第217話 閑話:とある少女の物語37




 永遠に止まらないと思っていた涙は、いつしか止んだ。

 頭の中がぽわぽわした状態のまま髪や体を洗い、フラフラと脱衣所に戻って来る。


「柔らかい……」


 真っ白なタオルで髪や体の水滴を丁寧に拭いとり、乾かしていく。

 私の髪は長いから乾くまで時間と手間がかかる。

 無意識に手を動かしているうちに、意識が徐々に覚醒してきた。


「ん……」


 髪を手櫛で整えながら、大きな鏡に映る一糸まとわぬ姿の女を検分する。


 トレードマークでもある深紅の髪は最近雑に扱っていたけれど、色艶は何とか持ち直した。

 この後のケアもしっかりやれば及第点には仕上がるだろう。

 お肌もゆっくりお湯に浸かり、思いのほか上等なボディーソープでしっかり磨いた。


(顔が赤いのは、時間を置くしかないわね……)


 長湯のせいもあるけれど、それだけではない。

 半分くらいは頭の中がピンク色に染まっていることが原因だ。


「はあ、アレックスくん……」


 ポツリと、小さく呟いた。

 その名前は私の中で長いこと眠っていた女の本能を目覚めさせ、ここぞとばかりに自己主張を始めて私の心を惑わしている。


 抱きしめたい、キスしたい。

 肌を重ねて、どうしてか私が死んだと思っているらしい彼に「私はここだよ。」と囁きたい。

 

 手を出さないという約束は当然ながら彼だけを縛っている。

 下心があるという言質も取っていることだし、私から誘ってしまえば彼と結ばれるのは簡単だ。


 しかし――――


(まだ、ダメ。もう少しだけ、我慢しなきゃ……)


 髪留めを装着すると自慢の髪はみるみるうちに灰色に、瞳の色は黒に染まる。

 それを確認して、私は目を閉じた。

 

 瞼の裏で、喪失を回復して色彩を得た未来図が踊る。

 つい数時間前までの惨状が嘘のように生き生きとしたそれを見て、私の決意はより固いものになった。

 

(今度こそ手に入れる。それまで、もう少しの辛抱だから……)

 

 彼に想いを告げたら、きっと私は彼から離れられなくなってしまう。

 見ず知らずの女にまで手を差し伸べるほど優しい彼は、私の話を聞けば危険にだって飛び込んでしまうに違いない。

 

 私の傍にいれば魔女は確実に彼の生存を知る。

 魔女は私を従わせるために、あらゆる手段を用いて彼を縛ろうとするだろう。


 そんなこと、許すわけにはいかない。

 だからこれは私自身がやり遂げなければならないことだ。

 

(魔女があなたを見つける前に、私が全てを終わらせる……!)


 鏡に映る自分の顔が、険しい顔で私を見つめている。

 頬に両手を添え、彼のことを考えながらむにむにとマッサージをしてこわばりを解していった。


「うん、よしっ!」


 鏡に映った笑顔に満足して、用意された浴衣のような服に袖を通す。


(でも、今夜くらい楽しく過ごしても罰は当たらないかしら……)


 食事を一緒にと言った手前、彼に楽しい時間を過ごしてもらわなければ女が廃る。

 彼を楽しませるに、まずは自分も楽しまなくてはいけない。

 

 自分を納得させて脱衣所を出ると、そこには家妖精が待ち構えていた。


「部屋に案内してくれるのかしら?」


 家妖精は小さく頷き、ゆっくりと歩き出した。

 私は黙って後ろをついて行く。


 正面階段を昇り、左右に分岐する階段を右の方に。

 私たちが階段を昇りきると階段の一番近くにある扉がひとりでに開いた。


 家妖精は部屋に入らず、扉の横に控えて私を見つめている。

 どうやらここが客室のようだ。


「案内ありがとう」

 

 お礼を言って中に入ると家妖精は一礼し、扉を閉めて立ち去った。

 強大な魔力を有している以外は所作も能力も完全に家妖精のものだ。


(警戒はいらないみたいね……)


