第293話 ラウラと鋼の檻
精霊にとって魔力とは自らを構成する要素であり、その使用には慎重を期す必要がある。
魔力を無計画に浪費すれば力を減じてしまうからであり、精霊の泉が失われたこの地域において、その傾向はより顕著である。
そんなセオリーを踏みにじるような光景が、目の前で繰り広げられていた。
「いやー、久しぶりだけどやっぱり気持ちいいねー」
「それは結構だが、もう少し丁寧にやれなかったのか?危うく溺れるところだったぞ」
「ひどーい。これでも急いで回収したんだよー?」
「嘘吐け。俺より拡声器の回収を優先したくせに」
「よく気づいたねー。流石はアレンちゃん」
「…………」
咳き込むフィーネの背中をさすりながらどうでもいい会話を続ける間も、ラウラの処刑は続く。
突如出現した濁流は『鋼の檻』の連中を残らず飲み込み、今は闘技場の宙空に水球を形成していた。
巨大なアクアリウムの中で泳ぐのは熱帯魚ではなく人間だ。
姿勢制御すらままならず上下左右に翻弄され、ときに誰かとぶつかって盛大に空気を吐き出し、運が悪い奴は誰かが手放した武器に手足を貫かれて声にならぬ絶叫を上げる。
その様相はさながら地獄絵図だ。
一方、観客席は怖いくらいに無風だった。
ダイナミックな惨劇が繰り広げられるなか、観客席には水の一滴すら飛んでいない。
その事実が、ラウラが使う魔法の精度を物語っている。
「そろそろいいかなー」
糸を手繰るように小さく指先を動かすと、水球の中からひとつの物体が俺たちの近くに吐き出された。
「ガハッ、ゴホッ……」
『鋼の檻』の総長、ハイネ。
無様に転がされ、咳き込み、酸欠のためか立ち上がれずにいる彼女に本来の威厳は欠片も残されていない。
「はーい、こんにちは。ちょっとお姉さんとお話しようねー?」
「お、おまえ……。こんな真似、タダで済むと……」
「ふふ、粋がっちゃって、かわいいねー。でも頼りのお仲間さんは、今にも死んじゃいそうだよー?」
「――――ッ!」
水球に視線を向けると、他の物体とぶつかっても動かない者が増えてきた。
まるで洗濯機の中に放り込まれた人形のように、流れに任せて水中を力なく漂う『鋼の檻』の幹部たち。
彼らはこのまましばらく放置するだけで、文字通り全滅するだろう。
「クソが!何が望みだ!?」
「あなたの魔道具の保管庫に繋がる“鍵”の所有権。もちろん中身込みでねー」
ハイネが首から下げた鍵を握り締めた。
いかにもそれらしい見た目の魔道具がラウラの要求するものなのだろうか。
しかし、ハイネの仕草を見やるラウラは朗らかに笑う。
「ああ、本物が腕輪の形をしてることは知ってるよー」
ハイネは舌打ちし、ラウラを睨み上げた。
なるほど、鍵を使って魔道具を召喚することは知られているから、わざわざ目立つような偽物を用意して注意を逸らしていたということか。
ラウラには通用しなかったようだが、それでもハイネの目はまだ諦めていなかった。
「ハッ!あんたが介入した理由は知らないが、無理をしたね。火精霊レーナはさぞかしご満悦だろうよ」
体を起こし、客席と闘技場を隔てる石壁に背を預けると、ラウラを小馬鹿にするように口角を上げた。
レーナとは、ラウラと仲が悪い精霊の名だったか。
この都市の事情をよく調べている。
「レーナが?何かいいことでもあったのかなー?」
「とぼけてんじゃないよ。精霊同士の勢力争いなんて、ちょっと調べりゃ簡単にわかる」
「ああ、それならもう終わったよー?」
「はあ……?何を言って――――」
苛立ちを見せるハイネと対照的に、ラウラの余裕は崩れない。
焦りを見せた獲物をゆっくりと甚振るように、言葉の剣で少しずつ傷つけていく。
「レーナは今頃、領主屋敷で悔しさに震えてるんじゃないかな?だから私は、こうして久しぶりのお遊びに興じてるんだよー」
「ばかな、そんなわけ……」
「情報が古いよー?まあ、例の件で尻尾撒いて逃げ出したあなたたちが、それを知らないのも仕方ないことだけど」
例の件とは何のことか。
そんなことを尋ねられる雰囲気ではない。
ただ、ラウラと勢力争いを繰り広げてきたレーナという精霊が、その力を減じて均衡が崩れたということは理解した。
「そういうわけで、命が惜しかったら――――」
