第193話 黒鬼遠征―リザルト2
「お待たせしました。馬車もちょうど出るみたいですね」
「ああ、そうだな。間に合ってよかった」
馬車が村に到着し、行商人が荷物の積み下ろしを始めてしばらくしてから、ティアは戻って来た。
その様子に変わったところはなかった。
どんな話をしていたのか。
そんなことを俺から尋ねる愚は犯さない。
「エルザは?」
「エルザさんはギルドに戻ると言っていました。何か急ぎの仕事を思い出したそうです」
「そうか……。それなら仕方ないな」
エルザに別れの言葉を伝えそびれるのは、これで二度目だ。
村を追放された時といい、つくづくタイミングが悪い。
「見送りがないのは残念ですけど、今生の別れではありませんから。機会があれば、また来たらいいわけですし」
「いや、どうかな……。ここに来るのは今回が最後かもしれない」
「……そうなんですか?」
「ああ、そんな気がする」
大鬼を退治した後、改めてオーバン夫妻から謝罪があった。
彼らの行動を許すことはできない。
それでも、先の遠征の中で思うことがあったのも事実。
相反する心境を抱えた俺の返事は、許しはしないが理解はするという中途半端なものとなった。
エドウィンに関しては憎しみが解消されるどころか、積み増した感じすらある。
村のことしか考えず、実の娘すら駒にするあいつを許すことなど考えられない。
苦々しい思いは過去に世話になった恩を差し引いても到底飲み込めるものではなかった。
困難な依頼を解決して、それをきっかけに過去のわだかまりも解消する。
これが御伽噺か英雄譚ならそんなご都合主義的展開も許されるのだろうが。
現実にそんな状況に陥ってみれば、そう簡単に割り切れるものではなかった。
結局、俺とこの村の関係は依然としてこじれたまま。
もう望んでこの村を訪れることはないだろうし、この村の者たちもそれを望んではいないだろう。
だからこの村の風景を見るのは、きっとこれが最後だ。
「……さあ、馬車が待っていますよ!帰りましょう、アレンさん!」
俺の過去を知っているティアは、少しだけしんみりした空気に思うことがあったのだろう。
先に馬車に乗り込み、努めて明るい声で俺に手を差し伸べた。
「ああ、帰ろうか。俺たちの本拠地に」
俺も笑って彼女の手を取り、馬車へと乗り込んだ。
古くて少しガタがきている幌付き馬車の中、乗客は俺たち二人だけ。
行商人が荷馬車で運行していることから察するに、乗客が少ないのはいつものことなのだろう。
俺とティアは荷物を崩さないように気を付けつつ、最後尾に近いところにスペースを確保して、シート代わりの厚手の布と毛布を敷いてから腰を下ろした。
「普通は逆だよな」
「え、席のことですか?御者台に近い方が良かったですか?」
「違う違う。さっき、ティアが先に乗り込んで俺をエスコートしてくれただろ?あれは普通、男の役目じゃないかと思ってさ」
「たまにはいいじゃないですか。私もアレンさんに頼りになるところを見せたいんです」
「頼りになるところは昨日十分見せてもらったよ。ティアがいなければ、今頃どうなっていたことやら……」
「ふふっ、そう言ってもらえると嬉しいです。でも、そういうことであれば……頑張った魔法使いに、何かご褒美はありませんか?」
左肩に寄り添う重み。
深い栗色の髪がさらさらと流れ、腕に触れた。
「ご要望とあれば」
「きゃっ、あはは!」
ティアの両脇に手を差し入れ、俺の正面に引き寄せた。
くすぐったそうに身をよじる彼女は、俺の胸を背もたれにするように寄り掛かる。
そんな彼女を、俺はそのまま抱きすくめた。
馬車が動き出し、村の景色が遠ざかる。
それでも俺の心に寂しさはない。
言葉はなくとも、ただ温もりを感じているだけで満足だった。
「はあ……。幸せ、です」
しばらくして、ティアが小さく呟いた。
「それは良かった」
「はい。ただ、馬車の揺れがもう少し小さいと嬉しいんですが」
「悪いが、それは我慢してくれ。ああ、毛布をもう一枚敷くか?」
「うーん……やめておきます。今は、このままでいたいので」
「そうか。椅子になる身としては嬉しい限りだ」
「アレンさんを椅子扱いする気は全くありませんけど。きっとここが、私の一番安らげる場所なんだと思います」
ティアは大きく深呼吸し、その手が俺の腕を優しく撫でる。
「アレンさんはどうですか?」
「うん?」
「こういうことを聞くのは少し恥ずかしいですが……。抱き心地といいますか、重かったりしませんか?」
恐るおそるといった様子で尋ねるティア。
