第五章
第275話 財務局長の来訪
「一体、何の話だ?」
誰に向かって言うでもなく呟いた言葉は、応接室に溶けて消えた。
俺が滅多に使わない――というか一度も使ったことがない――応接室にいる理由は、応接室を使用すべき状況が発生したからにほかならない。
事の発端はつい先ほどのこと。
庭先で剣を振っていると政庁の文官を名乗る男が訪ねてきて、話があるから時間を取ってほしいと言い出したのだ。
今日は昼過ぎからフィーネとの予定を入れているが、幸い待ち合わせの時間まではまだ十分な余裕があった。
面倒事はさっさと済ませてしまおう。
そう思って文官を屋敷を招き入れようとしたが、なんと文官はこれを固辞。
彼によると自分はあくまでアポ取りに来ただけであって、話は彼の上司である政庁の財務局長が直接するという。
政庁財務局長――――いかにも偉そうな役職だ。
正直に言って、自宅に招きたい相手ではない。
俺はそれとなくこちらから出向いても良いと伝えたが、文官は丁寧な口調ながらこちらから出向くの一点張りで交渉の余地は皆無だった。
そういうわけで、俺は仕方なく財務局長様を屋敷にお招きするための準備をしている。
もちろん実際に準備をしているのはフロルだ。
そのフロルにしたって客が来る寸前になってから急いで掃除を始めるという醜態を晒すはずもなく、応接室の中は塵ひとつない清潔さが確保されている。
我が屋敷は、相変わらず塵や埃に厳し過ぎる。
(調度品の類は……まあ、今更気にしてもどうにもならないか)
応接室には、高そうな壺や絵画が申し訳程度に飾られている。
これらは屋敷を購入したときに一緒に付いてきたものだ。
美術品の評価など俺にはできないし、趣味に合わない物はなかったのでそのまま飾ってある。
そのまま応接室で何をするでもなく待っていると、応接室の扉が開いた。
フロルが扉の隙間から顔を出して小さく頷く。
「来たか。どれ、俺も出迎えよう」
用件がわからないので、ローザには部屋から出るなと伝えてある。
アンは孤児院での勤務があり、夕方まで帰って来ない。
客を迎えるのは俺とフロルだけだ。
応接室の鏡の前で身なりを整え、俺はエントランスホールへと足を運んだ。
実のところ、政庁のお偉いさんを屋敷に招くにあたって俺はそれなりに緊張していたわけだが、実際に現れたのはどこかで見た顔ぶれだった。
訪問客は3名。
先ほどアポ取りに来た文官、アルノルト・バルツァー、そしてベンヤミン・ユンカースだ。
アルノルトは騎士団本部所属でジークムントの配下、インテリメガネ風の副官だ。
最近はよく世話になるので、名前を覚えるのが苦手な俺も流石に覚えた。
ユンカースの方はどこで会ったかすぐには思い出せなかったが、ネルが帝都に連れて行かれそうになった一件で報酬交渉に出てきた役人だったことを、本人と話しているうちに思い出した。
あのときは財務局長という肩書ではなかった気がするので、おそらく最近になって昇進したのだろう。
「さて……、本日こうしてお時間をいただいた理由について、お話ししなければなりません」
フロルが淹れた紅茶とお手製の焼き菓子を褒めちぎり、軽い雑談を経た上で、彼らはようやく話は本題に入ろうとしていた。
本題の前振りとなる言葉を告げるユンカースの声は重苦しい。
言いにくいことを、おそらくは俺にとって良くない話をしようとしているのが雰囲気から伝わってくる。
ユンカースの財務局長という役職を考えれば、話というのは金か権利のことだろう。
思い当たるのは屋敷のことくらいだが、しかし地税はすでに支払っている。
(税金関係の手落ちは絶対にないはずだが……)
土地と屋敷に課される地税で痛い目を見た俺は、あれから暇を見つけてこの都市の税制を念入りに調べた。
その結果、この都市の税金は非常に単純な構造をしていることがわかった。
人頭税と、不動産を所有していれば地税。
一般市民が支払う税金は基本的にこの二種類しか存在しないのだ。
さらに言えば地税を支払わないと土地屋敷を没収されるが、人頭税は払わなくとも都市から追い出されることはない。
そもそも戸籍や住民台帳のような網羅的なシステムが存在しないため、政庁ではどこに誰が住んでいるか正確には把握していないようだった。
では、政庁はどうやって人頭税を徴収しているか。
答えは市民たちに自主的に支払ってもらう、だった。
人頭税の支払いは任意で、それでもほぼ全ての市民は人頭税を支払う。
なぜなら、税を払わなければ領主の保護という名の行政サービスを受けられないからだ。
人頭税の徴収時に住所と氏名を記録し、人頭税の支払証を持つ者に対してのみ良質の治安を提供する。
無慈悲なことだが、考えてみればある意味で合理的なシステムだ。
スラムの中までねり歩いて完全な戸籍を作成し、金を持っていない人間に人頭税を要求したって銅貨一枚にもならない。
仮にスラムの住人を都市外に放逐したところで周辺の街や村の治安を悪化させるだけの結果になるが、南東区域という隔離場所を用意しておくことで周辺地域を含めて最低限のコストで治安を維持することができるという仕組みだ。
しかし、そうなると行政サービスを受けられない人間は仮に強盗に襲われても衛士に助けを求めることができず、周囲にとって迷惑でしかない。
そんな人間に住居を貸したい家主などいるはずもなく、人頭税を払えない者は市民の手によって自然と南東区域に追いやられる。
その構造を誰もが理解しているから、人頭税を払える者がそれを支払わないことはあり得ない。
この都市に住む者たちにとって人頭税の支払いによって衛士の警備を含む行政サービスを確保することは、日々を安全に暮らすために最も優先すべきことなのだ。
