第235話 勝利と敗北




 外套をはためかせて走り去る女の後ろ姿を、気づけば呆然と見送っていた。

 その姿が見えなくなったところでようやく我に返る。

 自分の顔に手を当ててみると、熱気が震える手のひらに伝わってきた。


「~~~~ッ!!」


 声の限りに喚き散らしたい衝動をわずかに残った意地で押し殺す。

 自分の顔が真っ赤になっていることなど鏡を見るまでもなく明らかだが、手の感触からするとどうやら頬も引きつっているようだ。

 はっきり言って、とても人にお見せできる顔ではない。


(完っ全に遊ばれた……!!)

 

 目の前にあった勝利に油断した結果、敗北の二文字が頭の中で踊る。

 悔しさのあまり涙まで滲んできた。


 なぜ、こんな目に合わなければならないのか。


 事の発端は昨日の夕方――――散歩の最中まで遡る。





 ◆ ◆ ◆





 気の向くままに歩き回った雨の日の散歩も終わりに差し掛かり、最後に廃墟となった孤児院跡地へと足を運ぶと敷地内に人の姿があった。

 くすんだ灰色の髪を伸ばし地味な色合いの服を着た彼女は、失礼を承知で言えば普段ならすれ違っても気にも留めない種類の人間だった。

 そんな一見してどこにでもいそうな女を俺が無視することができなかった理由――――それは彼女が纏っている雰囲気がそうさせなかったからという一言に尽きる。


 裏庭の一点を見つめているのに何も映していない瞳。

 何が彼女を絶望させたのか、生きることを諦めたような虚ろな表情。


 つまり、今にも自ら死を選んでしまいそうに見えたのだ。


 女は裏庭をうろつき、割れた酒瓶を手に取って見つめたかと思えばそのまま周囲に視線を向ける。

 俺は居ても立ってもいられず声をかけた。

 鬱陶しそうにしながらも律儀に俺との会話を続けてくれた彼女は、どうやら俺のことをナンパ男だと誤解したようで露骨に俺のことを追い払おうとした。

 そのままただ会話を続けていれば遠からず退散することになっただろうが、幸か不幸かそうならずに済んだのは彼女を狙う怪しい集団が現れたからだ。


 荒事慣れしていない集団の包囲を突破し、彼女を抱えて逃げ出すことは難しくなかった。

 問題は、その集団は全員が魔法使いであったこと。

 索敵機の如く空に浮かぶ魔法使いの指示の下、俺たちは一方的に撃たれ続けることになった。

 南東区域の奥深くに入り込むようなルートをジグザグ走行で逃げ回ることで射線を極力遮りつつ、それでも飛んでくる直撃コースの魔法は飛んで跳ねて回避する。

 簡単に撃たれてやるつもりはなかったが、彼女からすれば命の危機だったはず。

 そんな状況においても自身の身を案じる様子が全く見られず、俺の予想は確信に変わった。


 時折軽口を叩いて彼女の気を逸らしながらの逃避行は、空の半分が夜に侵食されてもなお続いた。

 その間、俺たちを追いかける集団をまくため方法を考え続けたが、そのどれもが決め手に欠ける。

 追手の集団が放つ魔法が遂に俺にダメージを与え始めたことで、俺は手札の一枚を切ることを余儀なくされた。

 アジトの外壁を破壊されたギャングたちが期待よりもずっと役に立ってくれたことは不幸中の幸い。

 おまけに不意を突いたつもりか、索敵機がわざわざ地上に降りて俺と相対してくれるという望外の幸運にも恵まれ、俺たちは追手の集団を全て振り切るに至った。


 怪しい集団に追われる若い女を抱きかかえての逃走を成功させたという興奮から、少しばかり舌が調子に乗ってしまったことはご愛敬。

 しかし、追手を振り切っても女が抱える問題は解決していない。

 スリリングな逃走劇を経験しても彼女の生存本能が刺激された様子はなく、俺は原点に立ち返って死を望む彼女を思い留まらせるという難題に取り組むことになった。


 一方、彼女は礼もそこそこに俺が彼女を助けた理由を所望した。

 彼女が美人だったから。

 容易に助けることができると思ったから。

 俺が紡ぐ軽薄な言葉を、彼女は容赦なく切り捨てた。


 ナンパ男を強硬に拒絶する彼女にしては十分な譲歩だったのだろう。

 一緒に食事をしてあげるという上から目線の提案に対してウチで一泊するならと返してみれば、悩みながらも“諾”と返答するほどに彼女は俺の真意に固執した。


 かくして彼女が求める真意とやらを白状しなければならなくなったわけだが、それは俺としても言わずに済むなら言いたくない類の話だった。

 だって、そうだろう。

 歳の頃と性別くらいしか共通点のない女に喪われた姉のような存在を重ねたなどと、一体どんな顔して言えばいいのか。


 ビアンカやロミルダとの再会にクリスとの会話など、昨日今日で俺の過去に関わる出来事が続いていたこと。

 彼女と出会った場所が孤児院であり、中でも俺と深紅の少女にとって思い出深い裏庭だったこと。

 俺が深紅の少女を想起するには十分な状況が整っていたが、そんなことは俺の話を聞く彼女には関係のない。

