第255話 歓楽街の事情1




 歓楽街があるのは南西区域だ。

 南門から南通りを北に向かって数百メートルほど歩くと左手に歓楽街のメインストリートを望むことができ、そこを真っすぐ西に突き抜けると工場や作業場が林立する工業地帯にたどり着く。

 逆に言えば、工業地帯から最短経路で南通りに抜けるなら歓楽街を通るということで、ゆえに酒場や娼館が営業していない昼間であってもメインストリートは相応の人通りがある。

 人通りがあれば話し声や足音などが聞こえるのは当然で、つい先ほどまでそれらは俺の耳にも届いていたのだが、今しがた聞こえた男の怒鳴り声はそれらの音を蹴散らして無理やりに静寂を生み出していた。


(昼間に娼館が開くわけないだろうが。なんて迷惑な奴だ……)


 今まさに自分が娼館の門を叩こうとしていたことは一旦棚上げして、心の中で毒づいた。

 この場に居る者たちの大半は俺と同じ心境だろう。

 歩いている者たちは関わりたくないとばかりに足を速め、営業準備をしていた酒場の店員も不安そうにしながら店の奥に引っ込んだ。


 男はなおも大声で騒ぎ続けていた。

 不幸にも阿呆の標的となった娼館から目立った反応はない。

 男が酔っ払いか自己中か知らないが、店の前から居なくなるまで居留守を決め込むようだ。


 普通ならそれで問題なかったはずだ。

 しかし、その男は悪い意味で一味違った。


「開けろって、言ってんだろうが!!」


 男はがなり立てると、あろうことか手にした物を叩きつけて店の雨戸を破壊すると、それだけで飽き足らずガラス窓さえも叩き割った。

 

(おいおい、本気か……?)


 雨戸とガラスの破片が飛び散った店内から悲鳴が聞こえ、突然の凶行に通行人たちも足を止め始める。

 野次馬が形成されつつある中、遅まきながら店から二人の黒服が飛び出した。


「お客さん、困りますよ」

「少し裏へ来ていただけますか?」


 丁寧な物言いとは裏腹に彼らの表情は険しい。

 店のトラブルを防止し娘たちの安全を確保することが役目の彼らにとって、今の状況は到底見過ごせない。


 しかし、俺は黒服たちの動きに少しばかり違和感を覚えた。

 なぜか黒服たちは一向に男を捕えようとしないのだ。

 酔いが回って少々オイタをしてしまった店の客や言い争いの範囲で留まっている場合ならまだわかるが、今の状況は明らかに一線を越えている。

 本来であれば暴漢は黒服たちによって速やかに路地裏に連れ去られ、やらかしに見合った制裁を受けることになるはずなのだが――――


「良いのかよ、そんなこと言って?俺は貴族様の命で動いてるんだぜ?」


 理由は、いやらしく口元を歪めて笑う暴漢本人の口から語られた。

 どうやらこれは酔っ払いが引き起こしたよくあるトラブルのひとつではないらしい。

 

 まさに虎の威を借りる狐という様相だが、その効果は覿面だ。

 黒服たちは露骨に渋い顔になっている。


(しかし、貴族か……)


 男の言う貴族とは領主のことではないだろう。

 他の地域の領主がどうだかは知らないが、ここの領主は平民からの搾取に関して抑制的で、平民が理由もなく酷い仕打ちを受けたという話は聞いたことがない。

 そもそも領主が平民に何かさせたいなら命令ひとつで済むのだ。

 南東区域をしてまで治安維持に腐心する領主が、治安の悪化を印象付けるような真似をするとは思えなかった。


(となると、あの男がいう貴族ってのは下級貴族のことか?いや、それも妙な話だな……)


 広大な領地を支配する領主は帝国でも有数の大貴族だが、この国には領地を持たない貴族も多数存在している。

 それらの貴族は領主から街の代官を任されたり政庁や騎士団の要職に就いたりと、建前はともかく実質的には領主の部下と言っていい存在だ。

 ゆえに領主の意向に逆らってまで問題を起こすというのは考えにくく、ましてや子飼いのチンピラに良い思いをさせるために権力を濫用するはずがない。

 残る可能性として有力なのは男の言葉がハッタリであるというものだが、それでは黒服たちの態度に説明が付かない。

 このような仕事をしていれば脅しやハッタリなど慣れたものだろうし、思えば男が貴族を持ち出す前から黒服たちの動きは鈍かった。

 

