第216話 閑話:とある少女と少年の物語
<風魔法>使いと衝突した路地から少し離れた場所で、追手の心配はなくなったと判断した男はようやく私を解放した。
いろいろあったからか、自分で動いていなかったわりに体はとても疲れている。
しかし、まだ休むわけにはいかない。
ギャングのアジトにたどり着いたということは、逃げるうちにずいぶんと南東区域の奥の方まで来てしまったということ。
ゆっくり寛ぐことができる場所ではないので、私は大通りの方を目指して歩き出した。
そんな私の隣を、男は当然のように歩いている。
今更この男を邪険に扱おうとは思わなかった。
このまま立ち去られたら、私の心に巣食っているモヤモヤとした感情を解消する機会が失われてしまうから、同行はむしろ望むところだ。
お持ち帰りされることを許すかというと、もちろんそれは別の話だけれど。
(とはいえ、並んで歩くなら会話があってもいいんじゃないかしら?)
歩き始めたときに気遣う言葉をかけて以降、男は沈黙を守っている。
様子を窺うためにチラチラと男の方を見ても、厚い生地の外套は私の視線を通さない。
外套のフードを恨めしく思ったのは、生まれて初めてのことだった。
(あなた、私をナンパしたんでしょ?下心があるんじゃなかったの?)
ナンパした相手を危険――私にとって今日の出来事が危険だったかどうかはこの際置いておく――から守り抜いた直後だ。
困難を乗り越えて気分が高まっている今こそ、男が自分の魅力をアピールする絶好の機会であるはず。
話した限り、男の印象は悪くない。
雰囲気から察するに容姿に自信がないというわけでもなさそうだ。
ロマンチックなシチュエーションに憧れる子は多いし、この流れで迫られたら断れない女は多いだろう。
気分の高まりも合わせて考えれば、客観的にナンパの成功を期待してもいい状況だ。
もちろん好みはあるだろうし、私にその気はないけれど。
(もしかして、私は釣れないと思って諦めた?)
空振りを確信して、もう話す必要もないと思われているのだろうか。
それはそれで失礼な話だ。
(…………流石に理不尽が過ぎるわね。反省、反省)
私は溜息をひとつこぼし、顔だけ男の方に向き直った。
別に女だからって、男から声をかけられるまで待つ必要はない。
話したいことがあるなら、こちらから話しかければいいだけのことだ。
「ねえ、少し聞いてもいいかしら?」
「ッ!?あ、ああ……大丈夫、大丈夫だ」
私から声をかけると、男はビクリと体を震わせた。
「……?どうしたの?」
「いや、すまん、なんでもない……」
「そう……?」
その不自然なほど狼狽振りに、私は首をかしげる。
男がここまで挙動不審になる理由が、私には思いつかなかった。
(格好つけた言葉の数々が今更恥ずかしくなった……なんていう理由なら、少しは可愛げがあるのだけど)
これほど大胆に立ち回る男の心臓が、そこまで小さいはずはない。
いくらなんでもアンバランスだ。
「まあ、いいわ。今日はありがとう、助かったわ」
「どういたしまして。お役に立てたなら光栄だ」
礼を告げると、男の調子はすでに元に戻っていた。
謎は深まるばかりだけれど、男の様子を気にしていても話が進まない。
私は前置きも早々に、本題を切り出した。
「私が聞きたいのは、あなたが私を助けた理由よ。あなただけなら簡単に逃げられたはずでしょ?どうして私を見捨てなかったの?」
「ああ……、なんだそんなことか。男というのは美人が困ってるのを見ると、助けてやりたくなるものなのさ。それがあなたのような格別の美人なら、なおさらね」
男は大仰な身振りを交えて私の問いに答えた。
それは私を笑わせるためだったのかもしれないけれど、今はそれに付き合う気にはなれなかった。
私はそんなおべっかではなく、本当のことが知りたいのだ。
「顔が良いだけのよく知りもしない女のために、自分の命を懸けるの?」
「……流石に美人ってだけじゃ、命を懸ける理由にはならないな」
私が大仰な身振りに反応しないと理解した男は、あっさりと元の口調に戻った。
私は質問を続ける。
「なら、どうして?」
「命を懸ける必要もなかったから、だな。御覧のとおり、奴らは俺より弱かった。数は多かったけれど、十分に対応できると判断した結果だ」
「ふうん、なるほどね」