「お断りだよ!」
ラウラが言い切る間もなく、ハイネはその提案を一刀両断する。
強気を崩さないのは交渉カードをまだ残しているからか。
「こいつは、装備者が殺されたら保管庫との連結が切れるようにできている。そうなったら、中身の在処は永遠にわからないままだ」
「場所ならもうわかってるけどねー」
「ハッタリはやめな。部屋の在処がわからないなら、中身は全部――――」
そのとき、ラウラの瞳が怪しく光った。
「目抜き通り、街で二番目に大きい旅館の裏手の粗末な木造平屋、玄関から見て左手の部屋、ベッドの下の床板を外すと隠し通路、保管庫の解除は右から665918235、保管庫に一歩踏み込むと発動する呪術罠、解除用の魔道具があなたの手元にあるその鍵…………まだ聞きたい?」
「――――――」
戦慄するハイネの表情はラウラの言葉がブラフでないと察するに余りある。
彼女にのしかかる恐怖は、なぜと尋ねることすら許さない。
「遠くまで行くのは面倒だから、できれば聞き分けてほしいんだけどなー?」
出来の悪い子を優しく諭すように優しく告げるラウラ。
もちろん、そこに優しさなんて存在しない。
どういう言葉を掛けたら相手の反応をより愉しむことができるか。
まだ俺たちは危険の中にいるというのにラウラの頭の中にはそれしかないように見えた。
「おい、あんまり油断するなよ?」
「なあに、アレンちゃん。私のことが心配なのー?」
その瞬間、俺は助言を後悔した。
揶揄われたからではない。
ラウラの視線がハイネから切れた瞬間、ハイネの手元に魔法銃が出現したからだ。
ぐったりしていたのもブラフだったのか。
ハイネは素早く照準して無警戒のラウラに向けて引き金を弾く。
「ラウラッ!!」
フィーネを抱き寄せたまま立ち上がることすら怠っていた俺には声を出すのが精一杯だった。
魔法銃が生成した金属弾がラウラの胸を貫いて背後の観客席に突き刺さり、硬質な音を立てる。
その光景を、俺はただ見ていることしかできなかった。
「アハッ!アハハハッ!ざまあないね、クソ精霊!!」
ハイネは背後の石壁を支えにして、ゆっくりと立ち上がる。
俺もフィーネを背後に庇って立ち上がり、その段になってようやく『スレイヤ』を手放していたことに気づいた。
(ああ、俺は何をやって……ッ!)
ラウラに任せた時点で自分の役割が終わったと脱力してしまった。
俺が余計なことさえ言わなければ、こんな状況に陥ることもなかったのだ。
油断していたのは、一体誰か。
だからこそ――――
「なんちゃってー。いい顔だね、アレンちゃん」
「は……?」
その声が聞こえても、ハイネの顔が歪んでも、ハイネから視線を切ることが怖かった。
ラウラに優しく突き飛ばされたハイネがふらふらと転倒し、呆然とラウラの方を見上げたところで、俺はようやくラウラの姿を視界に捉える。
「ラウラ、お前……」
ラウラが纏う藍色のドレスは胸のところに小さな穴が空いている。
そこから覗くのは肌色だけで、その身に銃撃の痕跡は確認できなかった。
「何を驚いてるの?まさかとは思うけど――――」
ラウラは奪った魔法銃を手の中で弄び、這いつくばるハイネに銃口を向けた。
「こんな玩具で、私を滅ぼせると思ったの?」
そこには普段通りのラウラがいた。
俺に水と偽って謎の飲み物を飲ませたときとなんら変わらない恍惚とした表情で、心底愉快そうにハイネを見下ろしている。
(ああ、そうか……)
ラウラは油断などしていなかった。
もしかしたら、戦っている自覚さえないのかもしれない。
ラウラ自身の言葉通り、彼女にとってこの状況は、お遊びでしかなかったのだ。
「お山の大将は楽しかった?でも、もう夢から醒める時間だよー」
獲物の無様を存分に堪能した後で、鬼畜精霊は優しく手を差し伸べる。
「私も飽きてきたし、あれの仲間になりたくはないでしょう?」
「…………」
背後に浮かぶ悪趣味な水牢。
処刑が済んでいない囚人はただ一人。
活路など、もはやどこにも残されていない。
数百人を率いていた上級冒険者は力なく項垂れ、誇りを捨てて処刑人の慈悲に縋った。
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