それが可笑しくて、つい笑ってしまった。
「笑われてしまいました……」
「悪い悪い、馬鹿にしたわけじゃないんだ」
拗ねたようにこぼすティアを少しだけ強く抱きしめて、その髪に顔を埋めた。
「重くないし、柔らかいし、良い匂いもする。肌はスベスベ、髪はサラサラ、声も聴いていて心地良い。本当に素敵な抱き枕だよ」
「……そう言われると抱き枕冥利に尽きます」
ガタゴトと揺れる馬車の中、クスクスと二人分の小さな笑い声が漏れた。
「ちなみにエルザさんの抱き心地と比べると、どちらがアレンさんの好みですか?」
「……………………。もちろん、ティアだ」
和やかな会話のキャッチボールの最中、突如繰り出された剛速球。
回避はできず、受け損ねれば致命傷は必至。
震える声でも何とか受け止めた自分を褒めてあげたい。
「そうですか。そう言ってもらえて嬉しいです」
俺の中で急激に緊張が高まる中、ティアの声音は先ほどから変わらず、その手は俺の腕を優しく撫で続けている。
この姿勢では互いの表情を見ることができないということが救いであり、恐怖感を高める原因でもあった。
(ああ、やっぱりきてしまったか……)
こちらは甘い空気にあてられて、例の件が頭から消えかけていたというのに。
穏やかな性格をしていても、やはりティアも一人の女なのだと今更ながら実感する。
しかし、後悔してももう遅い。
今の俺にできることは、振り向いた彼女の瞳が冷気を放っていないことを祈ることだけだ。
気まずい沈黙が続く。
俺から謝罪の言葉をかけるべき場面だと理解しているのだが、考えたはずの言い訳は先ほどの衝撃で頭から消し飛んでしまった。
その間、俺の腕の力はいつのまにか緩んでしまったようで、ティアが体勢を変えて体をこちらに向ける。
彼女の表情は意外なことに穏やかなものだった。
何気ない会話を楽しむときのように、微笑を浮かべた彼女がゆっくりと口を開く。
「ふふっ、驚かせてごめんなさい」
「ごめんなんて……謝るのは俺の方だろ」
「アレンさんを責めるつもりはないんです。私は残念ながら、アレンさんの恋人でも奥さんでもありませんから」
責めないと言いつつも、その言葉が意味するところは異なるだろう。
そしてやはり、次の言葉は明確な拒絶だった。
「でも、先ほどアレンさんの言葉は、信じることができません」
「………………」
ティアははっきりとそれを口にした。
ここまで否定的な言葉をかけられたのは、これが初めてかもしれない。
彼女の言葉のほとんどが俺を肯定するものだっただけに、受けるショックは大きい。
(なんて、自業自得だよな……)
優しいティアから厳しい言葉をぶつけられるだけのことを、俺はしてしまったのだ。
ショックを受けたなんて烏滸がましい。
それを言うべきは俺ではなくティアの方だろう。
やったことを思えば情状酌量の余地はない。
彼女がそれを許せないというのはごもっとも。
それを押して許してくれとは、とても言えない。
しかし、そんな思いに反して、彼女の次の言葉は俺の予想を裏切るものだった。
「だって、私はまだ抱かれたことがないんですから。抱き心地なんて、比べようがないと思いませんか?」
「え……?」
穏やかな声で紡がれる彼女の言葉。
その言い方では、まるで――――
「……許してくれるのか?」
恥も外聞も捨て、一縷の望みを託してティアに問う。
彼女は困ったような顔をして、ゆっくりと言い聞かせるように語り掛ける。
「先に言ったとおり、アレンさんは私に許しを請う必要なんてありません。ほかの女性と関係を持つこともアレンさんの自由です。けれど――――」
彼女は、その表情を隠すように俺の首元に顔を埋めた。
「それでもやっぱり、好きな人が他の女性を求めたら悔しいですし、寂しいです……」
「すまない……」
ただただ、心が痛かった。
せめて少しでも彼女を慰めようと背中に回した手も、しかし彼女を抱き締めることを躊躇ってしまった。
この少女を抱き締める資格が俺にあるだろうか。
そんなことが頭をよぎってしまい、なかなか腕に力が入らないのだ。
「謝る必要はありません、けど――――」
再度、俺の謝罪を否定して顔を上げた彼女は明るく微笑み、少し早口でまくし立てるように言った。
「どうしてもアレンさんの気が済まないということであれば、気持ちを行動で示してくれると嬉しいです。次の街で一泊する必要がありますし、今回の依頼の打ち上げの代わりに、一番良い宿をとるのもいいと思いませんか?」
「ティア、それは……」