私は、うんうんと頷いてみせる。
そして、にっこりと笑って――――笑顔のまま男を追及する。
「でも、本当にそうかしら?」
「……どういうことだ?」
私の笑顔と私の口から飛び出した言葉の温度差に、男が困惑する。
「ほとんど無傷で追手を退けたのは見事だと思うけど、それほど余裕があったわけじゃなかった。そうでしょう?」
「言っただろ?追い詰められた演技をして、追手とギャングの同士討ちを誘っただけだ」
「それは、ギャングのアジトの近く、広い通りに出てからの話よね。その前から、苦しそうな演技をする必要はないでしょ」
「それは、まあ…………苦境からの大逆転の方がカッコいいからな。1割の下心が悪さをしたってことで、大目に見てくれ」
男が肩を竦め、降参だと身振りで示す。
辛くもないのにピンチに陥った振りをし、大逆転を演出して女の興味を引こうとする。
たしかに、一見して筋は通っているように思える。
「なら、切り口を変えましょう。<風魔法>使いが空に浮いたままだったら、どうするつもりだったの?」
「それは……」
「ギャングの弓矢で落ちるほど簡単な相手だとは、あなたも思ってなかったでしょ?となれば、<風魔法>使いは当然私たちを追ってくるはず。あなたは、どうやって撃退するつもりだったの?」
この男、遠距離攻撃の手段は持っていないと私は見ている。
<風魔法>使いがたまたま仕掛けてきたから良かったものの、空からチクチクと嫌がらせのような攻撃を続けて消耗させる手もあったし、むしろそちらの方が本筋だったはずだ。
だからこそ、私は意表を突かれたのだけれど。
「相手が一人だけなら、どうにでもなる。大通りに出て、知り合いの冒険者に手伝ってもらってもいいし、俺の仲間の後衛がつかまれば、それこそあっという間だ」
「…………」
こちらの説明も、腹立たしいことに筋は通っている。
きっと、嘘はないのだろう。
けれど――――
「本当のことを言う気はない、ということかしら?」
私は目を細めて、男をじっと見つめた。
嘘は言っていない。
一方で、核心を話してもいない。
この男の持つ雰囲気から、私はそれを確信した。
(……どうしてかしら?この男の本心を、諦める気になれないのは)
この男が隠そうとしているそれを、どうにかして知らなければならない。
私のひび割れた心が、どうしてかそれを強く求めている。
理由はわからない。
けれど、応えてあげたいと思った。
長い間求め続けて、結局本当に欲したものを得ることはできなかったから。
せめて最期くらいは、その望みを叶えてあげたいと思ったのだ。
(とはいえ、いくら何でも言い過ぎたかしら?)
依然として私の隣を歩き続ける男は、とうとう口を閉ざしてしまった。
男の言葉を否定しながら問い詰め続けたのだから、無理もない。
ここまで言われたら、誰だって不機嫌にもなる。
もう私との会話自体が面倒になっている可能性も否定できなかった。
(だんまりのままサヨナラは、ちょっと困るわね……)
ここは、こちらも少しだけ妥協すべきところだろうか。
少しだけ悩んだ末、私はちょっとだけ男に期待を持たせることにした。
「ねえ、良かったら本当のことを話してくれない?話してくれるなら、食事くらいは付き合うわ」
「…………」
男は無言のまま。
しかし、反応がないわけではなかった。
問題は、その反応が私の望んだものではなかったということだ。
「ちょっと、その反応はどういうこと?」
「いや、そんなこと言われても……。なんでそれが交渉材料になると思ったんだ?」
男はどうやら呆れているようだ。
予想外の反応に、私は愕然とする。
「え……、私と一緒に食事するの、嬉しくない……?」
私はこれでいて自分の魅力を過小評価せず、客観的に理解しているつもりだった。
なにせ、私は名声、権力、財力の全てを持ち合わせている。
私を妻にした貴族は発言力が大きく増すだろうし、私を妻にした平民は一生衣食住に困らずに生活することができる。
容姿だって、多くの男が魅力的だと感じるものを持っている自信がある。
年齢による衰えとはしばらく無縁でいられるだけの若さもあり、ついでに言えば魔力の多い魔術師は老けにくいらしい。
嫌々パーティに出席すれば私とダンスを踊りたい貴族の子弟に囲まれ、おめかしして帝都を歩けば道行く男が見惚れて立ち止まることもある。