 彼に仕える妖精なら私を害することはない。

 むしろ、彼の近くに強力な味方がいるなら安心できる。


(あ、そうだ。急がないと……)


 彼の入浴時間がどれくらいか知らないけれど、客を待たせて長湯はしないだろう。


 小物入れから化粧道具を取り出し、化粧台の鏡を覗き込む。

 手元にあるのは最低限のものだけれど、元々ガッツリ化粧する方でもないから今はこれだけで十分だ。

 

「あら……」


 はだけた浴衣の胸元から、見えてはいけないものが見えてしまっていた。

 サイズが大きい――というか明らかに彼のものだ――から気を付けないと。


 もし、彼に見られてしまったら――――


「………………?」


 見られてしまったら何か問題があるだろうか。

 見るどころか触られても、それ以上に大胆なことも歓迎だというのに。


(手を出さない約束はあるから、そうはならないだろうけれど……)


 でも、仮に、もしも、彼が我慢できず約束を破ってしまったときは――――


「……寛容に許してあげるのが、お姉さんというものよね?」

 

 私から誘うのはアウト。

 彼の欲望を優しく受け止めてあげるのはセーフ、というか義務。


 たった今、線引きがなされた。

 そして次の瞬間には、私の頭はどうやって彼をその気にさせるかという問題の検討を始めている。


 問題は魅せ方だろう。

 鏡の前に立ち、軽く動いてみる。


「うーん……、ちょっと難しいわね」


 自前のローブやパーティドレスならともかく、サイズが合っていない浴衣を着たときにどう見られるかというのは残念ながら守備範囲外だ。

 時折チラリと胸元が見えるくらいが理想だと思うけれど、浴衣のサイズが大きいこともあってどうしても見えすぎてしまう。


 これではだらしないと思われて、かえって女としての魅力を落としかねない。


「仕方ない。胸元のガードは固めにして、足の方を上手に見せる方向で」

 

 まず、お化粧を済ませてしまおう。

 動きの練習にかまけて化粧を忘れては本末転倒だ。

 

 家にお呼ばれして夕食を食べるだけとは思わない。

 あの妖精のことだ。

 料理も相当高いレベルのものを提供するに違いない。


 彼があれからどんな人生を送って来たのかわからないけれど、彼もディナーの作法に精通している可能性もある。

 こちらも心構えはしっかり持っておいた方がいい。


 準備は万全に。

 きっと私にとって、人生で一番楽しいディナーになるのだから。


「ふふっ、楽しみにしててね。アレックスくん」


 鏡に映る女が、心の底から嬉しそうに笑った。

 

 

 


 ◇ ◇ ◇





「ありがとう。少しの間だけど、本当に楽しかったわ」

「そう言ってもらえて何よりだ」


 翌朝、朝食をいただいた後、屋敷の庭まで見送りに来てくれた彼にお礼と別れを告げた。

 彼と過ごした時間は本当に掛け値なしに楽しかった。


(押し切れそうな雰囲気はあったんだけどね……。残念……)