 俺の知識が導き出す結論と目の前に繰り広げられる現実に乖離がある。

 どうやら俺が知らない何かが裏で動いているようだ。

 

(まあ、そんなのいつものことか……)


 英雄を目指してはいるが、今は一介の冒険者に過ぎない身だ。

 俺の知らないところで動いている陰謀や権力闘争など、ひとつふたつどころではなく無数にあるだろう。


 それに娼館や黒服たちのことを心配する必要はない。


 この歓楽街についている用心棒は、貴族にだって容赦がないのだから。


「さあ!状況が理解できたなら、さっさと店を開け――――もがっ!?」


 唐突に暴漢が水中に沈んだ。

 いや、正確には男の顔の部分に水球が出現し、ちょうど宇宙服のヘルメットのように男の顔を覆い尽くしたのだ。


「まったく、こんな時間から騒いでくれちゃって。酔っ払いの戯言なら日が沈んでからにしなさいよねー」

 

 怠そうに髪をかき上げながら、ラウラはゆらりと宙を揺蕩う。

 不機嫌そうに見下ろす彼女とは対照的に、黒服たちは安堵を見せ、割れた窓からは女の笑顔が覗いた。

 歓楽街の人々がラウラを信頼している証拠だろう。


 一方、男は空気を求めて藻掻き続けていた。

 顔を動かしても手で叩いても水球は男から離れない。

 ラウラたちと増え始めた野次馬に見守られる中、男の動きは鈍くなっていき、やがて体の力が抜けたように倒れ伏した。


「毒が回ったから、もう大丈夫。あとは衛士の詰め所に放り込んでおきなさい。衛士が来ないから自分たちで処理しましたって皮肉を忘れずにねー」


 恐ろしい言葉を合図代わりに、男にまとわりつく水球は解けて地面に吸い込まれた。

 黒服を含めた娼館の関係者たちがラウラに感謝を示す傍ら、彼女はぐるりと周囲を見回し――――いまだ『月花の籠』の前で立ち尽くしていた俺と目が合った。


(お仕事お疲れさん。災難だったなあ……)


 傍観者の俺が出て行くのも躊躇われたので、代わりに俺は片手を挙げた。

 俺の仕草の意図は伝わったはずだ。

 

 ラウラは笑みを浮かべて手を振り返すか、あるいはふわりと浮いたままこちらに寄ってくるか。

 そんな反応を予想していたのだが、実際の彼女の反応はそのどちらでもなかった。


(なんだ……?)


 ラウラはこちらを見たまま、眉を寄せて難しい顔をしていた。

 困っているような、あるいは迷っているような、そんな表情だ。

 いつも余裕の笑みを浮かべているラウラらしくない。


 こちらから声を掛けた方がいいだろうか。

 そんな逡巡もつかの間、俺の思考は女の大声にかき消された。


「ラウラさん!!」


 声を上げたのは若い女だった。

 暴漢に襲撃された娼館から通りを挟んで向かいにある路地。

 そこから飛び出した女は息を切らして言葉を継げず、自身が走ってきた路地の奥を指差している。


「はあ、まったく……」


 ラウラはそれだけで何かを察したようだった。

 被害にあった娼館の人々に何事か告げ、まるで宙を泳ぐ人魚ようにするりと路地へ消えていった。


 それがこの場の騒動が終了した合図になった。

 野次馬はそれぞれの目的地へと歩き出し、娼館の女たちは壊れた窓を片付け始める。

 

 その傍ら、俺は挙げた手をゆっくりと降ろした。


(なんだったんだ……?)


 つれない態度を取られてショックだったなどと言うつもりはない。

 ただ、頭の片隅に小さな違和感が残った。


(まあいいか。次会う時にでも聞いてみれば)


 俺もこの場にやってきた目的を果たすとしよう。

 再び『月花の籠』の門の前に立ち、ノックしようと拳を握る。


 その拳を見てふと思った。


(裏口に回るか……)


 つい先ほど向かいの店が暴漢に襲われた後だ。

 正面から戸を叩いて開けろなどと言い出せば、周囲の誤解を誘発することは想像に難くない。


 俺は挙げた手を再び手を降ろし、店の裏へと足を向けた。



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