第228話 本当の本名




 長い長い一日が終わり、明けて翌日。

 昨夜より少し勢いが落ちたアンや昨夜より少し積極的なロミと戯れながら、帰宅の準備を進めていた。

 外泊の予定をフロルに伝えていなかったし、クリスの訪問の準備をしてもらわなければならないので朝食の誘いは丁重に辞退した。

 俺自身、一旦落ち着く時間が欲しかったというのも理由のひとつだった。


「アレン様、まだしばらく先のことになると思いますけど、私がお店に出ることになったらカードを送ってもいいですか?」


 衣服を整えていた俺を手伝いながらアンが尋ねる。

 しかし、俺にはアンの言ったことが理解できていなかった。


「カードってなんだ?」

「あ、すみません……。私たちがお客様に送るお手紙のことです。何日の何時にお店に出るので、良かったら会いに来てくださいって……。そういうお手紙を書いてお客様のところに届けてもらうことができるんです。でも、お客様の許可がないと遅れないので」

「へえ、そんな仕組みが……」

 

 営業メール――――と言ってしまうのは少しばかり味気ない。

 どうせ客を取るなら自分で選んだ相手をとか、単純に客足が途切れないようにとか、娼婦たちが生きるための知恵なのだろう。


「これに書けばいいのか?」

「はい、お願いしまーす!」

「あ、あの、良かったら私も……」


 二人から差し出されたカードに俺の名前――当然アレンだ――と屋敷の住所を書き記す。

 そして、最後の空欄を埋めるために二人に尋ねた。


「二人の名前の欄は、なんて書けばいい?」


 二人の名前を忘れたわけではない。

 “アン”と“ロミ”という呼称が二人の源氏名ではなさそうな気がしたから、ここに書くべき源氏名を教えてくれという意味で尋ねたのだ。


「ビアンカです!」

「ビアンカ、ね」


 サラサラと空欄を埋めてアンに差し出す。

 

「ありがとうございます、アレン様!」

「あの、私はロミルダでお願いします」

「ロミルダ…………え?」


 ロミに言われるままにカードの空欄を埋めようとして――――俺は凍り付いた。

 

 硬直した理由はある。


 ひとつは『月花の籠』で使われる源氏名に関係することだ。

 店が客に公開する名簿を見れば誰でも理解することだが、この店の娼婦たちは源氏名に花に関連する言葉を用いている。

 例えばリリスは多分アマリリスから取っているのだろうし、カトレアは花の名前そのものだ。

 他の女たちも同様で、俺が知るこの店の女たちの名前の中でロミルダだけが浮いている。


「それは店で使う名前か……?」


 俺が知らないだけでロミルダも花の名前だ。

 そういう答えを期待していたのだが、残念ながらそうはならなかった。


「え……あっ!?」

「間違って、本名書いてもらっちゃったー」


 ロミが大声を上げる傍ら、間延びした声を上げたアンの方を振り向く。


「え……、ビアンカは花の名前、だよな?」

「多分ビアンカの花から名付けたと思いますけど、ビアンカが本名です。あ、はわからないんですけどねー」

「本当の、本名……」

 

 アン――――ビアンカが告げた言葉を反射的に繰り返した。

 頭痛が痛い的な誤用なら笑って済む話だ。

 しかし、俺はそれが誤用にならない状況にひとつだけ心当たりがある。


 頼むから誤用であってくれという俺の願いは――――次の瞬間に砕かれた。


「私たち、孤児なんです」


 ロミ――――ロミルダが自身の出自を打ち明けた。


 それを聞いた俺の表情から、笑顔は消えていたはずだ。


 それを同情と解釈したらしい二人の少女は、俺の関心を繋ぎとめるために代わるがわる自分たちの身の上を話し始めてしまう。




「今はないんですけど、南通りから少し東に行ったところに孤児院があったんです」


「でも、ある日突然職員の人たちがいなくなって、孤児だけで生きていくことになっちゃって」


「何人かで集まって、南東区域の中を転々としていたんですけど、食べ物がなくて」


「しばらくはお金や食べ物を、その、盗んだりしながら生活してたんですけど」


「突然、住処に大人がやってきて。私たち、仲間に見捨てられてしまって」


「年上の子はなんとか逃げたかもですけど、今はどうなってるかわからないです」


「しばらく牢屋に入れられて、色々話を聞かれて」


「私たちは罰金で許してもらったんですけど、お金がなくって」


「いくつか方法がありましたけど、ここで働かせてもらうことにしたんです」


「罰金はお店に払ってもらいました」


「お店に出るようになったら頑張って稼がないといけません」


「なので、アレン様が私たちにいっぱい会いに来てくれると嬉しいです!」




 何も言えぬまま、ただ呆然と立ち尽くした。


 俺が凍り付いた二つ目の理由は単純だ。


 ビアンカとロミルダ。


 この二人の名前に心当たりがあったのだ。


 孤児院で暮らしていた頃、俺の後ろをついてくる子どもたちの中にそういう名の少女がいたことを、俺はたしかに覚えている。


「…………」


 二人の顔を交互に凝視した。

 最後に会ってから4年以上が経ち、成長して雰囲気が変わっている。

 それでも意識すればかつての面影が十分に感じられる顔立ちだった。


「アレン様……。もしかして、孤児だった女なんて嫌ですか……?」

「あの、今は清潔ですから、嫌いにならないでください!」

「…………ッ!」


 二人の言葉で我に返った俺は、少し屈んでロミルダとビアンカを両腕で抱きしめた。


「そんなわけないだろ?第一、冒険者の清潔さなんて、孤児と変わらないさ」

「アレン様は良い匂いですよ。でも、えへへ」

「嫌われなくて良かったです……」

 