私と夕食を共にする機会に恵まれた貴族の子息など、見ているこちらが恥ずかしくなるくらいに喜んだものだ。
そういった過去の経験と比較すると、むしろこの男の反応こそがイレギュラーと言えなくもないのだけれど――――
(あ、しまった……)
私は自分がどのような状態にあるかを失念していた。
名乗れないから、名声も権力も財力も意味がない。
魔道具で髪はくすんだ灰色に、瞳は黒に変わっていて容姿は地味寄り。
髪や肌の手入れなどさぼりっぱなしで、最低限の化粧すらしていない。
しかも、先ほどまで濡れ鼠だったので雨に濡れた服は生乾き。
心なしか嫌な臭いを放っている気もする。
(この男の言葉を信じれば、かろうじて美人と言ってもらえる程度の魅力は残っているらしいけれど……)
一緒に食事してやるから喜べと上から目線で言えるレベルは望むべくもないだろう。
そう考えたら、先ほどの自分の言葉が思い上がった馬鹿女の台詞に思えてきた。
顔が熱くなり、思わず両手で頬を押さえて震えてしまう。
そんな私の反応に、男はさらに呆れた様子だ。
しかし、ふと何かに思い至ったように声を上げた。
「ああ、もしかして有名人だったりするのか?そういえば名前聞いてなかったな……」
「え?あー……、まあ、うん、そうね」
歴代最年少の宮廷魔術師、しかも伯爵待遇の第六席だ。
有名人かと問われたら、有名人だと答えても嘘ではないだろう。
実際、大半の貴族に知られているし、平民の間にも名前はそれなりに通っていると思う。
私がやらかした直後など、全国の冒険者ギルドに私を捕縛しろと高額の依頼が張り出され、金に目がくらんだ冒険者たちが一斉に私のところに押しかけて来たくらいだ。
どういう政治力学が働いたのか短期間で依頼は取り下げられたようだけれど、辺境都市のギルドにも私の名前と人相書きが掲示されたことだろう。
この男だって、私の名前を知っていても不思議ではない。
(名前は言えない。言えないけど……自分の名前も言えないのに相手には秘密を言わせようとするのって、どうなの?)
アウトかセーフかと言えば、アウトだろう。
人としてどうかと思う。
男が呆れるのも無理はない。
諦めることもできず唸っていると、意外なことに男は助け船が出してくれた。
「ああ、名前は言わなくていい。逃げ回ってるときに、自分の名前は言いたくないだろ?」
「え、でも……いいの?」
あまりに都合の良い話に、むしろ申し訳なくなってくる。
ただ、男も優しいだけではないようだ。
「構わない。その代わり、条件がある」
「条件?」
「俺が隠していることを聞き出したいんだろ?話してやるから、その代わり、今晩は家に泊まっていけ」
「それは…………」
「ああ、違う。変な意味じゃなく本当に泊まるだけだ。絶対に手は出さない。俺は冒険者だからスキルカードに誓う。何なら一晩あんたに預けてもいい」
「うーん……」
冒険者が首に下げたスキルカードは冒険者の身分を証明する唯一の手段だ。
よほど顔が売れているか身分を保証する後ろ盾がある冒険者は例外としても、これを紛失すると最低ランクからやり直しになることが多いという。
(乙女としては少し不用心かもしれないけれど……。まあ、何とかなるわね)
男は私の正体を知らないし、戦闘能力に自信を持っている。
約束を反故にするつもりだとしても、私を家に連れ込むことに成功すれば毒や薬は使わずに力尽くで事に及ぼうとするだろう。
それくらいならどうとでもなる。
何なら四肢を拘束されている状態でも、男を丸焼けにするくらい造作もない。
それにこの申し出を断ってしまうと、私が切れる交渉カードが残らない。
男の本心を聞き出したいなら、この条件を受けるしかなかった。
「わかったわ。あなたを信用する」
「そうか。ありがとう」
男はほっとしたように大きく息を吐いた。
「なら、疲れてるだろうが、もう少しだけ頑張ってくれ」
「ここから近いの?」
「ああ。この通り沿いにあるからもうすぐ見えてくる」
「そう……」
私たちが歩いているのは南東区域だから、つまりこの男の家も南東区域にあるということだ。
大通りからの距離にもよるけれど、今日のお風呂は期待しない方がよさそうだ。
部屋が余っているという誘い文句が事実なら、お湯くらいは用意してくれるだろう。
では早速――――
