第297話 茶番1




 幼少の頃『月花の籠』に住んでいたフィーネは、娼館という場所や娼婦という職業に関して十分な知識を持っている。

 採用から準備期間もなしに名簿に載せられるとバルバラが認めるほどで、しかしそれはフィーネを娼婦にしたくない俺にとって非常に都合の悪い話だった。


 期限は日没。

 それまでにどうにかして、彼女に娼婦を諦めさせなければならない。


 では、どうすればいいか。


 フィーネの態度を見るに正面からの説得は難しいだろう。

 彼女は望んで娼婦をやろうとしているわけではない。

 法や暴力から身を守るために必要だから仕方なくそうしているのであり、俺が彼女を救うことができるかもしれないと理解もしている。

 だが、彼女は俺に救われることを望んでいない。

 意地の問題もあるが、俺が多大な対価を支払うことと自分が娼婦になることを天秤にかけて、娼婦になる方がマシだと考えているからだ。


 しかし、ここに付け入る隙がある。


 領主サイドと交渉した場合の対価が非常に大きなものになるだろうことはフィーネの想像通りだ。

 仮に大幅な譲歩を勝ち取れるとしても、それは時間をかけて交渉を重ねた末の話であり、今日ここで彼女を説得するための材料には使えない。

 少なくとも今日この場において、天秤の片方――――対価の重さは変えられないのだ。


 だから俺は、


 天秤の傾きはあくまで相対的なものでしかない。

 片方の重さを変えられなくとも、もう片方の重さを変えられるなら、天秤は望む方向に傾くのだ。

 セクハラをあれほど嫌がっていたフィーネのこと、見知らぬ男に抱かれることへの嫌悪感が小さいわけもなく、であればその嫌悪感を増幅してやるのは難しくない。


 俺に多大な対価を支払わせてでも娼婦になることを回避したい。

 たとえ一時でも彼女にそう思わせることができれば時間稼ぎは叶うのだ。


 だからフィーネには非常に申し訳ないが、彼女の初体験の相手は俺ではなくに務めてもらう。


 筋書きはこうだ。

 俺が来ると信じて部屋で待機するフィーネのところに変態貴族来訪の知らせが届く。

 変態貴族は清らかな乙女を要求しており、対応できなければ歓楽街に圧力をかけると脅迫してきた。

 歓楽街は先の変態貴族への対処でラウラ共々消耗しきっており、今はほかの貴族の機嫌を損ねることはできない。

 店に出られる者で変態貴族の要望に合致するのはフィーネしかおらず、それ以外だと成人前の幼い少女を生贄にするしか――――というシナリオをバルバラからフィーネに伝えさせる。

 

 フィーネは悩んだ末、バルバラの依頼を承諾するだろう。

 彼女は変態貴族の要望で手足を拘束され、目隠しをされた状態で変態貴族を部屋に招き入れる。

 フィーネにとってはこれだけで相当の恐怖だろうが、もちろんそこで話は終わらない。


 ここからが変態貴族――――の頑張りどころだ。


 もちろん俺がフィーネを凌辱するのでは本末転倒甚だしいので、どうにかして彼女の身体を傷つけない形で彼女にトラウマを植え付ける必要がある。


 一見難しいように思えるが、ここでラウラとバルバラの協力が生きてくる。


 まず、この前も使用した変声機能付きの仮面。

 こんな変な魔道具が何種類もあるという事実から歓楽街の業の深さが垣間見える。

 フィーネは目隠ししているので見た目は何でもいい。

 色々試してみて、一番気持ち悪い声が出る仮面を選んだ。

 懸念はフィーネの<アナリシス>によって正体が即バレすることだが、<アナリシス>は対象を目視しないと発動できないことはラウラに吐かせたから目隠しひとつで対策は足りる。

 

 次に、ラウラに用意させた怪しいクスリ。

 現実と妄想の境界を曖昧にする効果があるという禁制品で、お香と飲み薬の二種類を用意した。

 飲み薬だけでもかなり効くらしいが、今回はお香も併用して効果を増幅する。

 身体に悪い影響はないのかとラウラに尋ねたところ、「アレンちゃんも飲んだことあるでしょう?」と返されて絶句した。

 念のため解毒薬は二人分用意し、俺の分は先に飲んでおく。

 いざとなったらフロル製の状態異常回復薬もあるから問題はないはずだ。


 そして、歓楽街を訪れる男たちの多様なニーズに応える数多くの道具たち。

 これについて多くは語らない。

 全部出せと言ったら倉庫に案内されたが、半分以上は用途が理解できなかった。

 実際にフィーネの体を傷つけることはできないので使えるものも限られる。

 ただ、幻覚と併用すれば十分な効果が得られるとお墨付きを得た。


 これで準備は万全。

 完璧な計画が我ながら恐ろしい。


 あとはフィーネが娼婦を続けられないと思うような最悪の客を、俺が演じるだけ。

 これに限っては事前に練習するわけにもいかないので完全に出たとこ勝負だ。


 とにかくフィーネが嫌がりそうなことを悉くやっていく。

 

