第304話 約束のとき
「やっぱり大きな湯船は解放感があっていいね」
宴会はお開き。
風呂から戻って来たクリスと入れ替わりで、ネルとティアが二度目の入浴に向かった。
クリスと二人で話したいことがあったので、俺はこれ幸いとクリスに着座を促す。
「以前、戦争都市への旅行の話をしたのを覚えてるか?」
「……ああ、もちろん」
「それは良かった。なら悪いが、そろそろ答えを聞かせてくれ」
この話をしたのはもう1月ほど前になる。
ティアに想いを告げるための儀式として提案した、戦争都市への旅行計画。
俺自身が置かれた状況の変化を考えると、これ以上引き延ばすわけにはいかなかった。
クリスが渋るようなら、そのときは――――
「僕も行くよ」
「……そうか」
クリスは思いのほかあっさりと同行を決めた。
「一応聞くが、無理はしてないよな?」
「もちろんだよ。アレンに倣って、僕もケジメをつけようと思ったのさ」
クリスはいつもと変わらぬ微笑を浮かべていた。
前回この話をしたときに見せた態度がただ事ではなかったので念を入れての確認だったが、どうやら余計なお世話だったようだ。
「わかった。日程は『鋼の檻』絡みの動きを見ながら決めるから、しばらく遠出は控えてくれ」
「了解。じゃあ、僕はそろそろお暇するよ」
クリスは一仕事終えたような雰囲気を醸し出し、席を立って伸びをした。
「なんだ、お前は泊って行かないのか?ティアとネルは一泊していくみたいだぞ」
「せっかくのお誘いだけど、遠慮しておくよ。愛の巣に他の男がいたら邪魔だろう?」
「おまっ!?」
素早く視線をドアに向ける。
リビングとエントランスホールを隔てるドアは閉められていた。
しっかりとした造りのドアが向こう側に音を漏らす心配はない。
俺は安堵の溜息を吐き、クリスを睨んだ。
「お前なあ……」
「ははっ、3人も囲っているんだから、否定はできないだろう?」
「…………」
俺は口を結び、水差しからグラスに乱暴に水を注ぎ足した。
冷たい水で喉を潤しながら、ふと思う。
(フィーネの件、クリスに相談したか……?)
相棒は帰り支度を整えながら口の端を上げる。
どうやら鎌をかけられたらしい。
わきが甘いと言葉で指摘するよりもよほど効果的だ。
忠告のお礼というわけではないが、俺は玄関までクリスを見送りに出た。
「アレンも重々承知の上だろうし、この件に関して僕からは何も言わないよ。ただ……」
「ただ……?」
玄関に背を預ける俺に忠告を続けたクリスだったが、中途半端に言葉を切った。
「いや、なんでもないよ。またね、アレン」
「……ああ、またな」
寂しげな表情が気になったが、声を掛けるタイミングを逸してしまった。
クリスが見えなくなるまで黙って見送り、俺はリビングに戻りながらその理由に思いを巡らせる。
(やっぱり、切り札の件だろうなあ……)
ネルの態度から懸念はしていた。
クリスとネルの距離が俺の予想より近づいていたと仮定して、今回の別行動の間にさらに仲を深めたのだとして、それでもネルの気の遣い方は異常だった。
あの無遠慮なネルをして口を噤ませるほどの何か。
そう考えると頭が痛くなるが、クリスの切り札は俺が使わせたようなものだ。
それによって何か問題が起きているなら、その解決に手を貸さないわけにはいかない。
とはいえ、あまりこちらから口を出し過ぎるとクリスのプライドを傷つける。
問題が表面化しないうちは、何も知らないフリをするほかないだろう。
「クリスさん、帰っちゃったんですか?」
冷めたツマミを肴に残った酒をちびちびと流し込んでいると、二度目の入浴を済ませたティアがリビングに戻って来た。
肩に掛けたタオルを取ると、深い栗色の髪がふわりと揺れる。
「お言葉に甘えて、贅沢に使わせてもらいました」
ティアが言うのは風呂場に置いているシャンプーの類だ。
俺は入浴を快適なものにするためには出費を惜しまないと決めているので、それらの品々は西通りの高級店で吟味したものを並べている。
シャンプーの存在を教えてくれたのはほかならぬ彼女なので、遠慮しないで使ってほしいと前々から伝えていた。
「どうですか?」
シャンプーのCMモデルがするように、ティアがゆっくり髪を揺らして見せた。
灯りを反射して鮮明なエンジェルリングが浮かび、俺は思わず目を奪われたが――――
「もっと近くで見ないとわからないな」
「そうですか。それは困りましたね」
彼女は悪戯っぽく微笑み、緩やかな足取りでこちらへと近寄る。
そのまま隣に来てくれるかと思いきや、わざわざ俺の傍を通り過ぎて焦らすと、反対側から回り込んだ。
「どうぞ」
「それじゃ、遠慮なく」
隣に掛けたティアが逃げられないようにしっかりと肩を抱き、その髪に触れた。
美しい髪を絹のようだと表現することがあるが、ティアの髪がまさにそれだろう。
「いかがですか?」
「最高だ」
「それは良かったです。毎日のお手入れが報われます」
ティアは大きく息を吐き、俺に体重を預けて目を閉じた。
飽きもせず彼女の髪を弄びながら、俺はドアの方を窺う。
ティアと一緒に入浴していたはずのネルが間を置かずに戻ってくるのではと考えていたからだが、今のところその様子はなかった。
(もう、客室に引っ込んだのかもしれないな……)
今回の昇級試験では、ネルにも相当の無理を強いた。
きっと疲れが溜まっているだろう。
そんなネルには悪いが、そうとわかれば好都合だ。
最終的に彼女にも話すことではあるが、待たせた以上旅行の件はまずティアに話したい。
「ティア、覚えてるか?東の村に二人で遠征した帰りに、俺が言ったこと」
彼女は目を開け、ゆっくりと体を起こして視線を合わせた。
その瞳には、薄っすらと悲しみの感情が見える。
「覚えてますよ。忘れるわけ、ないじゃないですか……」
ティアとこの話をしてからわずか1月半の間に様々な出来事があった。
そのどれもが鮮烈な記憶として刻み込まれている。
それでも彼女は言う。
それらの出来事によって、俺との記憶が薄れることなどない。
どうしてそれを疑うのかと、視線が悲しげに俺を責めた。
「そうか。そうだな、すまん……」
待たせた時間が長かったから、などと言い訳しても逆効果になりそうだ。
素直に謝ると彼女は微笑を浮かべ、俺を許してくれた。
「本当に待たせて悪かった。状況が落ち着いたら、出発しよう。『黎明』のB級昇級祝いも兼ねて、4人で旅行だ」
「4人で、ですか」
呟いた声音は少し寂しげだった。
わかりやすい反応が可愛らしく、思わず頬が緩む。
「4人と言っても、ずっと全員で行動というわけじゃない。2人で都市を観光する時間を作って、色々と見て回ろう。詳しい人から話も聞いたから、きっと退屈しないはずだ」
観光旅行など経験がない俺に、各都市の話をしてくれた不思議な女のことを思い出す。
彼女が無事に困難を退けたことを祈りつつ、俺は彼女を思考から追い出した。
「一緒に来てほしい。そこで、伝えたい言葉がある」
今はティアだけを見る。
頬を染めて頷く少女のため、そうあるべきだと俺は思った。
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