第350話 現実




 第一陣と思しき敵の軍勢が到着したのは、前哨戦翌日の昼頃だった。

 数千の護衛部隊は川から遠く離れた場所に配置され、奇襲を警戒したのか哨戒も密に行われている。

 少し遅れてやってきた本隊と思しき軍勢が護衛部隊の背後で広大な陣を形成し始めると、やがて平原は敵兵で埋め尽くされた。


 個々の質では優っているとか。

 各個撃破を繰り返せば戦力差をひっくり返せるとか。


 そんな強がりすら空しくなるほどの光景。


 各所から立ち昇る炊事の煙が、机上にあった三万という数字を現実のものとして俺たちに叩きつけた。





 ◇ ◇ ◇





「渡河のための資材が比喩じゃなく山積み。数は少ないけど、高速の小型魔導船もある」


 俺はネルを引き連れ、前線基地の南北に続く崖の上から敵陣を偵察していた。

 少しでも好材料を探せればと思ったのだが、双眼鏡を構えるネルが伝える情報はどれもこれも敵軍の本気度を示すものばかり。


 少しくらい油断したって良いものを。

 本当に嫌になる。


「資材を焼いたら、連中は侵攻を断念すると思うか?」

「一か所にまとめてあるわけじゃないんだから……。仮に焼いたところで、あれだけ兵士がいればなんとでもなるでしょ」

「そうか。まあ、そうだろうな……」

 

 資材がダメなら兵糧――――は禁じ手だろう。

 ここが国境なら一定の効果を見込めるだろうが、前線基地の西側には戦争都市領だった街や村が点在している。

 この状況で敵軍の食料を焼き払うのは、三万の盗賊をそれらの集落にけしかけるに等しい。

 そこに生きる人々を、暴力と飢餓が生み出す地獄へと叩き落とすことになる。


「…………」


 俺が思案する間もネルは必死に双眼鏡を覗き込み、敵陣の状況を探っている。


 どこかに穴があるはずだ。

 何か対抗するための鍵があるはずだ。

 それを見つけるのが自分の役目だ。


 そう主張するように双眼鏡を離さない。


 だから、これは俺が言わねばならない。


「ネル」

「…………なによ」

「辺境都市に帰れ」


 ネルは双眼鏡を下ろし、こちらを鋭く睨んだ。


 言葉はない。

 ただ、その態度が明確な拒絶を示している。


「勝てると思うか?」

「やってみなきゃわからない」

「馬鹿を言うな。わかり切ってるだろうが……」

 

 先ほどネル自身が言った通り、渡河のための資材や小船を全損させたところで渡河を止めることは不可能だ。

 何なら魔導砲を並べてこちらを滅多打ちにする間に、兵士を泳いで渡らせることだってできる。

 基地の残骸とでもいうべき拠点に籠る二千足らずの混成部隊など、それだけで排除できてしまう。


 劣勢などと言える状況は終わった。

 前線基地は、すでに敗北しているのだ。


「前にも言ったが、お前が戦場に残ってもできることはない。泣き落としでクリスを説得する方がまだ現実的だ」

「それができるなら最初からやってる!!」


 そう叫ぶネルの目には涙が浮かんでいた。


 彼女がクリスの正体を知るに至った経緯は聞いている。

 今の状況に責任を感じていることも知っている。

 ただ、その責任の一端というか半分以上が俺にあることは、ネルの中では考慮されていない。

 彼女とパーティを組んでわずか3か月しか経っていないが、それでもこの程度のことが理解できるくらいには共に過ごしてきたのだ。

 

 だから、ネルの急所も知っている。


「お前が意地を張るから、ティアが逃げられない」

「それ、は……ッ」


 ネルの綺麗な顔がはっきりと歪んだ。


 ネルがクリスを大切に想っていることは、この数日でよくわかった。

 そして、ネルがティアを大切に想っていることも初対面のときから知っている。


 長い月日を共に過ごした彼女の親友は、彼女を戦場に置いて自分だけ逃げたりはしないだろう。

 彼女がここに留まる限り、彼女の親友は戦場で危険に晒され続けることになる。


「…………ティアと話してくる」

 

 顔を伏せたままネルはこの場から立ち去った。

 重い足を引きずるように野営地に向かう背中を見送り、俺もゆっくりと足を動かし始める。


 向かう先は野営地ではない。

 これから俺たちのテントでは、ティアとネルの大喧嘩が始まることだろう。

 互いが互いを想うからこそ簡単に決着するはずはなく、俺がその場にいてもできることは多分ない。

 

(それに、俺がやるべきことは他にあるからなあ……)