「さあ、約束よ。早く話してちょうだい」
「そんなせっかちな……。お湯で体を温めてから、夕食をとりながらでもいいだろうに……」
「あ、入浴はできるのね?」
期せずして、お風呂の存在が明らかになった。
入浴を諦めた直後のことだから、私にとっては嬉しい情報だ。
「おう。広いし綺麗だから、期待してくれ」
「あら、それは素敵」
「シャンプーとボディーソープもあるぞ。香りは付いてないけど、そこそこ高級品だ」
「シャンプー……?」
嬉しい情報が続いたけれど、むしろ雲行きが怪しくなってきた。
一旦お風呂のことは置いておき、私は気になったことを尋ねてみる。
「ねえ、もしかして貴族なの?」
「そう見えるか?」
「……否定しないのね?」
「いや、残念ながら俺は平民だ」
「じゃあ、貴族の関係者?」
「違う、冒険者だ。さっき言っただろ」
男はなんでそんなことを聞くのか理解できないという様子だ。
しかし、私の疑念は晴れなかった。
広くて綺麗なお風呂なんて、貴族の屋敷でもなければあり得ない。
それに、お湯を大量に用意するのはお金がかかるものだ。
シャンプーだって平民が常用できるほど安価なものではないし、供給量も多くない。
そうなると、男の話が一気に怪しくなってくる。
(この男の誠実そうな雰囲気が、実は飾りだとしたら……)
実際は、相当悪いことをやっているのかもしれない。
私は顔に浮かべた微笑の下で、男の言葉の綻びを見落とさないよう神経を尖らせた。
「もしかして、疑ってるか?」
「…………うーん、少しだけね」
顔に出すような下手は打っていないはず。
けれど、男は私の疑念を見事言い当てた。
私は慎重に言葉を選びながら、会話を続ける。
「あなたの家、この通りにあるんでしょう?でも、ここって……言いにくいけど、貧民街よね?」
「ああ、なるほど」
その言葉だけで得心がいったと男は頷き、それから前方を指し示した。
「ボロ屋ばっかりだけど、ひとつだけ大きい屋敷が見えないか?そこから数えて……3本目の街灯の辺り」
「3本目……」
男の言葉に従って、薄暗い街並みに視線を走らせる。
50メートルくらいの感覚で設置された場違いな街灯を数えると、確かにひと際大きな建物を発見した。
(南東区域に屋敷なんてあったのね……)
男を疑ったことを少しだけ申し訳なく思う。
しかし、まだ少し遠いし暗いからよく見えないけれど、外観からしてあれは貴族の屋敷ではないだろうか。
先ほどの貴族と無関係という話は、一体どこへ行ったのか。
今度は探りを入れず、素直に疑問をぶつけることにした。
「貴族の屋敷みたいに見えるわ」
「今あそこに住んでるのは俺と家妖精だけだから、“元”貴族屋敷だな。俺が住処を探してたとき、ちょうど曰く付きで売りに出されててな。なんとお値段30万デルだ」
「それは……一体どんな曰くがあったのかしら?」
「それは後のお楽しみだ。ああ、怖い話はないから安心していい」
「そう?なら、そうするわ」
お風呂の件は私の勘違いという線が濃厚になったため、あっさり引き下がる。
では気を取り直して――――
「さあ、話を戻しましょう。早く話してちょうだい」
「もうすぐそこだぞ……。待てないのか……?」
「待てないわ。どうしてそこまで焦らそうとするの?」
「そりゃ……、話すのが恥ずかしいからだ……」
「それ、ナンパした女に下心がありますって宣言するより恥ずかしいことなの?」
「…………」
男から憮然とした雰囲気が伝わってきた。
少し言い過ぎたと思ったので、柄にもなく上目遣いで甘えたような声を使ってみる。
「別にいいじゃない。さわりだけでも。ね、お願い」
「はあ…………」
男は溜息を吐き、沈黙する。
ただ黙っているのではなく、言葉を選ぶためにそうしている様子だったから、私は男の気が変わらないよう静かに言葉を待った。
結局、男が話し始めたのは屋敷に着く直前のことだった。
「俺は小さい頃から冒険者になりたくて、いろいろ自分なりに努力してきた。実際、このとおり冒険者としては一人前だ」
男が首から下げたスキルカードを服の中から引っ張り出して示し、またすぐに服の中にしまい込む。
「でも、冒険者になることだけが目的じゃなくて……。本当に欲しいのは、守るための力だったんだ。自分にとって大切な人はもちろん、その周囲もまとめて守れるくらいの……。つまるところ――――」
