第181話 黒鬼と東の村6
翌日。
少し寝坊した俺は遅めの朝食をとると、休憩室のベッドに寝転がって天井を見上げていた。
エドウィンが戦果確認のために送り出したのはダニエル以外の3人。
つまり、昨日同行しなかった冒険者全員だった。
俺の仕事に不備がないことを確認するための、本来は不要な時間。
退屈になるはずの時間だったが、昨夜の出来事のおかげで退屈感は空の彼方まで吹き飛んでしまい、俺は退屈感に代わって胸に居座るもやもやした気持ちと向き合わなければならなくなった。
(どうして、エルザを買ったのか……)
依頼料に不足があったという事実が、理由のひとつであることに間違いはない。
ただ、それだけが理由なのかと言われると、答えに窮するのもまた事実だ。
では、何が理由なのだろうか。
俺は自分の胸に問いかける。
エルザの色香に惑った――――というのは少し違う。
身綺麗になったエルザが綺麗だったのはそのとおりだし、あの夜から何度もエルザを抱いた今となっては説得力のない話だが、それを言い出したのは彼女自身だ。
もしもエルザがそれを提案せずにあのまま交渉が続いた場合、どこに着地点を見出したかは想像できない。
それでも、俺が自らエルザに体を要求することはなかっただろう。
後払いでもいいから適正な報酬をという提案は、今思い返しても互いが納得し得るひとつの妥協点だったはずだ。
エルザが他人行儀になっていたことが寂しかった――――というのも少し違う。
あの夜に彼女がみせた媚びるような笑顔が俺の心に少しばかりの影を落としたのは事実だし、彼女が俺に対して家族のように接してくれることはもうないのだと落胆もした。
しかし、いくらなんでもそこから一足飛びにエルザを買おうとは考えない。
可愛さ余って憎さ百倍というにも限度があるし、そもそも俺はエルザを憎いとは思っていない。
「…………」
認めなければならない。
ドロテアのいうとおり、その理由はエルザに起因するものではないのだということを。
困っているのがエルザだけだったら、きっとこうはならなかった。
例えば、路地裏でガラの悪い冒険者に絡まれているエルザを見かけたとしたら。
例えば、街道で盗賊に追われているエルザとばったり出会ったとしたら。
依頼料の話なんておくびにも出さず、彼女を助けるという確信がある。
俺は幼い頃から顔も名前も知らない少女を助けて回るような子どもだったのだから、見知ったエルザを見捨てるなんて考えられない。
それがどうしてこうなったのかと言えば――――
(村の連中が憎いから、か……)
エルザを助けたいと思う気持ちにブレーキをかけたのは過去の記憶だ。
彼女を助けるための行動によって、憎い奴らも助かってしまうからだ。
エルザを助けたい。
村の奴らを助けたくない。
相反するふたつの気持ちに折り合いをつけることは難しい。
彼女の色香も彼女の態度が感じさせた寂しさも、全くの無関係ではなかったのかもしれない。
いくつもの感情が複雑に入り混じって俺の行動を縛る枷となり、俺はエルザの甘い囁きに逃げ込んでしまった。
(俺から、言うべきだった……)
依頼なんて必要ない。
俺がお前を助けてやる。
そう言ってエルザに手を差し伸べるべきだった。
過去の柵を捨てて少女を助け、村の者たちと和解する。
それこそが、俺が選び得る最も英雄らしい選択肢だったはずなのだ。
(それに引き替え、現実の俺がやったことといえば……)
馴染みの少女を金で買い、恩ある隣人を言い負かそうとして逆にやり込められた。
しかもやり込められたところを買った少女に助けられ、慰められ、それでも足らずに朝から不貞寝ときている。
こんな情けない英雄がどこにいると言うのだろうか。
普通の冒険者なら、それでも良かった。
しかし英雄を目指すなら、過去を乗り越えてみせるべきだった。
「…………」
寝返りしてうつ伏せになり、少し硬い枕に顔を埋めた。
(ドロテアたちが戻ってきたら、すぐに村を出よう……)
もう仕方ないのだ。
話し合いで解決できるラインはとうに踏み越えてしまった。
エルザから奪ったものを返すことなどできないのだから、今更謝罪したところでエルザを惨めにさせるだけだ。
今の俺にできることは、依頼を遂行して速やかにこの村を立ち去ることくらい。
溜息を吐いても、情けない考えは止まらなかった。
「…………あれ?」
いつのまにか眠ってしまったようだ。
うつ伏せのまま、ポーチを手繰り寄せて中から懐中時計を取り出すと、時刻はもう昼を過ぎている。
今から荷物をまとめ始めれば、エドウィンが送り出したドロテアたちが黒鬼の全滅を確認して戻るまでにギリギリ間に合うだろう。
俺はゆっくりと体を起こし、まずは身支度を整えた。
エルザが干してくれた洗濯物を回収して荷物袋に放り込み、装備を身に着け、全ての準備を整えてロビーの椅子のひとつに腰掛ける。
幸い、彼らはまだ戻ってきていない。
ロビーにいたのはエルザただ一人だった。
「アレン、どうしたの?」
掃除をしていたエルザに声をかけられた。
彼女の視線は俺の顔から足元へ流れていき、そこに置かれた荷物袋で止まった。
「……帰るの?」
「依頼は果たしたからな。もうここにいる理由がない」
「でも、馬車が来るのは明日よ?」
「自分の足でも、日が沈むまでには次の街に着く」
「ドロテアのことは気にしなくていいわ。アレンが責められる理由なんてないんだから」
「…………」
返す言葉が見つからない。
俺は逃げるように、彼女から視線を逸らした。
「アレン……」
寂しげな声。
少しして、彼女の足音が近づいてくる。
俺の視線と反対側に回り込んだ足音は、触れられるほど近づいてようやく止まった。
「アレン……。私は――――」
躊躇うように、エルザは語り掛ける。
しかし、その続きが語られることはなかった。
荒々しい足音と叫ぶような大声が、彼女の言葉を遮った。
「エドウィンさん!!」
ギルドに駆け込んできたのはオーバンだった。
オーバンの視線がロビーの中を巡り、俺とエルザを見つけて硬直する。
「どうしたの?何か急いでるんじゃないの?」
「あ、ああ……そうだ。実は……」
「入り口を塞ぐんじゃないよ。さっさと入りな」
オーバンが後ろから突き飛ばされてたたらを踏み、空いた隙間からドロテアが現れた。
ドロテアもオーバンと同様に視線を巡らせ、こちらを見つけると何とも微妙な顔をする。
「どうしたの?何か急いでるんじゃないの?」
エルザが苛立たしげに先ほどと同じ言葉を繰り返す。
ドロテアは我に返り、表情を引き締めた。
「エルザ、エドウィンさんを呼んできてくれ」
重々しく響くドロテアの言葉は、俺にとって信じ難いものだった。
「妖魔が、生きていた」
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