第264話 歓楽街防衛戦2
一瞬で頭が真っ白になった。
これが<フォーシング>の効果ならば、本当にとんでもない威力だ。
「我ガ、名ハ……」
そんな現実逃避をいつまでも続けるわけにもいかなかった。
この後のことを考えれば、ここで名乗っておいた方が好都合。
しかし、真っ白になった頭では適切な偽名をひねり出すことはできない。
そんな俺を嘲笑うように、独りでに動く舌がその名を口にした。
「アレックス」
語られた名は、きっとほかのどんな偽名よりも耳に馴染んだ。
当然だ。
幼少から12年近くも使った自分の名前なのだから。
「我ガ名ハ、アレックス。歓楽街ノ支配者ダ」
大仰に両手を広げ、俺は嗤う。
アレンという偽りの名は、すでに俺自身の名前になった。
今更それを捨てる気にはなれないが、どこかでアレックスと名乗れないもどかしさを感じていたことも事実だった。
大勢の人間が偽名を名乗るこの状況なら、どんな名前を名乗っても本気にはされまい。
だからこそ堂々と唱えることができる。
俺は、アレックスだと。
「そうですか。では早速ですが、魔王様のために街を明け渡していただきましょう」
胸に湧き上がる感慨も解放感も邪教徒には関係ない。
誰何しながら自身は名乗ることもしないのは俺を邪魔とも思っていないからか。
交わす言葉も少なに、邪教徒は杖を掲げた。
『退きなさい』
その言葉と共に、はっきりとした不快感が全身を撫でるように通り過ぎる。
仮面の集団ばかりか邪教徒にとって味方であるチンピラまでもが竦みあがった。
邪教徒の力を最も近い位置で受けた俺も、例に漏れず硬直を余儀なくされた。
しばし呆然と佇み、自身に降りかかった理不尽を悟った俺は思わず天を仰いだ。
「ふむ……?」
俺の些細な仕草から、邪教徒はご自慢のスキルが意図した効果を発揮しなかったことに気づいた様子。
一呼吸置いて、邪教徒は三度杖を掲げた。
『平伏しなさい』
さらに強い不快感が俺を襲う。
先ほど全方位に放たれた不可視の波動は、今度は俺の周辺だけを突き抜けるように通り過ぎた。
込める魔力を増やすだけに留まらず、有効範囲を絞ることで威力を向上させたようだ。
その証拠に、背後を振り返ると運悪く俺の後方にいた者たちが巻き込まれて気絶している。
しかし――――
「ほう、これに耐えますか」
もちろん俺には効果が薄い。
一部のスキル、特に魔力系統のスキルは習得や習熟によって同系統のスキルに対する抵抗力も飛躍的に向上する。
これは冒険者の間でもよく知られた話だ。
邪教徒のスキルが<フォーシング>かそれと同系統のスキルならば、邪教徒のスキルが俺に効かないことは理解できる。
それだけなら良かった。
スキルが効かないだけなら、こんな暗澹たる気分になることはなかった。
(なんで、よりによって<フォーシング>なんだ……)
その瞬間、俺は理解してしまったのだ。
このスキルの使い方を。
人を恐慌せしめる方法を。
邪教徒の<フォーシング>をたった一度受けただけ。
たったそれだけのことで、俺はこのスキルを掌握できてしまった。
まるでスポンジに水が染み込むような、急速で淀みないノウハウの吸収によって生じた習熟のブレイクスルー。
それは紛れもなく俺が持つ天性の才能を示していた。
本来は喜ぶべきことだ。
俺だって快哉を叫んだはずだ。
才能の在処が、最も英雄らしくないこのスキルでさえなかったら。
「ならば、とっておきをお見せしましょう」
<フォーシング>。
日陰者だけが極稀に習得できる、ラウラすら詳細を把握していないレアスキル。
そんなスキルに天性の才能があるというのはどういうことなのか、深く考えたくはない。
ジークムントやクリスという優れた手本がありながら、何度見ても真似ても全くしっくりこない<剣術>との落差に涙が出そうだ。
俺は肺の中の空気を全て吐き出すような特大の溜息を吐き、肩を落とす。
(うん……?)