俺は、英雄になりたかったんだ。
ゆっくりと言葉を選びながら話していた男は、しかしそれだけは迷いなく言い切った。
「いや、ちょっと違うか……。今でも、その気持ちは変わってない。今でも、俺は英雄になりたい。そう思ってるんだ」
「英雄……」
世の少年にとってそれは憧れであり、目標なのだろう。
私が探し続けた彼もそうだった。
この男のように成長した後もそれを本気で望む人は珍しいかもしれないけれど、それが悪いことだとは思わない。
少しだけ、胸が痛くなる。
「英雄なら雨に濡れた女を見捨てたりしない。もちろん、この都市にあんたと同じような状況の奴は他にもいるだろうし、それを全員助けることはできないが……」
それはそうだろう。
物語の英雄ですら、全てを救えるわけではないのだ。
男はそれを残念に思っている一方で、それを当然のこととして理解しているようだった。
取りこぼした何かを悔やみ続けても、前へは進めない。
当たり前のことだ。
そんなことは、わかっている。
「それでも、せめてこの手の届く範囲くらいは見捨てたくなかった」
「そうね。本当に、そのとおりだわ……」
その言葉は、つい私の口を突いて出た。
助けられた側の相槌としては不相応だし、場合によっては失礼だ。
けれど、私は男の言葉を自分自身に重ねてしまった。
彼は確かに私の手の届く範囲にいた。
なりふり構わなければ、彼を救う手段はあったはずなのだ。
名前も知らない誰かでもなく、大勢を助けるために必要な犠牲でもない。
最も助けたいと願った、大切な人だった。
見捨てたくない、諦められない。
その気持ちは痛いほど理解できた。
気づけば、私たちは屋敷の正面までたどり着いていた。
男が金属製の柵のような扉を開け、中に入るよう私を促す。
私は大人しくそれに従った。
玄関へと続く石畳を、ゆっくりと歩く。
私の少し前を行く男が、振り返らずに問うた。
「満足したか?」
「言わなくてもわかるでしょう?」
「そうか……」
ダメ元で最後の足掻きを試みる男を、バッサリと切り捨てる。
男は肩を落とし、少しだけ情けない声を出した。
「なあ、俺ってそんなにわかりやすいか?このローブ、フードを被ると相手の認識を阻害する効果があるはずなんだが、それでも見破られるって自信なくなるぞ……」
「ずっと顔が隠れたままなのは、そういうことだったのね」
「いろいろあったから、屋敷に戻るまでは念のためにな」
雨は、もうすっかり止んでいた。
フードを被っている必要はないのに一向にそれを落とそうとしないのは、別の理由があったということだ。
「私の場合、勘が鋭いのよ。表情から読み取ってるわけじゃないわ」
「理不尽なことだ」
「ご愁傷様。でも、今回はそれよりも……」
視線を男の顔から下へと動かす。
私の視線の先には、男の手があった。
私を屋敷に招き入れるために、玄関を押し開けようしているその手が確信の理由だ。
「今回の交換条件を考えれば、私を屋敷に入れる前に全部を明かしたりはしないはず。だから、この話にはまだ続きがある。違うかしら?」
「……以後、気を付けることにしよう」
押し開けられた扉の中から、光が漏れ出した。
扉を押さえる男の横を抜け、屋敷の中に入ると――――
「へえ……」
自然と、感嘆が漏れる。
造りは完全に貴族の屋敷だった。
高い天井に吊られた豪奢なシャンデリアは壮観。
磨き抜かれた床が光を淡く反射して輝き、正面の階段や両側の扉へと続く絨毯には汚れひとつ見当たらない。
調度品は少ないことに目を瞑れば、魔女の邸宅のエントランスホールにも見劣りしない素敵な空間だった。
そして――――
「フロル、大切なお客様だ。俺の許可がないうちは屋敷から出さないようにな」
そんな空間を従えるように、エプロンドレスで着飾った少女が丁寧にお辞儀をして屋敷の主を出迎えた。
肩口で揃えられた金色の髪は魅力的に輝き、深い青色の瞳が真っすぐに私を見つめる。
この屋敷の中に住んでいるのは自分と家妖精だけだと男は言った。
であれば、10歳くらいの少女の見た目をしたこの子が家妖精なのだろう。
たしかに、帝都の貴族屋敷でたまに見かける家妖精と、見た目から受ける印象は似ている。
しかし――――
(これは、ちょっと予想外……。本当に家妖精?)
