第173話 二人の関係
「この前はゴメンね?突然だったから、言葉が見つからなくって……。ほら、あのときはお別れも言えなかったし……」
「ああ、2年振りだからな。俺も驚いたよ」
「それと……食事と宿の払いもありがと。正直、かなり助かった」
「気にするな」
すっかり日が沈んだ頃。
俺とエルザは南通りにの裏手にある宿の一室で、小さなテーブルを挟んで向かい合っていた。
宿の値段はこの都市のほかの宿と比較しても中程度。
個室に小さな浴室が付属していることを特徴とするこの宿は、エルザは知らないだろうが稼ぎの良い連中が連れ込み宿としてしばしば利用する場所だった。
稼ぎの良い連中が歓楽街の裏通りで客を捕まえるような不衛生な娼婦を選ぶわけもなく、連れ込まれる側も仕事上がりの酒場の給仕など、美しく身綺麗な女であることが多い。
きっと、そういう事情があるからだろうが、宿の受付をしていた従業員の男は俺たちを見て眉をひそめた。
俺が連れ込んだエルザの様子が、あまりにも疲弊したものだったから。
彼女を見かけてから丸1日以上経っている。
その間、十分に休みを取ることも、身だしなみを整えることもできない状況に置かれていたのだろう。
髪はほつれ、目の下には薄っすらと隈が浮かび、それを隠すための化粧すらしていない。
『釣りはいらない。適当に2人分の食事と酒を部屋に運んでくれ』
そう告げて、本来の料金の3倍近い額を握らせなければ、数秒後には宿から追い出されていたかもしれなかった。
「はあ……。恥ずかしいことだけど、お風呂に入れたのも何日か振りなのよね。あ、私、臭わなかっ……ああ、ごめん、やっぱりなし!」
そんなエルザも、先ほど久方ぶりのお湯にありついてすっかり身綺麗になり、宿に常備されたバスローブを羽織ってくつろいでいた。
入浴と合わせて簡単に洗濯もしたようで、彼女の衣服は部屋の隅に干されている。
服や下着も汚れているだろうと予想して、エルザが入浴している間に宿の1階で取り扱っている安物の下着を脱衣所に差し入れたから、代わりにそれを着用していることだろう。
「そういうところ、変わらないな」
そんな彼女の様子は懐かしい記憶を思い起こさせ、少しだけ俺の頬を緩ませた。
あの村の思い出の全てが裏切りによって壊されてしまったわけではない。
おしゃまでうっかりしたところのある少女と過ごした過去は、今でも安らかな時間として記憶されているのだ。
「そういうアレンは変わったわ。なんというか、すっかり冒険者になった」
「何言ってんだ。村に居たときから冒険者だったろうが」
「うーん、あのときはまだ見習いが抜けきってなかったと思う」
「相変わらず失礼な奴……」
他愛無い会話。
まるで昔に戻ったかのようだ。
「ねえ、聞かせてくれる?あれからアレンがどんな冒険をしたのか」
「この都市に来てからの話ならいいぞ。昔の話は忘ちまったからな」
「あははっ、なにそれ!」
エルザがグラスにワインを注いでくれる。
俺もエルザのグラスにワインを注いでやった。
宿の従業員が持ってきたもので、相変わらずワインの味はよくわからなかった。
それでも、酒とツマミと話し相手がいればそれで十分。
話し相手が2年振りに会う昔馴染みともなれば、話のネタは早々尽きることもない。
「それじゃ、再会に乾杯!」
「乾杯」
こうして、俺とエルザの長い夜が始まった。
「ふーん、悪い商人もいるのね……」
「ああ、まったくだ。世の中、信頼できる人間が少なすぎる」
話し始めてから結構な時間が経過した。
この都市で冒険者として暮らす話――俺がカッコ悪い部分を除く――は大方話し終えたし、エルザの話もある程度は聞けた。
エルザの話は本人曰く“山も谷もない退屈な生活”の話が多かったが、懐かしさ補正もあってそれなりに楽しめた。
「そういえばギルドで聞いたわ。今更だけどC級昇格おめでとう、アレン」