気づけば邪教徒が力を溜めていた。
かなり強力なのが飛んできそうな予感がするが、避けるのは億劫だしそもそも避けられない。
『――――!』
それは、言葉にならない奇声とともに放たれた。
相変わらず目には見えない。
しかし、これまでの魔力の波動とは一線を画す収束された魔力の塊が、攻撃魔法と変わらない速度でこちらに迫るのを感覚が捉えた。
前言撤回、避けようと思えば避けられそうだ。
ただ、俺が避けたら背後にいる誰かが代わりに直撃を受けることになる。
先ほどのスキルですら気絶してしまう彼らにとって、これは冗談抜きで致命傷になるかもしれない。
逡巡の末、俺は手のひらを前方に向け、そのまま直撃を受けた。
(なるほど、こうなるのか……)
邪教徒が放つの渾身の推定<フォーシング>。
流石に違和感や不快感という範疇では済まなかった。
確かな悪寒が全身を巡る。
例えるなら、風邪をひいたときに服が肌に擦れて辛い状態をさらに酷くしたような感覚。
それが数秒間も続いた。
「…………フム?」
それだけだった。
手のひらを握り、開き、状態異常と言えるような効果が残っていないことを確認する。
これならば、大ジョッキに注がれたエール1杯の方がよほど効く。
「ば、かな……」
とっておきが通用しなかった。
理解できない事態に直面した邪教徒が一歩二歩と後ずさり、しかし逃走には移らず何とか踏みとどまる。
自分の背後に温存した戦力があることを思い出し、私兵たちに檄を飛ばした。
「何をしているのです!早く、あの者を制圧しなさい!」
つい先ほども聞いたような言葉だ。
しかし、そこに込められた感情は先ほどと正反対のもので、それを敏感に感じ取った私兵たちの動きは鈍い。
結果として、二百人以上が戦意を持って武器を握る不穏な場に不思議な膠着状態が生まれていた。
(さて…………)
自然と口の端が上がる。
<フォーシング>を習得してから2か月余り。
新たなスキルを使いこなせるように努力してきたが、それはどうすれば効果に指向性を持たせることができるかという試行錯誤の積み重ねだった。
英雄云々を一旦棚上げするにしても対象を誤れば間違いなく状況を悪化させるスキルであるし、全方位に向けて使うなどテロ以外の何物でもないからだ。
しかし、そうした懸念はすでに解消されている。
邪教徒はわざわざ全方位、範囲指定、単体という三種類の使い方を目の前で実演し、俺はその技術を余さず吸収した。
今なら昨日までよりもずっと上手に<フォーシング>を発動できるという確信がある。
そして、この状況はどうか。
アレックスとアレンを結び付けるものはなにもない。
この場で何が起きてもそれは歓楽街の支配者であるアレックスの仕業であって、冒険者であるアレンの評判には一切の影響を与えないのだ。
突如として現れた機会を前に、思索を続ける。
(目下の目標は貴族側の兵力を退けること。けれど、それだけでは不十分だ)
一時の平穏を得ることはできる。
しかし、ラウラの状態が知れた以上、アバカロフ家の再来を防ぐことはできない。
それはなぜか。
ここには暴力がないからだ。
ラウラが弱体化し、長年の関係から騎士団や衛士隊も積極的に干渉しない。
歓楽街が暴力の空白地帯となっていることがアバカロフ家の介入を招いている。
だから、歓楽街には遅かれ早かれ新たな暴力が必要だ。
そしてその暴力は、例え架空の存在であってもそこにあると認識されればそれで足りる。
俺が思索という名の言い訳探しに没頭する最中、私兵が動かないことに業を煮やした邪教徒は必死にスキルを使い続けていた。
それは少なくない不快感を俺に与えていたが、だからといって体が竦むようなことはなかったし湧き上がる高揚をかき消すこともできなかった。
何なら体が慣れてきたような気さえする。
魔法は受ければ受けるほど抵抗力が高まるものだから、あながち間違いでもないだろう。
「ククク……」
「なにがおかしい!」
