第176話 黒鬼と東の村1
呆然とするエドウィンをロビーに置き去りにして、俺はエルザとともにかつて寝泊まりしていた休憩室を訪れた。
「もう、私がやらないと掃除もしないんだから」
エルザは休憩室のカーテンを勢いよく開き、窓を開けて換気を始めた。
おそらく出立前に掃除はしていったのだろうが、エルザ不在の間に薄っすらと溜まったホコリが風に舞い、日の光を浴びて浮かび上がった。
「おお……」
俺は思わず声を上げてしまった。
別に部屋が汚いことを残念がっているわけでも、日を浴びて浮かび上がるホコリに見惚れていたわけでもない。
(ホコリ、久しぶりに見たな……)
よくわからない感慨が胸に湧きあがっていた。
このところ、自分の屋敷以外では中程度のランク以上の旅館にしか滞在していない。
旅館もそれなりのランクなら客室にホコリが溜まっていることはなく、俺の屋敷はホコリが存在できる環境ではない。
ホコリを見るのは、本当に久しぶりだったのだ。
(いや、あれだけの広さの屋敷でホコリがないって、改めて考えるとおかしいけどな……)
俺が屋敷で頻繁に使うのは、二階の自室、一階のリビング、食堂、トイレ、洗面所と浴室くらいのものだからあまり意識していないが、俺が普段使わないだけで屋敷にはそのサイズに見合うだけの部屋数が存在している。
二階だけでも広々とした自室のほかに居室が8部屋、さらに使われていない使用人控え室が2部屋と書庫で計12部屋。
一階には浴室、台所、使用人室、応接室、洗濯室、用具室や倉庫などもあり、部屋数は――――正直なところ覚えていない。
もしも俺が自力で屋敷を掃除しなければならないとしたら、屋敷を一周する頃には最初に掃除した部屋がホコリまみれになっていることだろう。
しかし、現実には全ての部屋が清潔に保たれている。
あまりに完璧に家事をこなす家妖精に手落ちはないのかと思った俺は、姑が嫁に嫌味をいうときにやるという窓の縁をつうっと指でなぞって「ホコリが残ってる!」というのをやってみようと思い、時間をかけて屋敷中を歩き回ったことがある。
全く見つからないホコリを探すことにまるで宝探しのように夢中になって、倉庫や書庫まで丹念に調べて回り、気づけば日が暮れていた。
なお、結果はお察しである。
「はあ、また掃除しなきゃダメね。ごめん、アレン。疲れてるところ悪いけど、こんな状態だから先にお風呂でも……って、ああ、お風呂もか!」
「いや、仕方ないだろ。気にするな」
ガックリ項垂れるエルザを、俺は本心から慰めた。
これが普通なのだ。
おかしいのは俺の屋敷だ。
「どれ、それなら風呂は俺が掃除しよう」
エルザを慰めるついでに風呂掃除を買って出た。
ここに世話になっていた頃、風呂掃除は俺がやることが多かったから、それくらいはできる。
フロルの甘やかしのせいで俺自身のダメ人間化が著しいので、そのリハビリも兼ねて。
「流石にそれはさせられないわ」
「そうは言うが、掃除を全部エルザにさせてたら今度は昼飯を作るやつがいなくなるだろ?まだ腹は減ってないが、この部屋の掃除と風呂掃除を済ませてから作り始めるのは流石にな……」
難色を示すエルザを理詰めで説得する。
そもそもエルザに掃除を任せたところで俺が寛げる場所がどこにもないのだ。
ここに居ても邪魔になるだけだが、先ほど盛大にかましてきたエドウィンのところに戻って掃除が終わるまで待つというのはぞっとしない。
「…………ごめん、お願いしてもいい?」
「構わない。報酬は一番風呂でいいぞ」
「ご自由にどうぞ。アレンがお風呂から上がる頃に、お昼ご飯が出せるように頑張るわ」
そう言って早速掃除に取り掛かったエルザを残して、俺は荷物ごと露天風呂に向かった。
脱衣所で防具を外して荷物袋に放り込むとき、もしかしたらと思って愛剣『スレイヤ』の収納を試してみる。
しかし、やはり奥行きが足りない。
クリスの不思議ポーチのようにはいかなかった。
(うーん、惜しい……。いや、武器はいつも手の届く場所にある方がいいか?)