エルザは嬉しそうにパチパチと手を叩いて俺の昇格を祝ってくれた。
「ありがとう。といっても、昨年の暮れに上がったばかりだけどな」
「それでもすごいわ。うちの村なんて、ついこの間ようやくダニエルとオーバンがC級になったばっかりなのに」
「…………」
オーバン。
その名前を聞くと、やはり心がざわつく。
「そうか。やっぱり冒険者は続けてるか」
先の遠征の中でオーバンの心情を想像する機会があったとはいえ、あいつを許したわけではない。
事情があるからと言って、相手が俺に危害を加えることを受け入れるほど、俺は達観できてはいないのだ。
「ごめん、失言だったわ……。この名前は、アレンの前で出すべきじゃなかった」
俺の声音の変化に気づいたエルザが軽率な発言を詫びた。
ここまでのエルザの話の中に、不自然にも冒険者たちの名前が出てこなかったのは、きっと俺に配慮してのことだったのだろう。
「それに、あのときのことも改めて謝らせてちょうだい。アレンを村から追い出したこと……本当に、本当にごめんなさい」
そう言って、エルザはテーブルに額が付きそうになるほど深く頭を下げた。
「2年も前のことだ……。もう、今更だろう」
俺は許すとも、許さないとも言わなかった。
どちらも言いたいとは思わなかった。
少なくとも、エルザに対しては。
「………………」
しばらく頭を下げ続けていたエルザが顔を上げた。
そこには、先ほどまではなかった不安が見え隠れしていた。
「昔話をするために俺を呼び止めたわけじゃないんだろ?そろそろ本題を話す気はないか?」
助け舟と言うには、やや突き放したような言葉。
それでも彼女が本題を切り出す契機としては十分だった。
「うん、ありがとう……」
俺の意図を理解して、彼女は礼を言う。
そしてエルザはようやく本題を――――彼女がこの都市にやってきた理由を告げたのだった。
「最近、私たちの村からあまり遠くない場所に、強力な妖魔がうろつくようになったの。ダニエルたちじゃ全然歯が立たなくて、何とか逃げては来れたけど……。このままじゃ、いつ村が襲われるかわからないわ」
エルザは俺が話を聞いていることを確認しながら、静かに話を続けた。
「2日前、この都市に到着してすぐにギルドに駆け込んだけど、門前払いされちゃった。依頼の内容と依頼料が見合ってないって……。結構な大金を持ってきたつもりだったのに、ギルドが示した標準的な依頼料には全然足りないんだって。あは、笑っちゃうでしょ?」
そう言って、困り果てたように力ない笑顔を浮かべた。
「仕方ないから、昨日と今日はギルドを経由せずに直接依頼を受けてくれる冒険者を探してみたけど、やっぱりダメだったわ……。ギルドに言ってくれって耳も貸さないか、話は聞いてくれても依頼料を聞いた途端断られるか……。結局誰も、依頼を受けてくれなかったわ。だから――――」
テーブルの上を這っていたエルザの視線が、俺を見つめた。
「だから、お願い……。もう、これ以上遠くの都市まで行く時間なんてない。この一度だけでいいから、依頼を受けてほしいの!」
不安、緊張、期待。
感情が混じって震える声でエルザは言い切り、もう一度深く頭を下げた。
「………………」
複雑な感情が混じり合っているのは俺も同じだ。
目の前で頭を下げる少女。
故郷に戻れなかったあの頃、俺が彼女に救われたのは確かな事実だ。
この少女に恩を返したい。
目の前の少女を助けてやりたい。
そんな思いが、俺の中に確かに存在していた。
一方で、今回の件を考える。
村の周囲をうろつくようになった強力な妖魔。
討伐しなければ村が危ない。
しかし、それは裏を返せば討伐すれば片が付くということだ。
尻尾を出さない商人と探り合いをする必要も、次々に湧いてくる傭兵団のごとき冒険者パーティと戦う必要もない。
単純明快でわかりやすい状況だ。
ただし――――
(それは本来、村の冒険者がやるべきことだ……)