 全てはフィーネを救うため。

 

 心を鬼にして、変態貴族になりきるのだ。





 ◇ ◇ ◇





 変態貴族になりきった。


「……………………」


 変態貴族に扮してフィーネの部屋を訪ねてから、気づけば数時間が過ぎていた。

 抵抗を諦めた彼女の肢体はベッド上で無造作に投げ出され、まるで人形のようにピクリとも動かない。

 ときに嗚咽を漏らし、ときに慟哭していた彼女の口は、今は中途半端に開けられたまま微かな吐息を漏らすだけだった。


「いやー、よくやるよね」


 ビクリと肩が跳ねた。


 俺の演技とフィーネの様子の一部始終は、ラウラとバルバラに見られている。

 それすら忘れて、俺は変態貴族になりきっていた。


「私も長いこと歓楽街を見守ってきたけど、自分を慕う女にここまでやる男はそういないよ。流石だよアレンちゃん、歓楽街の支配者(笑)に相応しい振る舞いだよ、誇っていいよ?」

「いや、俺はただ……」


 言い訳を試みたがそこから先は続かなかった。

 なにせ弁解の余地がない。

 途中からまるで空想上の変態貴族が乗り移ったかのように、すらすらとフィーネを追い詰める言葉を吐き出していた。


 女性二人の視線が痛い。

 こちらに強く出られないはずのバルバラまでもが俺を睨みつけている。


「まずは解放してあげたら?」

「あ、ああ、そうだな……」


 フィーネの手を縛っていた縄を解き、目隠しを外す。


「…………」


 視線は虚ろ。

 泣きはらした目は痛々しい。

 目隠しに使っていた布は、彼女の涙が染み込んで重かった。


 今更とわかっているが、取り返しがつかないことをしてしまった気がする。


「おい、フィーネ……。おい、大丈夫か?」

「大丈夫なわけないでしょう!?散々甚振っておいて、よくもそんな――――」

「わかったから、俺が悪かったから、ちょっと黙っててくれ……」


 冷やしたタオルで涙を拭い、自分用に用意したフロル製の状態異常回復薬を少しずつ口に含ませる。

 ポーション瓶に入った液体を飲み切ったあたりで、フィーネの反応があった。


「あ、ア、レ……」

「俺だ、もう大丈夫だぞ!」


 大丈夫も何も、と言いたげなラウラとバルバラを横目にフィーネの介抱を続けた。

 彼女の意識は徐々に鮮明になっていったが、あるところで彼女は俺の手を振り払った。


「いや、見ないで……!」


 そう言って、フィーネは体を丸めてしまった。

 彼女が見た幻惑の中で、彼女は変態貴族に散々に凌辱されたことになっている。

 汚されてしまった自分を俺の目に触れさせたくなかったのだろう。


「ごめん、私、もう……」


 叫び疲れて枯れ果てた声で嗚咽する彼女に、何と声を掛けたらよいかわからない。

 背中に突き刺さる冷たい視線に押され、俺は当初の計画を放棄した。


「フィーネ、落ち着いて聞いてくれ。変態貴族なんていなかった。あれはクスリが見せた妄想で、全部俺の演技なんだ……」


 フィーネの顔がゆっくりとこちらを向く。

 弱々しいフィーネを見ていられないが、目を合わせたまま視線は逸らさない。

 俺の信用は地に墜ちるだろうが、それはもう自業自得。

 まずは、ふとした拍子に舌を噛み切って死んでしまいそうなフィーネを落ち着かせることが最優先だ。


 見つめ合うことしばし。

 彼女はゆっくりと顔を逸らした。


「うそだ……」

「本当だ!お前が娼婦になるなんて言うから、ちょっと脅かそうと思っただけなんだ!」


 再び顔を伏せたフィーネに弁解しながら、俺も説明が苦しいことは理解していた。

 変態貴族による凌辱は俺が演出した妄想に過ぎないが、フィーネの主観ではそれが真実だ。

 自分が経験したことを否定されても、素直に飲み込むことなどできないだろう。


 どうすればフィーネに信じてもらえるか。

 答えを探して途方に暮れていると、彼女は顔を伏せたまま消えそうな声で言った。


「なら、証明してよ……」

「証明……?」

「私を、抱いて……」

「あ、え?いや、それは……」


 俺は返事に窮した。

 フィーネに娼婦をやめさせたかったから、こんなバカみたいな茶番を演じたのだ。

 ここで俺が抱いてしまっては、まるで意味がない。


 しかし、押し黙る俺の考えなどフィーネにはわからない。

 彼女は顔を歪ませて視線を逸らし、両手で顔を隠した。


「ごめん……。変態に汚された女なんて、触りたくないよね……」

「いや、だからそれは――――」


 コンコン、と背後から音が鳴った。

 振り返るとバルバラは部屋におらず、ラウラが部屋から出て行くところだった。


「…………」


 扉の隙間から顔だけ出したラウラが、真顔でこちらを見つめている。

 口に出さずとも、何を言いたいかは嫌というほど伝わった。


 扉は静かに閉められ、部屋の中には二人だけ。


 嗚咽するフィーネを慰める方法は、ほかに残されてはいなかった。





 ◇ ◇ ◇





「重くないか?」

「少し重いけど、今はこのままがいい」


 フィーネの望む方法で彼女を慰めた後、俺たちは体を重ねたまま言葉を交わしていた。

 俺は彼女が幻惑を振り切れるように痛みを与え、それ以上に優しく抱きしめた。

 その甲斐あってか、先ほどまでの悲壮感も徐々に薄れ、会話が成立するまでに回復した。


 少なくとも目を離した隙に舌を噛んだり手首を切ったりということには、もうならないだろう。

 