 話したところで「シスコン気持ち悪い。」の一言でバッサリやられてしまうのではないかという疑念が頭をよぎるのも仕方のないことだろう。


 とはいえ、約束を破ることはできない。

 執拗な催促を受けた俺は敢えて彼女が入浴する前に真意を明かし、そのまま自室に逃げることを思いついた。

 恥ずかしいことに変わりはないが、一旦クールダウンの時間を設けることで十分持ち直すことができると思ったのだ。


 結果的に俺の企みは失敗に終わった。

 真意を聞いた彼女が二階に退避しようとする俺を呼び止め、顔を見せろと要求したからだ。


 俺は苦渋の決断を迫られた。

 聞こえなかったフリをして逃げる手段はフロルの手際が良すぎて使えず、照れて赤くなっているはずの顔を晒すか、尻尾撒いて逃げるかのどうしようもない二択である。

 逡巡の末、屋敷に招いておいて顔を見せないのは無理があるという常識的な感覚と、逃げたとしても俺が恥ずかしがって逃げたことは察せられてしまうだろうという諦観によって、その場で外套を脱ぐことを決めた。

 彼女を睨みつけたのがせめてもの抵抗。

 反応を待たずに素早く二階に駆け上がり、歓喜も諦観も羞恥も優しく受け止めてくれる柔らかなベッドにある程度感情を吐き出して――――落ち着いた後で、俺は考えた。


 なぜ、こんな思いをしなければならないのか。


 動機はさておき今回の彼女に対する行動は人助けに類する行いであり、最近滞りがちだった俺の英雄見習い精神を満足させるものだった。

 別に感謝してほしいとは言わない。

 だが、怪しい集団から助け出し、雨に打たれた体を温めるためのお湯を与え、暖かい寝床と食事を提供した返礼が羞恥の感情とはどういうことか。


 これは思い知らせてやらねばなるまい。


 もちろん約束を違えて入浴中の彼女を襲うような、無粋で直接的な方法は採用しない。

 極めて紳士的な方法によって、彼女の精神に敗北感を刻み込むのだ。


 そう決めた俺はすぐにフロルを呼びつけ、我が屋敷において可能なあらゆる手段を用いて彼女をもてなすよう命じた。

 クリスとの昼食と異なり、リビングではなく食堂を使用することと装飾も含めて豪華にすることを厳命。

 前菜からデザート、酒に至るまでフロルが用意し得る最高級のものを並べ、夕食会のホストとして彼女を圧倒する――――それが俺の作戦だ。

 入浴を済ませ、俺自身も比較的見栄えのする服装に着替える。

 狙ったわけではないし少々狡い話ではあるが、俺の服装と彼女の浴衣姿との対比が彼女の羞恥心を刺激することも織り込み済み。

 早めに食堂に入りフロルが期待を遥かに超える仕事をしてくれたことを確認すると、勝利を確信した俺は万全の態勢を整えて彼女を待ち構えた。


 しかし、彼女は強敵だった。

 少しサイズが合わない浴衣を纏った彼女はフロルに招かれて食堂に現れるなり恭しく頭を下げ、夕食の席を設けた俺に対する礼を述べると、ひとりでに引かれる椅子にも動じることなく席に着いた。


 思えばこの時点で、自ら死を選ぶほど絶望していた失礼な女は優雅な世界に生きる正体不明の美女へと変貌を遂げていたように思う。

 彼女はフルコース形式で提供される絶品の数々に驚いた様子もなく常に上品な微笑を浮かべ、見惚れるほど綺麗な作法で食事を続けながらテーブルに乗せられる料理ひとつひとつに丁寧な感想を述べていく。

 食事が終わる頃になると理解せざるを得なかった。

 彼女の上から目線の提案――――食事をしてあげるという言葉が伊達ではなかったということを。

 一緒に食事をするということが礼になり得るくらい、彼女はいい女なのだということを。


 食事が済んで食後の酒を出そうとしたとき、彼女は場所をリビングへと移すことを提案した。

 食事会の後は酒を嗜みながら歓談するのが通常の流れであるが、長話をするならソファーの方がくつろげる。

 このまま食堂のテーブルで夕食会を続けたところで彼女がボロを出すとも思えなかったこともあり、俺は迷わず彼女の提案に応じた。

 俺がいつもの場所に腰を下ろし、彼女に正面の席――昼にクリスが座っていた場所だ――を勧めると、彼女は少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて俺の隣に腰掛けた。


 お礼に酌をさせてほしい。

 彼女はそう言うと、フロルに俺の好きな酒を持ってきてほしいと頼んだ。

 フロルが彼女の要請に応じ、果実酒の瓶とグラスを二つ、氷やら肴やらをリビングのテーブルに運んでくると、彼女は果実酒の瓶を俺のグラスへと傾けた。

 

 後から気づいたことだが、攻守が逆転したのはこのときだった。


 彼女を最高級のもてなしで圧倒するという企みを放棄し、美女と楽しく酒を飲むことに目的をシフトさせた俺にとって、食事で見せた優雅さや上品さを残しながらも少しだけ砕けた口調で会話に応じる彼女は十分に魅力的だった。