邪教徒は魔王様に授かった力とやらが俺に通用しないという事実を認められない。
繰り返し力を使い、しまいには自分が笑われたと誤解して癇癪を起こす。
まるで駄々をこねる子どものようだ。
(いや、俺も人のことを言えないか……)
身体の奥底からすくい上げた魔力を練り上げる速度は一瞬。
<強化魔法>であれば体中隅々まで行き渡らせる魔力を右手に集め、握りつぶすように圧縮する。
今にも弾けそうな力を抑え付けながら、最後に自らの心に問うた。
英雄を目指す冒険者アレンなら、理性によってそれを抑え付けただろう。
しかし、歓楽街の支配者アレックスには、その好奇心を抑え付ける理由が存在しない。
好奇心を満たしたい。
強力なスキルを得たから、その威力を確かめたい。
11歳最後の夜を越えられなかった夢見る少年が数年の時を越えてこの身に宿っていた。
これは必要なことだから。
そんな言い訳を口に出すことすらしない。
ただ興味の赴くままに、躊躇なく。
純粋な少年は、その力を解き放った。
『ヒレ伏セ』
練り上げられた魔力は暴風の如く邪教徒たちを薙ぎ払った。
それだけにとどまらず、制御し損ねたわずかな魔力が余波となって広範囲を飲み込んでいく。
しかし――――何も起こらなかった。
いや、何かが起こり続ける世界で何も起こらないことこそが、力が正しく発動した証明だった。
罵声、悲鳴。
靴底と石畳が擦れる音。
わずかな息遣いすらも聞こえない。
完全な静寂が、ここにあった。
「…………」
まるで自分を残して世界が止まってしまったかのようだった。
自ら作り出した世界が恐ろしくなった俺は借り物の剣を抜き、剣先を下に向けて杖を使うように石畳を突いた。
「「「――――」」」
耳障りな音は世界に時間と音を取り戻してくれた。
私兵が昏倒し、チンピラが膝を折り、邪教徒は放心して尻もちをついた。
「…………あり得ない。あり得ない、ありえないアリエナイ!!」
最も早く我に返ったのは邪教徒だった。
いや、我に返ったという表現は妥当ではないかもしれない。
頬を掻き毟り声を振り絞って絶叫する様は、とてもまともな精神状態ではありえなかった。
「これは魔王様から賜った力!私の、私だけの特別な力だ!!なぜ、なぜ貴様がそれを――――」
邪教徒は聞くに堪えない罵詈雑言を垂れ流し続けた。
こちらの優位を印象付けるため無言で醜態を眺めていたが、数十秒もすれば飽きてくる。
いつまでも騒いでいる邪教徒を強制的に黙らせようと、再度<フォーシング>の発動を考えたとき。
邪教徒の様子が唐突に変わった。
「まさか」
邪教徒はゆっくりと頭を上げた。
絶望に染まり光を失ったはずの両の瞳は爛々とした光を宿して俺を見つめる。
「ああ、そんな、しかし、いや、そうに違いない!私は、私はようやく巡り会った!!」
それは決して仇敵を見る目ではなかった。
次の瞬間、その口からろくでもない言葉が放たれることを確信する。
「あなた様は――――」
『黙レ』
再度、邪教徒に<フォーシング>を叩きつける。
スキルに込める魔力の量こそ同じだが、有効範囲を絞ったそれは一度目よりずっと高い威力を以て邪教徒を圧し潰したはずだ。
邪教徒の目が見開かれた。
息ができないのか、空気を求めて口を大きく開き、喉を掻き毟っている。
「誰ガ、発言ヲ許シタカ」
「――――ッ!」
邪教徒は震える体を必死に動かし、平伏した。
時間の経過とともに状態が改善したようで、邪教徒は倒れ伏し、激しく咳き込む。
「コノ街ハ、我ガ領域」
その様子を睥睨し、周囲に聞かせるように宣言する。
「何人タリトモ勝手は許サヌ。疾ク、去ネ」
邪教徒は動かない。
動くことができないのだ。
立ち上がろうとして何度も失敗し、石畳に這いつくばることを繰り返す。
俺は何も言わず、ただ邪教徒の無様を眺め続けた。
「ゲホッ……!ハァ……、ハァ……」
息も絶え絶えになりながら、杖を支えにしてようやく立ち上がった邪教徒。
無言で深々と一礼し、足を引きずるようにして元来た道を歩き去った。