このようにして政庁は任意と言いながら大半の市民から人頭税を徴収し、しかも徴税コストを最低限に抑えることができている。
セーフティネットという概念が欠落していることを除けば、よく考えられた社会構造だった。
なお、人頭税や地税以外だと入市税あたりがよくある税金という印象だが、これはこの都市では徴収されていない。
他国との国境から非常に遠く有体に言えば辺境であるこの地域において、少数のならず者を都市に入れないために厳重な検問を敷くことよりも流通を良くして経済を活性化することの方が重要課題だと認識されているからだろう。
このほか商売するなら営業税、それ以外にも業種や売り物によっては特別な税が課されるようだが、冒険者の稼ぎが課税されないことは確認済みだ。
そんなことを考えていると、ユンカースが本題を切り出した。
「本日お伺いしたのは、アレン様にお詫びしなければならないことがあるからです」
「お詫び……?」
「ええ。先日、魔人討伐の件で騎士団から報酬をお支払いしました。それに関係することで……」
政庁のお偉いさんがわざわざ平民宅に足を運んでお詫びとは。
報酬を払いすぎたから返してほしいなんて話はちょっと困るが、その程度で財務局長が出てくるかというとそんなことはないだろう。
不安と興味が拮抗する中、ユンカースは話の核心を告げた。
「実は……、事務官が身分確認と称して、貴方の魔力量を計測したことが、内部の調査で判明しまして……」
「…………は?」
予想だにしない言葉に、思わず喉から低い声が漏れた。
時間を掛けて状況を理解する。
『では、こちらに手を』
討伐報酬の受領手続きをしたことを思い返すと、たしかにそのような場面があった。
「……あのとき、か」
2つの魔道具を使用したことは気になったが、それが当然と言わんばかりに淡々と手続が進められたから疑いもしなかった。
文官の顔は霧が掛かったように思い出せない。
自分の乏しい記憶力が恨めしい。
テーブルに落としていた視線を正面に戻すと、引きつった笑顔を浮かべるユンカースが目に入った。
室内は快適に保たれているにもかかわらず、震える手でしきりに汗を拭いながら視線を宙に泳がせている。
出世したからといって度胸が身につくわけではないらしい。
頼りにならない役人に代わりに、続きはアルノルトが説明した。
「此度の監督不行き届き、誠に申し訳なく思います。本日は本件についてのお詫びと、不躾ながら賠償についてお話をしたく、伺った次第です」
「……事情は理解した」
俺は焼き菓子をひとつ摘まみ、口に放り込んだ。
せっかくの美味しい焼き菓子だが、ゆっくり味わう気分ではない。
あくまで考えをまとめるまでの時間稼ぎだ。
しばし口の中で咀嚼し、紅茶で飲み下す。
タイミング良くフロルが紅茶を淹れ替えてくれたおかげで、ある程度考えをまとめる時間を確保できた。
フロルが後ろに下がるのを待ってから、俺はゆっくりと話し始める。
「腹を割って話す必要がありそうだ。俺はあんたたちと敵対したいわけじゃないからな」
「それはこちらも同じです」
「も、もちろんですとも!」
アルノルトが冷静に応じ、ユンカースは慌てて追従した。
穏便に事を収めたいという認識を共有できたことは良いことだ。
ユンカースの顔にわずかながら笑顔が戻るが、喜ぶのはまだ早い。
「だが、簡単にはいそうですかというワケにもいかない。金で解決なんてもってのほかだ。理由はわかるだろう?」
「ええ、そうですね……」
金銭で解決――――前世ではよくあった話だし、一見して丸く収まるようにも思える。
しかし、今回盗まれた情報は冒険者の生死に関わるもので、それを金銭による賠償で解決しようとするなら賠償額が俺の命の値段になる。
自分の命に軽々に値段をつけることはできないし、仮に付けたとしてその金額が文官の悪戯に釣り合うものになるとは到底考えられない。
ゆえに、彼らは頭を悩ませている。
金銭で解決したいが、前述の理由で賠償額を提示することが難しい。
かといって、仮にも騎士団と政庁の幹部が部下である文官の首を差し出すわけにもいかない。
となると、この場を収めるためには、やはり俺が彼らに要求する必要があるのだろう。
金銭ではないもので、彼らが応じることができるもので、さらには彼らにとって相応の痛みを伴うもの。
俺がすべき要求はこれら全てを満たしている必要がある。
難しい話に思えるが、すでに答えは見つけてあった。
だから、俺はにっこり笑って告げるのだ。
「騎士団と政庁、それぞれに貸しひとつ。これでどうだろうか?」
安堵と苦渋の入り混じった複雑な表情で帰っていく二人を見送り、俺は満面の笑みを浮かべた。
「儲けたな」
俺を見上げ、首をかしげるフロルの髪を撫でる。
冒険者の力量を暴こうという試み自体はとんでもない敵対行為だが、俺にとって実害は大きくない。
主武装が剣である俺の魔力を計測したところで、俺の実力を暴くことはできないからだ。
それと引き換えに騎士団と政庁に貸しを作ることができたのだから、収支は大幅な黒字である。
ちなみに貸しと言ったが、当分の間は返してもらうつもりはない。
貸している間は利子の如く相手側の配慮が期待できるから、可能な限り長く貸しておくつもりだ。
十分に元を取ったあたりで貸しを帳消しにしてやれば、貸しを恩に変えることもできる。
貸しの使い方は追々考えればいいだろう。
「おっと、そろそろフィーネとの待ち合わせの時間か」
訪問客との面会のため、すでに一張羅を着込んで身なりを整えてある。
防具はつけず、護身用に片手剣だけ腰に下げ、俺は冒険者ギルドへと向かった。
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