「はあ……しばらく夢に見そう」

「本当に悪かった。反省してる……」


 金色の髪を手櫛で梳き、優しく頭を撫でる。

 彼女は頭を手に押し付けるようにして目を細めた。


 その様子に注意を払いながら、俺は少しだけ脱力して大きく息を吐いた。


(なんとか、なった……。いや、何も解決はしてないんだが……)


 自らの失策によって生じた絶望的なマイナスを原点付近まで戻しただけで、状況は全く好転していない。

 過程はともかく、フィーネの希望が叶えられたことで若干のアディショナルタイムが発生しそうなことがせめてもの救いか。


 フィーネとこうなるのは万策尽きた後になるはずだったのに、どこで何を間違ったのか――――は考えるまでもなく明らかなのだが。


 なんにせよ、俺の完璧な計画(笑)は一歩目から頓挫してしまった。


(はあ……。泣きそう……)


 鏡の中の底辺冒険者も、俺の無様を知ったら号泣するだろう。

 あるいは頓挫したと報告しても困惑されるだけかもしれない。

 だって、鏡に向かって決意表明してから、まだたったの数時間しか経っていないのだ。


 恥ずかしいやら情けないやら、しばらく鏡は見れそうにない。


「でも、アレンの言うとおりだった」

「ん……?」


 自己嫌悪で涙目になっていると、フィーネが俺の手に自分の手を重ね、ぽつりと呟いた。


「私、やっぱりアレン以外は無理みたい。ギルドもクビになって、娼婦のほかに稼ぐあてもないのにね……」


 強がりを剥ぎ取られたフィーネは、ようやく本音を漏らしてくれた。

 諦観と不安が混じったそれは俺が引き出したかったものに間違いないのだが、だからといって罪悪感が薄れるわけではない。


「ねえ、アレン。私はどうしたら良いと思う……?」


 弱々しい言葉とともに、彼女の指にほんの少し、力がこもる。


 これで二度目か。

 あるいはそれ以上か。


 いずれにせよ、これが最後だ。


 の記憶は新しい。

 もう一度フィーネに冗談と口にさせたら、彼女は俺の手の届かないところにいってしまう。

 そんな不思議な確信が、俺に行動を命じた。


「俺が買う」


 とっさに出たのは吐きそうになるくらい最低な言葉だ。

 あまりの酷さに、口に出した俺自身が絶句しそうになる。


 信じがたい暴言にフィーネから溜息が漏れる。

 ただ、そこに込められたのは呆れでも不満でもない。


 それは、本心からの安堵だった。


「明日も明後日も、その次も……。だからお前は、他の男の相手なんてしなくていい」

「ありがとう、アレン。愛してる……」


 喜色がにじむ声と背中に回された腕が、俺を喜ばせるための演技だとは思えない。


 だからこそ泣きそうになる。

 こんな言葉に喜んでしまうほど、フィーネの未来は絶望に満ちているのだ。


 お礼の言葉なんて聞きたくなくて、彼女が求めるままに口唇を塞いだ。


「……ん。ふふ……これじゃ、専属受付嬢じゃなくて専属娼婦ね」


 フィーネの冗談は鋭いナイフのように胸に突き刺さり、彼女を娼婦にさせてしまったという事実を強く意識させる。

 ただ、彼女の言葉は俺の胸に痛みを残すばかりでなく、あることを思い出させた。


「フィーネ、専属受付嬢は、もうやりたくないか?」

「え、でも……」


 フィーネの瞳が不安げに揺れる。


 今の彼女が歓楽街の外で安全に暮らすことは難しい。

 彼女を取り巻く問題の全てを解決しなければ、受付嬢への復帰はおろか大通りを歩くことすら覚束ないのだ。 


 仮に復帰しても、フィーネに付きまとうがある限り、収入源としては頼れないだろう。

 それでも、長年続けてきた仕事に対する思い入れはあるはずだ。


「考えがある。上手くいくかはわからないが、俺に預けてくれないか」

「…………」


 それからしばらくの間、俺は根気強く説得を重ねた。


 無理はしないと約束した上で何とかフィーネの承諾を取り付けると、彼女の自由を取り戻すために夕暮れの都市を駆ける。


 それが専属娼婦などという不健全な関係を押し付けた彼女への、せめてもの償いになると信じた。



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