その様子を呆然と見送った私兵たちも慌ててそれに続く。
目を覚ました者たちが周囲の仲間を助け起こし、立てない者に肩を貸して歩く姿は敗残兵のそれだ。
背後を振り返り最後に残ったチンピラを見やる。
チンピラたちはただそれだけで絶叫しながら方々へ逃げ散った。
「「「…………」」」
戦闘は歓楽街の勝利で幕を下ろした。
しかし、この場には依然として張り詰めた空気が残っていた。
理由は明白、俺がいるからだ。
突如現れた恐ろしい何者かが敵か味方かわからない。
この状態で安堵できるはずもない。
得体のしれない何者かが君臨しているという事実は歓楽街にとって必要不可欠だ。
さりとて、それが冒険者や市民の敵だと思われていては色々と差し支える。
少しだけ考えた末、残った者たちに向けて声をかけた。
「良ク戦ッタ。褒メテ遣ワス」
簡潔に労いの言葉を述べ、ゆっくりと歩いて『月花の籠』に戻る。
バルバラが指示したのだろう。
『月花の籠』はそれが当然という風に玄関を開き、正体不明の支配者を迎え入れた。
これでアレックスが歓楽街の敵ではないということが、この場にいる者たちに伝わった。
玄関の扉が閉じられる直前。
言い忘れたことを思い出し、一言だけ付け足した。
「報酬ハ遠慮ナク受ケ取ルガイイ。女達ノ持テ成シヲ、存分ニ楽シム事ヲ許ス」
それはクリスが集った者たちに約束していた報酬だった。
手にした仮面は勇気の証。
そして、期間限定の歓楽街特別優待チケットだ。
扉が閉じられ、歓楽街の支配者は姿を消す。
少しして、通りに残された仮面の集団から聞き慣れた声が響いた。
「同志たちよ、僕らの勝利だ!」
歓楽街のメインストリートに、歓声があふれた。
一方、『月花の籠』の中で、俺はバルバラの案内により一等大きな部屋に足を踏み入れていた。
大きなベッドだけでなく立派な応接テーブルとソファーまで配置された、いわゆるVIPルームだ。
「お疲れ様でございました」
バルバラに外套と仮面を預け、ソファーに体を投げ出した。
「ああ、疲れたとも。あいにく俺には演劇の才能はないんでな」
「そうでしょうか?まるで本物の魔王が降臨されたようで、思わず震えてしまいましたが……。これが、アレン様のお力なのですね」
興味深げに呟くバルバラを、俺は軽く睨みつけた。
「アレックス様のお力だ。言うまでもないが他言は無用だ。どんな理由であれ、この情報を利用することは許さない」
バルバラは無言で頭を下げた。
情報を利用することに長けたバルバラ自身、<フォーシング>の余波に見舞われたはずだ。
その身で恐怖を知っているなら、そうそう変な気は起こさないだろう。
「それで、知っているのは誰だ?」
「この場にいる者以外では、後で連れて参ります、もう一人だけです」
言い触らされては困るが、今後のことを考えると知っている者が一人もいないのも不便である。
そういう理由でアレックスの接待要員として選ばれたのは、『月花の籠』で一番人気を誇るリリスだった。
「すっきりした飲み口で用意しました。まずは喉の渇きを癒されてください」
「ああ、いただこう」
ソファーにどっしりと腰を下ろし、美女を侍らせ酒を喰らう。
まるで本物の悪役になったようだ。
ただ、魔王は流石に大げさであるし、英雄と対極にある存在なので勘弁してほしい。
一気に飲み干し、隣に掛けるリリスにグラスを返した。
彼女の手際を見ているのも悪くないが、酔いが回る前にやることを済ませてしまおうか。
「さて、いつまでそうしているつもりだ?」
部屋にいるのはバルバラとリリスだけではなかった。
俺とバルバラに続いて部屋に入ったラウラは、困り顔で所在無く立ち尽くしている。
「危機は去ったが、俺たちの話は終わってない。そうだろう?」
さあ、気まぐれで意地っ張りな精霊と、楽しい楽しいオハナシの時間だ。
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