ダニエル、ドロテア、アデーレ、そしてオーバン。
村に居る冒険者4人が、その妖魔を討伐すべきなのだ。
もちろん、その地にいる冒険者が勝てない妖魔なら、適正な対価を支払って援軍を呼ぶのは恥ではない。
昨年の暮れ、この都市の冒険者ギルドも余所から冒険者を呼んで南の火山に派遣したことは、俺もよく覚えている。
しかし、あの村は適正な対価を支払うことはできないという。
「………………」
いや、違う。
俺が引っかかっているのは、そんなことではない。
俺の心を鋭い爪で傷つけ、俺の感情に不協和音を奏でるのは――――
『この村を出て行ってくれ』
エルザの父、東の村のギルドマスター、エドウィン。
彼が告げた言葉は今でも鮮明に覚えている。
(村のためと言って……。その方が村のためになると言って、オーバンではなく俺を追放した村が、俺を頼る……?そんなことが――――)
「アレン……」
ドロドロとした憎しみに沈みかけていた意識が、現実に呼び戻された。
気づけばエルザは顔を上げて、不安そうに俺を見つめていた。
(いや……。まずは最後まで話を聞いてからだ……)
俺はまだ、エルザから何も聞いていない。
「悪かった。いろいろ思い出して、な……」
「うん……。それは、わかってるつもり」
そう、エルザは知っている。
彼女もあの場所に居たのだから。
俺の憤怒も失望も、彼女は知っているはずだった。
「順番にいこうか。まず、依頼を受けてくれというなら、何をすればいいのか、依頼料はいくらなのかくらい教えてくれ。俺はまだ、何を討伐すればいいのかも聞いていない」
「あ、そうね。そうだったわ」
そう言うと、エルザはベッドの脇卓に乗せた彼女の荷物に歩み寄り、一枚の紙を引っ張り出すと、そのまま俺に差し出した。
「はい、これ。依頼票」
俺はそれを受け取って、上から目を通していく。
俺が見慣れたこの都市のものとは若干異なる体裁の依頼票は、村で作成してきたものだろう。
それでも、記載された項目は大差ない。
「依頼の内容は村周辺の妖魔の討伐。達成報告の方法は魔石の確認。期限はなし。適正ランクはC級パーティ。報酬は妖魔の魔石と大銀貨……4枚?」
「うん……」
たしかに、これでは受ける冒険者は見つからないだろう。
この都市にいるC級冒険者の数が多くないとか、そういう問題ではない。
(適正ランクがC級パーティ……)
それはつまり、C級冒険者4人程度が目安ということだ。
報酬は頭割りで大銀貨1枚。
東の村までの交通は、たしか数日に1本という限られた馬車のみ。
魔導馬車では採算がとれず――そもそもあんな辺鄙な村に魔導馬車など運行していないが――普通の馬が牽引する低速の馬車を使うから、移動は片道3日。
本題の討伐にどれだけの期間掛かるかわからないが、滞在費が自腹であれば採算ラインを明らかに割っている。
妖魔の魔石とやらの売却価格にもよるが、そんな不確かなものを頼んで依頼を受けるような物好きはそういない。
南の森の深いところでキャンプでも張って、D級でも倒せる魔獣を乱獲した方がよほど稼げるだろう。
「その反応……わかってたけど、やっぱり足りないのね……」
「まあな……。村の場所が場所だから、どうしても採算ラインは高くなる。妥当なとこで倍額、利益を考えなくても5割増しくらいはないとな……」
「ギルドでも、似たようなことを言われたわ……」
エルザが諦めたように小さくこぼした。
「それで、肝心の妖魔の情報は?背格好とか特徴とか、何かないのか?」
「えっと……真っ黒な人型の妖魔よ。体格は父さんよりもずっと大きくて、丸太みたいな太い腕と鋭い牙を持ってる。腕は見た目通りの怪力で、木の幹も簡単にへし折るくらい。殴られたら、人間なんてひとたまりもないわ」
頭の中で、エルザが告げる特徴から妖魔の姿かたちを組み立てる。
しかし、最後まで聞くことなく、その特徴にピッタリ当てはまる妖魔を俺は知っていた。