ここまでの会話を振り返れば、彼女が促す行動というのが何であるのかは考えるまでもない。
最近はスキンシップにも慣れてきたとはいえ、恥ずかしがりやの彼女らしくない大胆な誘い文句が、少しだけ震えた声で紡がれた。
「…………」
この言葉が彼女の本心なら応えたいと思う。
しかし、この誘いが彼女の焦りから来るものだとしたら、その焦りの原因を作った俺が何を言うかと思われても応えるわけにはいかない。
彼女の大切な初めてを俺の心を繋ぎとめるために差し出そうとしているのなら、絶対に頷くわけにはいかなかった。
少しでもティアの内心を理解しようと、俺は綺麗な緑色の瞳を覗き込んだ。
ティアの顔から笑顔は消えていた。
しばらく真剣に互いの瞳を見つめ合う。
そして、俺は目を閉じた。
「ティアの気持ちはわかった」
「…………」
それは嘘だ。
ティアの瞳に僅かに見えた怯えの色が俺から拒絶されることに対するものなのか、それとも自分自身の言葉に対するものなのか、確信を持つことはできなかった。
だから、俺はティアの誘いを受けるわけにはいかない。
「でも、今日はやめておこう」
「えっ……?」
ティアの声が硬くなり、俺の胸元を握りしめる手に力がこもった。
彼女は何か言おうとしていたが、俺はそれに先んじて自分の想いを声に乗せた。
「これだけ不安にさせておいて、すまないと思う。けれど、ティアと結ばれる前に、つけておきたいケジメがあるんだ」
「そんな……エルザさんのことなら、私は――――」
「そうじゃない。ここからずっと北の戦争都市で、やらなければいけないことがある」
ティアに想いを伝えられない理由の何割かを占める幼き日の想い。
彼女に別れを告げ、完全な思い出に変えてしまえば、きっと俺はティアと正面から向き合うことができる。
大切な人ができた。
仲間も増えた。
だから、もう大丈夫だろう。
「戦争都市……。そこに何があるんですか?」
「何もない。何もないことを確かめに行くんだ」
そんなことを言われても困るだろうとは思う。
事実、ティアの表情は納得からほど遠いものだ。
「詳しい話は、そのときにするよ。できればティアにも、一緒に行ってもらいたい」
「……わかりました」
「ありがとう。それで、それが片付いたら――――」
自分でも不思議なくらい、穏やかな声だった。
「そのときは、聞いてほしい言葉がある」
薄くなっていた雲間から光が差し込む。
その場所から少しずつ青空が広がっていき、まだ大半を占める曇り空に負けないように、暖かな陽射しが降り注いだ。
「…………」
意味するところは、きっと伝わったはず。
その証拠に、彼女の頬が赤く染まった。
「……はい」
本当に小さな返事。
馬車が揺れる音にかき消されそうな頼りない声だったが、互いの吐息を感じられる距離ならそれで十分だった。
「ありがとう」
「アレンさんに頼まれたんですから、断れません」
ティアはそれだけ言うと、気が抜けたように抱き着いてきた。
深呼吸を繰り返して息を整えているところを見るに、彼女も相当緊張していたようだ。
そんな彼女を優しく支えるように抱きしめた。
しばらくして、落ち着いた彼女が顔を上げる。
「ところで、アレンさん」
「なんだ?」
ティアの声音は、普段どおりに戻っている。
世間話でもするときのような穏やかな口ぶり。
しかし、なぜだろうか。
俺はなんとなく、次に彼女が言うだろう言葉を予想することができた。
「私に言うことを聞かせたいとき、どうすればいいか――――ッ!?」
言い終わるのを待たず、俺は彼女を強く抱き締めた。
彼女の豊満な胸が潰れても、彼女が苦しそうに吐息を漏らしても、力は緩めなかった。
きっと彼女も、それを望んでいると思った。
「夢心地です」
少しだけ苦しそうにしながらも、彼女はそれを拒まなかった。
しかし――――
「けど……もうこれだけじゃ、足りません」
満足はしてくれなかったらしい。
腕の力を緩め、互いの吐息がかかる距離で見つめ合うと、彼女が目を閉じるのも待たずにその唇を奪う。
最初は静かに、徐々に激しく。
情熱的な口づけは息をするのを忘れていたせいで、長くは続かない。
しかし、それでも構わなかった。
「もっと……」
一度ではなく、二度、三度――――
ガタゴトと揺れる馬車の中、彼女のおねだりは終わらなかった。
物音を立てないように。
声を聞かれないように。
俺たちは互いの口唇を貪るように求め合った。
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