 二人は純粋に俺との別れを惜しんで、俺の体に頬を擦り付けてくる。

 俺も二人をしっかりと抱きしめて離さない。


 今は、二人に顔を見られたくはなかった。


「本当に、アレン様を選んで良かったですー」

「そういえば、どうしてクリスじゃなかったんだ?」

「クリス様を勧めるお姉様は多かったです。アレン様より少しだけ体が小さいし、優しいし、すごく綺麗だし」

「アン、アレン様に失礼だよ!」

「それくらい気にしない。それよりも理由の方が気になる」

「言っても怒らないですか?」

「怒らない、約束する」


 元々、少しばかり気になっていたことだし、今は会話を続けることが最優先だった。

 表情を繕う時間が稼げれば話題は何でも構わない。

 話題を選ぶだけの余裕すら、俺にはなかった。


 そんなことを考えているから、罰が当たったのかもしれない。


「アレン様が、私たちが好きだった男の子に似てるんです」

「…………ッ」


 俺は腕に力が入りそうになるのを懸命に堪えた。


「孤児院がなくなるより何年も前に孤児院から突然いなくなっちゃって……後から死んじゃったんだって聞かされました。その男の子の髪と目の色がアレン様と同じなんです。雰囲気は全然違いますし、もちろん名前も違いますけど……」

「うん。それにその男の子は、ライバルが強すぎて全然近寄れなかったです」

「好きというより、憧れだったかもしれません」

「そうだね、憧れだね」


 沈黙が落ちる。

 俺が口を開かないことを不安に思ったのか、ロミルダが恐るおそる俺に尋ねた。


「アレン様……気を悪くしましたか?」

「……おいおい、それは俺が孤児院の子どもに男の魅力で負けてるってことか?だったら悲しくて泣いちゃうかもしれないな……」

「そんなことないです!アレン様の方がカッコいいです!」

「アレン様の方がずっと素敵です」

「はは、冗談だ。気を悪くなんてしてないから、心配はいらない」


 そう、俺が気を悪くする理由なんて何もない。


 ロミルダとビアンカの話の中には、俺以外の男なんて出てこなかったのだから。

 





 表に顔を出して他の客に顔を見られると困ったことになるかも知れない。

 そんな取って付けたような理由で二人の見送りを断り、フラフラとした足取りで帰宅した。

 

「フロル、ただいま……。朝ご飯はいいから、クリスが来たら起こしてくれ。あ……クリスと俺の昼ご飯は少し豪華な奴を頼む」


 フロルの横を素通りして自室のベッドに倒れ込む。

 うつ伏せになったまま、寝返りを打つ気力もない。

 次々と嫌な考えが浮かんで頭の中をぐるぐる回り続け、おかしくなってしまいそうだった。

 

 少し休もうとして目を閉じると、ビアンカの顔が浮かんだ。

 嬉しそうに笑う顔、寂しそうに拗ねる顔。


 そして――――きっと俺以外の誰にも見せたことがない蕩けた顔。


「…………ッ!!」


 胸に鋭い刃が刺さったような激痛を覚えて、胸を抑えた。

 嫌な汗が流れ、自分の呼吸の音が大きく聞こえる。


 『月花の籠』の女たちは自ら望んで娼婦をやっている――――なんて考えるほど、俺の頭はお花畑ではない。


 金を稼ぐために仕方なくとか、他に行く宛てがないとか。

 そんな女がほとんどだろうと思っているし、おそらく実態もそう変わらないだろう。

 娼婦たちは笑顔と色香で男たちを一夜の夢へと誘い、男たちが一夜の夢の対価に支払う金で娼婦たちが救われる。

 歓楽街とはそういう場所で、俺もそれでいいと思っている。

 

 俺が女を買うのをやめたところで娼婦の稼ぎが減るだけだし、歓楽街を悪と決めつけて潰したところで性犯罪が増えて娼婦たちが路頭に迷うだけだ。

 無理やり現状を変えたところで誰も救われないし、現状を変えるデメリットは大きすぎて到底受け入れられない。


「…………」


 二人が見知らぬ少女であれば、それで良かった。

 変態貴族が二人を害する危険がなくなり、昨夜の記憶が二人にとって良い思い出になればそれで十分。

 あとは客を取るようになったときにたまに顔を出すくらいの関係が、娼婦と冒険者には丁度良い。


(でも、ビアンカとロミルダは違う……!)

 

 二人は俺にとって見知らぬ少女ではなかった。

 数年振りの再会でも、互いの顔がわからなくても、ビアンカとロミルダは俺が守るべき孤児だった。


(守るべきだったのに……あのとき、俺が見捨てたんだ……!)


 自分の無力さに絶望して、強くなることが最優先と割り切った振りをして、孤児院から逃げ出した。

 そんな俺の弱さがビアンカとロミルダの未来を奪い、二人を夜の街に追いやったのだ。


「…………」


 どうにも、考えが悪い方にばかり行っている。

 冷静さを欠いては良い考えも浮かばない。

 ちょうどクリスも来ることだし、相談して考えをまとめるのもいいだろう。


「…………後悔は、いつでもできる」


 自分に言い聞かせるように呟き、仰向けになって深呼吸を繰り返した。

 

「後悔しても、過去は変えられない。未来なら、まだ変えられるんだ……」


 彼女たちは、もう思い出の中にしか存在しない深紅の後ろ姿とは違う。

 ビアンカとロミルダは、まだ俺の手が届く場所にいるのだ。


 ただ寝ていることに耐えられず、ベッドから体を起こして剣を手に取った。


 クリスが来るまでの少しの間、俺は裏庭で剣を振り続けた。



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