 司令官閣下がおわす最上階を見やりながら、俺は基地へ向かって足を動かした。






 基地の雰囲気は昨夜から大きく変わっていた。

 前哨戦で命を落とした者、重傷を負って後送された者、過酷な戦場に耐えかねて戦争都市に帰還した者。

 現在基地に残る冒険者は前日から大きく数を減らし、500余りとなっている。

 

 しかし、変化の原因は頭数の減少ではない。

 

「聞いたか?」

「ああ、見渡す限り敵兵で埋め尽くされてるらしい」

「まだ増えてるなんて話も聞いたぞ」

「無理だろ、こんなの……」


 敵の大軍が現実のものとなり、冒険者たちが恐怖に侵食されているのだ。


 昨日の勝利があってすらこのザマだ。

 それがなければ、今頃街道は脱走者で溢れていたかもしれない。


「面目ない……。なんとか立て直してみせる」


 途中でばったり出くわしたランベルトには頭を下げられた。

 基地内の雰囲気には『戦狼』も気づいており、ベテラン冒険者の手を借りて士気の低下を抑えるために奔走にしているという。

 相変わらずそつのない動きをしてくれるので本当に助かる。


 俺は彼らの努力を労って冒険者たちのことを任せ、基地内の階段を昇った。


「おつかれさん」


 すれ違う兵士たちに声を掛けながら上層を進む。

 これ見よがしに首から下げたB級冒険者のカードは見張りの兵士にも効果を発揮した。

 昨日の奇襲作戦と数日前の基地強襲戦の戦果によって『黎明』の名は基地内で十分に浸透しているらしく、笑顔で応じる者までいる。


 俺が上層の通行権を持っていることを誰も確認しないのは、クリスが『黎明』に所属していることも知られているからか。

 それとも、この程度のことを手抜かりなく行う余裕すら失われているからか。


 ただ、流石にクリスのところまで素通りとは行かなかった。


「不景気そうな面してるじゃないか。何か良くないことでもあったのか?」


 兵士の引き締めや都市への報告など、騎士の仕事はいくらでもあるだろうに。

 クリスがいると思しき司令室へと繋がる通路には、武装した騎士の見張りが3人も付いていた。


「何の御用ですか?」


 基地強襲戦のときにクリスの補佐を務めた騎士ライアンが、彼らを代表して問う。

 両サイドの騎士たちと比べて落ち着いているのは俺と面識があるからだろう。


 それでも油断した様子を見せない用心深さは、兵士たちの様子と比較するとむしろ安心できる。


「司令官閣下のご機嫌伺いと、ついでに好物の差し入れだ」

「…………」


 ライアンは表情を動かすことなくじっと俺の目を見ていた。

 騎士たちにとって最も警戒すべきは、敵軍との戦闘開始前にクリスを連れ去られること。

 この状況で司令官が基地から退避すれば兵士たちの士気は崩壊する。

 それが意味するのは、領都における泥沼の防衛戦にほかならない。


 もっとも、ライアンの懸念は的外れだ。

 俺はクリスを一人の男として認めている。

 本人の意思を無視して、無理やり危険から遠ざけるつもりは一切ない。


「わかりました。ただし、クリストファー様はご多忙です。長時間の面会はお控えください」


 何事か意見しようとする騎士を手で制し、ライアンは道を譲った。

 押し問答になることを覚悟していたので意外に思っていると、ライアンは溜息まじりに付け加えた。

 

「通さないと言っても、どうせ押し通るつもりでしょう」

「……否定はしない。まあ、迷惑はかけないさ」

 

 ひらひらと手を振って、俺は騎士たちが守る通路を進んだ。






 前線基地の最上階にある司令室。

 その扉に手をかけ、ゆっくりと開け放った。


 司令官は貴族だろうから内装も豪華だろうと想像していた。

 それが思いのほか殺風景になっているのは元司令官が撤退時に主要な重要な物が回収し、敵兵が撤退時に大半の物が破壊したからだろう。


 中身を持ち出されて空っぽになった資料棚。

 隠し通路でも探したのか破かれたままになっている壁紙。

 司令室には似合わない小さなテーブルと不揃いの椅子たち。


 ここ数日で目まぐるしく主が変わった司令室にあるのは、それだけだった。


「…………」


 バルコニーへ繋がるひび割れたガラス窓が風に揺られて音を立て、誘われるように外に出る。

 暖かな風が頬を撫で、日の光に目を細めた。


「よく来たね、アレン」


 敵情視察をしていた相棒が振り返る。

 服装は依然として貴族風だったが、雰囲気はいつものクリスだった。


「疲れているだろう。少しお茶にしよう」


 『セラスの鍵』でクッキーを召喚した俺は、普段通りの気軽さで相棒に声を掛けた。



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