「正式な名称なのかどうかはわからないけど、村の人は確か――――」
「黒鬼か」
「ッ!!それ、そう言ってたわ!知ってるの!?」
エルザは興奮した様子で、身を乗り出した。
「あ、ああ……。知ってるというか、倒したことがある」
「本当!?なら――――」
彼女の顔に、一瞬期待の色が見えた。
しかし、それは次の瞬間、儚く消えることになる。
「だが、ダメだ」
「――――ッ!どうし…………」
どうして、とは言わなかった。
理由は先ほど明らかにしたばかりだ。
「そもそも、前提としてひとつ問題がある」
「……どういうこと?」
「俺が所属するパーティ……『黎明』というんだが、2日前に遠征から戻ったばかりだ。当面は休養期間でメンバーは自由行動中。すぐには捕まらない」
「そん、な……」
希望が絶たれたとばかりに、瞳に浮かぶのは絶望と涙。
エルザは全身から力が抜けたように、ガタリと音を立てて椅子に体をもたれかけた。
「………………」
本来なら受けるべきではない依頼だ。
わかりきっている。
それでも――――
「条件によっては、受けてもいい」
「ッ!本当に!?」
「ああ、本当だ」
「教えて、アレン!どうすればいいの!?」
縋るように、エルザは尋ねる。
「まずひとつ。依頼を受けるのは『黎明』ではなく、俺個人だ」
「アレン一人で黒鬼に勝てるなら、問題にならないわ」
「それなら構わない」
「ありがとう、アレン!」
感極まって抱き着こうとするエルザを手で制する。
「もうひとつ、依頼料が足りない」
「ッ!でも、それは……これが限界なの。うちの村は食べて行くのがやっとで……。足りないと言われればそうなのかもしれないけど、どうにもならないわ……」
エルザは、そう言うと顔を伏せた。
「別に、すぐにとは言わない。大銀貨で8枚、払うと約束するなら、残り4枚は後払いで受けてもいい」
昔馴染みの少女に突きつける条件と聞けば、冷たいと思われるかもしれない。
しかし、これは通常ならあり得ないほどの譲歩なのだ。
依頼主が依頼料を払い渋る事を防ぐために、冒険者は冒険者ギルドを通して依頼を受ける。
後払いなんて、よほどの信用がないと認められない。
大銀貨8枚すら捻出できない村に対して後払いを提示するなんて、世間知らずもいいところだ。
踏み倒されたとき、後ろ指差されるのはきっと俺の方だろう。
「その約束は私にはできないわ。不確かな約束を、アレンとすることはできない」
「そうか。残念だ」
ここまで譲歩しても受け入れられないと言うのなら、この依頼は受けることはできない。
俺にも、この都市のC級冒険者として、依頼価格の相場を守る責任があるからだ。
懐に余裕があるからといって俺が安価で依頼を受ければ、俺よりランクの低い連中はより低い価格で依頼を受けなければならなくなるし、かといってエルザだけを特別扱いすれば、俺に対して理不尽な反感を持つ者も出てくるだろう。
多くの冒険者がそれを理解しているから、依頼者との値段交渉を冒険者ギルドに任せるのだ。
「………………」
俺は項垂れる少女を見つめながら、少し寂しく思った。
俺は、もしエルザが――――
「でも……私にもできることがあるわ」
おもむろに、エルザが顔を上げた。
その顔に絶望の影はない。
その顔は、村に救援を招くと言う重大な任務に失敗した者の顔ではなかった。
彼女の表情に見られるのは、安堵と少しの期待。
まるで上手く交渉がまとまったことを喜んでいるような、そんな場違いな表情を浮かべていた。
「……どういうことだ?」
「もう、とぼけなくていいのに」
そう言うと彼女は椅子から立ち上がり、困惑する俺のもとにゆっくりと歩み寄った。
そして、自分が着ているローブの帯の端を摘まみ、ゆっくりと引き抜く。
俺との交渉で感じていた重圧か、それとも酒のせいか。
ローブの隙間から、少し汗ばんだ肌と俺が買い与えた下着がのぞいた。