少女と目が合った瞬間、少女から目が離せなくなった。
彼女から感じる魔力があまりに強大であったために。
本来、家妖精はあまり自己主張しない妖精だ。
家を清潔に保つことだけを期待され、彼ら自身もそれで満足するので立ち位置が目立たない。
多くの場合、供給を受ける魔力も最低限だから魔力生命体としての存在感も希薄になりやすい。
だから、目の前の少女のように強大な魔力を内包する家妖精は見たことがない。
家妖精ではない何か別の存在に、家妖精の真似事をさせている。
そんなチグハグな印象を受けてしまう。
「またか。一体何なんだ……」
「え?」
男の声で、私は我に返った。
「いや、なんでもない。フロル、お客様をお風呂に案内してやってくれ。着替えは……仕方ないから俺のでいい。今着てる服は明日も着るだろうから、悪いが洗濯を頼む。俺は少し部屋で休んでるから、そいつが風呂から出たら呼んでくれ」
矢継ぎ早に命令すると、男は正面の立派な階段の方へ歩いて行く。
どうやら、このまま自室に戻ってしまうらしい。
私は慌てて男を呼び止めた。
「ちょっと!話の続きがまだでしょう!?」
「夕食時でいいだろ……」
「続きが気になってゆっくり入浴できない」
「子どもか」
「うぐ……」
急に恥ずかしくなって、視線が泳ぐ。
たしかに、客観的に我が身を振り返ればお菓子を我慢できない幼児と変わらない。
駄々っ子のわがままそのものだ。
(ここは大人しく待つべきかしら……?)
この場で男の口を割るための交渉カードは持ち合わせがなく、そもそも男の言うとおり夕食時に話を聞いても構わないはずなのだ。
なんでここまで焦っているのか、自分でもわからなくなっている。
一縷の望みを託して男の方を見やると、男は顎に手を当てて何事か考えるような仕草をしていた。
「…………どうせ言うなら、今の方がいいか」
すぐに結論が出たようで、こちらへと向き直ると小さく頷いた。
「わかった」
「本当!?」
「ああ。ただし、質問は受け付けない」
私は男の方に向き直り、姿勢を正した。
肯定も否定もせず、肯定しているように見えなくもない仕草で相手を誤解させることで、この後の行動の柔軟性を確保する。
ろくでもない人間が集まる宮廷で身を守るための知恵だった。
一言も聞き洩らさないように耳を澄ませ、男の言葉を待つ。
そのわずかな時間さえ、もどかしい。
そして、ついに、男は語った。
「俺は、孤児なんだ」
私は騒めく心に蓋をする。
(孤児なんて、どこにでもいる……)
男はまだ、自分が孤児だと言っただけだ。
それだけのことなのだ。
「あんたは知らなかっただろうが、あんたに声をかけた場所が俺が育った孤児院だ。知ってのとおり、もう何もないけどな」
胸を撃ち抜かれるような衝撃が、私を襲う。
(同じ場所で、育った……)
男の歳はわからないけれど、印象としては私とそこまで離れていないように感じる。
私と歳の近い孤児の少年を全て記憶しているわけではない。
けれど、該当する者がそう多くないことは確実だ。
「英雄になりたいのも本当。下心だって全くのデタラメじゃない。でも、あんたを助けた一番の理由は――――」
私は早々に、男に秘密を強請ったことを後悔した。
(ダメ……。また、傷ついてしまう……)
もう十分過ぎるくらい傷ついた。
儚い期待は喪失感を生むだけだと知っている。
どうせ明日には全てから解放されるのだから、新たな傷を増やす必要はない。
これ以上は――――壊れてしまう。
しかし、私の祈りは男に届かない。
それは私の心を無視して、私の願いを叶えてしまう。
「あんたの姿が、もう会えない大切な人に重なったからだ。容姿は全然似てないけど、生きてれば歳は同じくらいだと思う。俺にとって、姉のような人だった」
「――――――」
抑えつけていた心が、一斉に叛旗を翻した。
