。
いつか訪れる敗北は確定的で、勝利を得る方法は存在しない。
それでも戦い続けるのは、公国にそうしなければならない理由があるからだ。
「公国にも微かな希望がある。帝国は強大だけれど一枚岩じゃないから、死力を尽くして戦争都市を滅ぼせば、皇帝に反発する貴族たちが皇帝を引き摺り下ろしてくれるかもしれない」
「そんなこと、あり得るのか?」
「微かな希望と言っただろう?」
どうにもやるせない。
俺は深く溜息を吐いた。
「くだらない意地を捨てて、公国の独立を認めてほしい。彼らの望みはそれだけなんだ。そのために死ねるくらい、兵士一人ひとりがそれを切望しているんだとしたら、僕は――――」
「それは違う」
その先を言わせたくなくて、俺は思わず口を挟んだ。
「ここにいる公国軍の兵士たち全員が、命かけて独立を目指してるわけじゃない。もしかしたら、徴兵されて渋々戦ってる奴の方が多いかもしれない」
「……そうかな?」
「戦争なんてそんなもんだ。現に、死守命令を受けて嫌々戦争をしてる司令官閣下がここにいるだろう。きっと相手も似たようなもんさ」
空になったティーカップにお代わりを注ぎながら冗談を口にする。
それで何かが変わるわけでもなかったが、クリスは小さく微笑んだ。
「そうだ。ここで戦うことが正義だと思えないなら、さっさと辺境都市に帰らないか?罪滅ぼしは別のところでやればいい。俺も一緒に考えてやる」
「ありがとう、アレン。僕もこんなのは性に合わないって、本当はわかってるんだ。でも、正義の在処がどうであれ、都市の人たちを守りたい気持ちも本物なんだよ」
「……そうか。お前にとっては故郷だもんなあ……」
冗談の流れで本題を口にしたのだが、クリスの決意は揺るがなかった。
もう理屈で説得する方法は思い浮かばない。
クリスの心に響かないと、意味がないのだ。
「…………ッ」
大皿に乗せられたクッキーの最後のひとつがクリスの口の中に消え、注いだばかりの温い紅茶もそれを追う。
話が途切れ、面会を打ち切るには丁度良いタイミングだ。
「興味本位だが、公国が本気になる原因の助言というのは、結局何だったんだ?」
そうならないよう、俺は無理やりにでも話題を繋げた。
しかし――――
「ここから生還できたら、いつか酒の肴に語ると約束するよ。だから――――」
紅茶を一息で飲み切ったクリスは言葉を途中で切って、鋭い視線をこちらに向けた。
「アレンは、先の約束を果たしてくれるかい?」
空になったティーカップがコトリと音を立てて、テーブルに置かれた。
先の約束――――それは俺とクリスの間で交わされた身勝手な契約だ。
『ネルと一緒に死にたいか、ネルを危険から遠ざけたいか。お前の意見を聞いてやる』
残酷な選択を提示されたクリスは、迷いに迷って後者を選んだ。
「…………」
4日前、ギルドの応接室では時期尚早と切り捨てた。
あのときは、生還の見込みが十分にあった。
しかし、今はどうだろうか。
敵の大軍が攻め寄せるのは明日。
契約を履行するなら、きっと今が最適なタイミングだ。
睨み合うように交差させた視線は、気づけばテーブルに落ちていた。
押し負けた。
道理はクリスにあり、駄々をこねているのは俺だ。
「はあ……」
何と言ったらいいのかわからなかった。
だから癖になっている溜息のように、それは自然に口から零れ落ちた。
「それでも俺は、お前に死んでほしくないなあ……」
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