 彼女は帝国各地を旅した経験があるようで各地の見所や名産品、美味しい食事などに詳しく、俺が希望したいくつかの都市について持てる知識を披露してくれた。

 彼女は話をすることだけでなく話を聞くことも上手で、俺が話しやすいように適度に相槌や質問、感想を挟んでくるので舌が際限なく滑らかになってしまう。

 それでも最初は気にしなかった。

 お礼に酌をと言った彼女が会話で俺を楽しませようとするなら、俺が彼女との会話を楽しむことを躊躇する理由はどこにもないのだから。


 だが、酒と会話が進むにつれて彼女の様子は変わった。

 すぐには気づけないほどゆっくりと、しかし気づいてしまえば確実に違うとわかってしまう絶妙な塩梅で彼女の雰囲気は移ろった。

 リビングに移動した当初はフロルが座れる程度に空いていた俺と彼女の距離が、いつの間にか拳ひとつ分にまで縮まっていた。

 胸元が見えないように浴衣の襟を直すことは続けているが、裾の方を直すペースは緩やかになり、崩した足が乱れた裾から覗いていた。

 そして何より、優雅で上品な雰囲気はそのままにふとした仕草から俺に対する好意が見え隠れし始め、ドキリとさせられることが増えたのだ。


 ここで俺はようやく気づいた。

 俺が豪華な食事会で彼女を圧倒しようと企んだように、彼女も自身の魅力を用いて俺を圧倒しようと企んでいるということに。


 彼女は俺が手を出さないと誓ったことを逆手にとって俺の理性を試しているのだ。

 俺が彼女の誘惑に負けて彼女に手を出せば彼女の勝ち。

 俺が彼女の誘惑に負けず余裕を持ち続ければ俺の勝ち。

 それは男と女の誇りを懸けた真剣勝負だった。


 この場での会話を勝負と見定めてから彼女をより深く観察するようになったが、彼女の誘惑は本当に見事なものだった。

 女が男を誘惑するときにボディタッチは常套手段だと思うが、彼女はそういったわかりやすい手段は使わない。

 体に触れず、露骨に媚を売るような様子もなく、彼女はちょっとした仕草や表情、俺の言葉に対する反応でこちらに気を持たせようと画策した。

 彼女が俺に好意を持っていないことや逃走劇による吊り橋効果がないことは逃走劇の最中やその後の会話によって明らかになっている。

 それでも彼女が時折見せる蕩けた視線が、胸に手を当てる仕草が、熱を帯びた吐息が、百年の恋を押し隠す切なさを思わせてやまないのだ。


 徐々に余裕を失い、最後の方は防戦一方だった。

 自制心と理性を総動員することで思わず彼女の方に伸びそうになる手を押しとどめ、表情筋を叱咤して自然な微笑を維持することに全力を注いだ。

 果実酒の瓶とワインボトルが1本ずつ空になり、丁度良い頃合いだと俺が時間切れを宣言するまで彼女の猛攻を耐え凌ぐことができたのは、偏に昨夜の娼館で性欲が満たされていたからだ。

 ビアンカの申し出を受けて彼女に欲望をぶちまけていなければ、この美女の誘惑に耐えきることは不可能だった。

 少しだけ残念そうな彼女をフロルに命じてリビングから追い出し、俺はソファーに崩れ落ちた。

 天井を見上げて安堵するとともに、誘惑に耐えきったことを誇らしく思った。

 

 



 ◆ ◆ ◆




 

(昨夜の頑張りは、一体何だったのか……)


 別れ際、不意打ちの一言。

 たったそれだけで彼女は俺の仮面を砕いていった。

 最後の最後で油断した。

 今朝の食堂で会話したとき彼女の様子は元通りになっていたから、もう勝負は終わったものとばかり思っていた。

 きっと俺がそう考えることまで見越して、最後の一言で俺の心を揺さぶることができると確信していたからこそ余裕の態度だったのだろう。


 事実、俺は彼女の思惑に踊らされた。

 彼女は俺の表情から自分の誘惑が俺の心を揺らしたことを察したに違いない。

 薄氷一枚の勝利から華麗な逆転を許し、勝ち逃げされた。

 これを完敗と言わずに何と言えばいいのか。

 

 すでに見えなくなった彼女の微笑を思い浮かべ、拳を握り締める。


(このまま、負けたままで終わらせてなるものか……!)


 今は潔く負けを認めよう。

 しかし、場面は変わったのだ。


 今回の勝負は俺に一方的な我慢を強いるものだったが次はそうはいかない。

 彼女が我慢しなくていいと言うなら遠慮は無用だ。


(次に会うときは、絶対に泣かせてやる!!)


 男心を弄ぶ美女がベッドの上で従順になるとは露ほども思っていないが、それでも負けるわけにはいかない。


 名も知らぬ彼女が難局を乗り切り、再びこの屋敷に訪れますように。

 

 俺は澄み切った青空に祈るのだった。



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