鬨の声を上げ、自分たちを抑えつける理性を吹き飛ばそうと、全力を挙げる。
どこにこんな力が残っていたのか。
驚くほどの圧力が胸を締め付けた。
それと対照的に、私は――――私の冷静さと諦めを司る部分は、急速に力を失っていった。
「実はな、今日はこのローブの試しも兼ねて散歩してたんだ。知り合いに声をかけて、どういう反応になるか、とか。その後、目的地もなく歩き回ってたら自然とそっちに足が向いた」
男の声が耳に届くたびに、それはパラパラと欠けていく。
「もう何もないのはわかってるし、良い思い出ばかりじゃないんだが、やっぱり懐かしいのかもな。そしたら、今にも死にそうな顔した女が裏庭でへたり込んでた」
ついに、それは自身を維持できなくなって、砕けて散った。
「声をかけるか迷ってたら、あんた割れた酒瓶持ってうろつき始めたから、これは放っておいたらダメな奴だなって」
抑えつけるものがなくなった想いがあふれ、心が揺らぐ。
バランスを失った心につられて、体までもがふらついた。
「さあ、約束だ。さっさと風呂に入ってこい」
「あ……。ま、待って……」
「この話は、今度こそおしまいだ。もう話すことなんて残ってない」
男は私に背を向けて速足で絨毯を進み、階段に足をかけた。
「…………ッ」
言いたいことがたくさんあるのに、ひとつも口から出てこない。
なんでもいい。
何か、言わなければ。
焦燥を越えて、やっとの思いで口にしたのは、ただひとつの単語だった。
「が、外、套……」
「うん?」
正面階段の半ばまで進んだ男が、何事かと振り返る。
「もう、屋敷、よ……。いつまで、着てる、の……?」
自分でも何を言っているのかわからない。
ただ、男の素顔をこの目で見たい。
認識阻害のローブを着るなら、フードの下はきっと素顔だろう。
私の言葉に反応したわけではないだろうけど、どこからともなく籠を取り出した家妖精が男にそれを差し出す。
言葉はなくとも、その行動の意図は明白だった。
「…………」
逡巡の末、男はバサリと外套を脱ぎ捨てた。
「ほら、これで満足だろ!フロル、そいつを今すぐ風呂に放り込め!」
少し顔を赤くした少年が、足音高く階段を上っていった。
◇ ◇ ◇
それから、自分がどうやってここまで来たのかは憶えていない。
いつの間にか、私は広くて綺麗な浴室の中、なみなみとお湯を湛えた湯船に体を預けていた。
照れまじりに私を睨みつけ、踵を返して二階に消えた彼の背中を見送ったことは憶えているけれど。
(体、洗ったっけ……?お湯を汚しちゃったかも……)
そんなことを考えている場合ではなかった気がする。
思考がまとまらない。
心が、困惑しているのだ。
本当に喜んでもいいのか。
何かの間違いではないのか。
何度も何度も、しつこいくらいに問いかける。
(間違いじゃ、ない……。喜んで、いい……)
その問いに、私は“是”と返した。
これだけは間違えない。
私は、何度も間違いを繰り返した。
それでも、絶対に、彼の姿を見間違うことだけはないと断言できる。
(見つけた、んだ……)
目頭が熱くなる。
映し出される景色が綺麗な浴室から下手な水彩画に代わるまでに、時間はかからなかった。
「はは……、く……うっ……あ……うあぁ……」
声を殺して、咽び泣いた。
涙を手の甲で拭った。
けれど、あふれる涙は止まらない。
止まらない涙を、何度も何度も、馬鹿みたいに拭い続けた。
心を殺して、せき止めていた感情の奔流に飲み込まれ、何も考えられない。
でも、それでいい。
今はただ――――
「ずっと……。ずっと、会いたかった……アレックスくんっ……!」
わずかな時間、私の目に映った漆黒の髪と深い青色の瞳が、いつまでも私の脳裏に焼き付いて離れない。
それを思い出すだけで、私の心は満たされた。
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