 あと一歩のところで彼の理性に勝てなかったことが唯一の心残り。

 それだけ彼が誠実な人間に育ったということだから、今日のところは喜んでおこう。


「そうだ。こいつを持っていけ。あんたの境遇なら、きっと役に立つから」


 そう言うと、彼は目立たない色の外套を差し出した。


 昨日彼が着ていたものに似ているけれど同じものではない。

 仕上げは丁寧で、安物ではなさそうだ。


 せっかくだから遠慮なく借りておこう。


「ありがとう。いろいろ片付いたら、きっと返しに来るから」

「別に返さなくていい。他人の物だと思うと使い方に遠慮が出るからな。自分のものだと思って使い倒してくれ」

「あら、また会いたいって意味を忍ばせたのに。返事が辛辣ね」

「そんなのわかるか……。返さなくていいから、代わりに礼でも言いに来い」

「ええ、そうするわ。じゃあ、また会いましょう」


 受け取った外套を羽織りフードを目深に被る。

 彼が開けてくれた門扉を通り、屋敷の外に出ようとして――――その直前で立ち止まった。


「そうそう、最後にひとつだけ」

「うん?」


 彼と私が交差して、距離が最も近くなる瞬間。

 私は身振りで彼に少し屈んでもらい、彼の耳元で囁いた。


「お礼に、次に会うときは我慢しなくていいわ」

「ッ!?」


 照れているであろう彼の表情をじっくりと眺めたい衝動を抑え、私は小走りで路地を行く。


 赤くなっている頬を見られたら、せっかくの挑発が台無しになってしまうから。






 大通りに出るまで、路地を何度も迂回して走り続けた。


「ふう……」


 東通りを都市の中央部へと向かう人の流れに混じって歩き出す。

 空を見上げると、昨日の雨が嘘のように綺麗な青空が広がっていた。

 後ろで両手を組み鼻歌まじりに周囲を見れば、行き交う人々は活気に溢れ都市中が希望に満ちている。


 都市の人々が変わったわけではない。

 変わったのは、私の方だ。


(あなたがいる。ただそれだけで、世界はこれほど違って見えるのね……)

 

 今の私はずいぶんと浮かれて見えるだろう。

 実際、すれ違う人の中には怪訝な視線を向けてくる者もいる。


 でも、それらも私にとっては些細なことだ。

 胸の奥から湧きあがる喜びも、鼓動の高鳴りも、人の視線を気にして無理やり抑えつけるにはあまりに惜しかった。


 けれど――――


(さて、もう切り替えないとね……)


 髪留めを外し、外套のフードを落とし、隠していた深紅の髪を払って風になびかせる。

 都市中央の噴水を横切り、西通りへと進む。

 噴水は依然として恋人たちの待ち合わせ場所として活躍しているようで、そわそわした雰囲気で相手を待つ若い男女で溢れかえっている。


 今はあの中に混じることはできない。

 少なくとも、やらなければならないことを残しているうちは。


(こうなると、短気を起こしたのが本当に悔やまれるわ……)


 とはいえ、この過程がなければ彼との再会もなかったのだ。

 もしかしたら、こうなることも最初から決まっていたのかもしれない。


「なら、逃げるのはおしまいよ」


 西通りから南西地区の工業地帯に足を運ぶ。

 適当な空き地に足を踏み入れると、昨日私を追っていた魔術師たちがどこからともなく姿を現した。

 魔術的な追跡が困難になっても私の容姿はよく目立つ。

 深紅の髪をなびかせて大通りを歩けば捕捉されるのは当然だった。

 僅かに困惑した様子が見て取れるのは私が正体を隠す様子を見せないからか、それとも私の雰囲気があまりに違っているからか。

 

 どちらでも構わない。

 私はもう覚悟を決めた。

 交渉の余地を残すために手加減してきたけれど、それも終わり。


「なっ!?待っ――――」


 手始めに隊を率いる<風魔法>使いを焼き払うと、魔術師たちは容易に浮足立った。

 私が強硬策に出るとは思わなかったらしい。

 

 命のやり取りをする覚悟が出来ていなかった彼らは瞬く間に統制を乱して逃走した。

 ほどなくして、見える範囲に魔術師はいなくなる。


「互いに譲れない想いがあるなら、ぶつかり合うしかないでしょう?」


 気配を消して状況を観察しているだろう魔女の配下に向けて、私は宣戦布告する。


「戦いましょう、お師匠様。いえ、テレージア・フォン・ドレスデン」


 後戻りはできない。

 魔女と配下の魔術師を相手にただ一人立ち向かうことになる。


 これはきっと、私の人生で最大の試練。


 それでも――――必ず手に入れてみせる。


 誰憚ることなく彼に寄り添う権利を。


 完全無欠の未来図を。


(だから、少しだけ待っててね……)


 いつかのように、空に向かって手を伸ばす。




 わずかに残った雲の欠片を、この手で握り潰した。



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