フロルがくれた荷物袋は便利だが、収納した物をゲームのようにワンタッチで手元に呼び出せるわけではない。
荷物袋に収納した剣を取り出す隙に、後ろから斬られる。
そんな間抜けな死に方は絶対に御免だし、予備の片手剣を収納できるだけでも十分だ。
「さて、と……」
服は脱衣籠のひとつにまとめて放り込み、荷物袋と剣はその近くに置いた。
上下とも下着姿になると、風呂場へ続くガラス戸を開け放つ。
右手には剣の代わりに柄の長いデッキブラシ。
目の前に広がるのは、うちの屋敷の浴室よりも若干広いくらいの露天風呂。
「黒鬼の前に、ぬめり退治といきますか」
俺はブラシをクルクルと弄びながら、石造りの床と浴槽を綺麗に磨き上げるべく、風呂場の中に踏み入った。
俺のダメ人間化の進行度合いはさておき。
体の成長やそれに伴う基礎体力の向上、そして<強化魔法>のさらなる習熟により風呂掃除は以前よりもずっと楽になっていた。
風呂掃除が完了すると予告どおりに一番風呂を楽しみ、エルザが用意した昼食をとる。
昼食にはエドウィンも同席していたが、彼は終始無言で俺とエルザが雑談に興じる様子を窺っていた。
「初めまして。」なんて言ったものの、俺が彼の知るアレンであることは明らかだ。
村を恨んでいるはずの俺が村の救援に来た意図も、わざわざ俺を選んで連れてきたエルザの意図も図りかねて困惑しているに違いない。
もちろん、わざわざ経緯を説明してやるほど俺は親切ではなかった。
エドウィンとて、自分の娘が体を売った話など聞かされたくはないだろう。
「ごちそうさま」
「お粗末様」
俺が皿を下げるために立ち上がろうとすると、エルザがそれに先んじて俺の皿をトレイに乗せ、ほぼ同時に食事を終えたエドウィンの皿と一緒に台所に運んでいった。
そんなエルザの後ろ姿を眺めつつ、俺はこの後の動きを考える。
俺は片道3日もかけてこの村に遊びに来たわけではない。
次の馬車が来るまで3日の時間があるとはいえ、面倒事はさっさと片付けてしまうに限る。
「さて、ギルドマスター。早速だが仕事の話をしよう」
「あ、ああ……そうだな」
調子が戻らないエドウィンが躊躇いがちに頷いた。
かつては泰然として見えた大男が、今日はやけに小さく見えた。
エドウィンの体格が実際に縮んだというわけではない。
俺の体格があの頃よりも成長したから、というだけの話でもないのだろう。
「まず、討伐対象の所在地を。それとこの村の戦力についても聞いておきたい。冒険者ギルドがあるということは、所属冒険者がゼロということはないはずだ」
「……ああ、わかった。今回の妖魔の場所だが――――」
引き出しから取り出した地図がテーブルの上に広げられる。
エドウィンは少しの間地図を眺め、村の位置から数キロほど北に位置する場所に小さな木彫りの猿を配置した。
「ここが妖魔の出現位置だ」
「ふむ……。ここの地形は?」
「岩場だ。昔は石切り場だった場所だが、ここで3体の妖魔が確認されている」
「その3体で全部か?」
「現時点で確認されているのはこれだけだ」
「…………」
俺は黙って地図に目を落とした。
地図と言っても前世にあったような精巧なものではなく、大体の距離や地形しか読み取れない粗雑なものだ。
戦争時に他国に利用されることを防ぐためなのか、精巧な地図は一般には出回っていない。
このような地図では草原が書いてある場所に川があっても不思議ではないから、地図を読むときはその地域をよく知る人間に話を聞いて情報を補うことが必要だ。
「地図にない地形は?」
「小さな川がいくつかある。橋は架かっているから、移動の問題はないはずだ。今も、この村に所属する冒険者たちが、妖魔の討伐に向かっている」
「討伐…………できるのか?」
できるなら、俺を呼ぶ必要などないだろうに。
そういう気持ちを込めてエドウィンに視線をやると、彼はゆっくりとため息を吐き、渋々という様子で実情を明かした。
「全員で戦えば死人が出ることはない。ただ、外皮が硬すぎてほとんどダメージを与えられないのも事実だ。村の者たちには言えないが、彼らだけであれを討伐するのは難しいだろう。今日も、主な目的は妖魔の現在位置の確認だ」
村の状況を見るに、村人も薄々は察していそうだが。
今はそれを指摘しても仕方がない。
「その冒険者たちの人数と特徴は?」
「…………」
俺が尋ねると、エドウィンは黙って俺を見つめた。
見守るでも睨みつけるでもなく、俺の真意を探るような視線だ。
俺は微笑を絶やさず、しかし真っ向から視線をぶつけ合わせた。
しばしの沈黙の後。
エドウィンは目を伏せ、俺が知っているものと変わりない情報を説明するのだった。
「さて、情報共有はこれくらいだな」
一通りの話をエドウィンから聞き出すと、俺は立ち上がって伸びをした。
「まさか、今から行く気か?」
「いや、今からでは遅いし旅の疲れもある。今日のところは休ませてもらおう。この村の冒険者には、案内と黒鬼の釣り出しだけ頼んでおいてくれ。討伐は俺だけで十分だ」
「……本当に狩れるのか?」
「そう言っている。信用できないならそれでもいい。どうせ、明日にはわかることだ」
そう言い残し、荷物袋と剣を担いで席を立った。
「休憩室は片付いたから、好きに使って」
「ああ、そうさせてもらう」
去り際、声をかけてきたエルザに返事をして休憩室へと向かうと、塵ひとつない――――とまではいかないが、十分に綺麗になった部屋が俺を迎えてくれた。
俺は替えられたシーツに腰を下ろし、防具を装着する。
風呂上がりだから外していたが、これからはなるべく装備を手放さない方がいいだろう。
ここは、俺にとって本拠地ではないのだから。
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