彼女は下着の下半分しか付けていなかった。
むずかるように体を揺らすとバスローブがはだけ、彼女が持つ形の良いふたつの膨らみがまろびでる。
「お前――――」
「アレン、私は知ってるわ」
俺の言葉に被せるように、エルザは言う。
不安、絶望、緊張。
彼女の表情には、そのどれもが存在しなかった。
「この宿のこと。ここ……連れ込み宿なんでしょ?」
「……ッ!」
「あはっ、驚いた?昨日の夜に声をかけた冒険者の一人がね、一晩付き合うなら受けてやるって……。そのときに、この宿のことを教えてくれたの」
「…………ああ」
そうか。
そういうことか。
「流石に初対面の相手に先払いは無理だから、もちろん断ったわ。でもね、アレン……」
彼女は肩に引っかかっていたローブを床に落として、妖艶に笑った。
「アレンなら、いいわ」
俺はようやく悟った。
「アレンもそのつもりだったんでしょ?別に、隠さなくていいのに」
彼女は最初からそうするつもりだったのだ。
用意した金額では俺が依頼を受けないと予想して、それでも俺に依頼を受けさせるために、自分の体を勘定に入れた上で俺との交渉に臨んでいたのだ。
それに気づいてしまうと、もう彼女の顔を見ることはできなかった。
「娼婦の値段、知ってるか?一晩で大銀貨4枚の娼婦なんて、俺は見たことないぞ?」
何を言っているのか。
我ながらどうなんだと思うような言葉が勝手に口からこぼれ出た。
そもそも、俺は娼婦の値段なんて詳しく知らない。
大銀貨4枚の娼婦がいるかどうかなんてわからないし――――そんなことは、どうでもよかった。
しかし、そんな傷つけるような言葉すら、彼女は意に介さなかった。
「田舎者だって、流石にそれくらいは知ってるわ。安心して、アレン。あなたが妖魔を討伐するまで、あなたが村に居てくれるのなら――――」
彼女は俺の背後に回ると、抱き着くようにしな垂れかかる。
そして耳元に唇を寄せ、甘く囁いた。
「何度だって、気が済むまで、アレンの好きにしていいわ」
「………………」
本当は気づいていた。
俺が望んでいた関係性は、もうどこにも残っていないのだということも。
依頼なんか関係なく私を助けてなんて、言ってもらえる関係ではないのだということも。
「ねえ、アレン……少し寒いわ」
彼女が俺に向ける微笑みは、もうあの頃とは違っていた。
俺の記憶の中にいる昔馴染みの少女は、こんな媚びるような笑みを浮かべてはいなかった。
「ああ、悪いな……。ベッドに、入ろうか……」
俺はボトルに残っていたワインを勢いよく口の中に流し込んだ。
喉が、頭が熱くなり、体の中が熱を放つ。
口元を手で拭い、勢いのまま彼女の手を引く。
少し強引にベッドに寝かせると、濡れて糸を引いた下着を剥ぎ取って無造作に放り投げた。
「アレン、できれば優しく――――」
何かを言いかけた口を塞いだ。
ワインの味がする唇をあまがみして、唾液で彼女の口元を汚す。
一度体を起こして、ベッドに体を横たえる女を見下ろした。
そこには妖艶な娼婦がいた。
昔馴染みの少女はいない。
受付嬢もいない。
家族なんて、いるはずもなかった。
「はは……」
やけっぱちに笑いながら柔らかそうな胸に手を伸ばしたとき――――自分の手に赤い汚れが付着していることに気がついた。
胸に手が触れる寸前、思わず手が止まる。
いつかの光景が重なった。
村を追放されたあの日。
血に染まった自分の手がロビーで眠っていた少女を汚してしまうことがないように、俺は手を触れることを躊躇した。
今、俺の手についている汚れは、先ほど口元を拭ったときに付いたワインの雫だ。
きっと目の前の女はワインの汚れなど気にしない。
俺が躊躇する理由は、もうどこにもなかった。
「……楽しませてくれよ。エルザ」
俺の左手が無遠慮に胸を揉みしだくと、エルザは小さく声を漏らした。
服を脱ぎ捨て、エルザの華奢な肢体に圧し掛かる。
長い夜は、まだ終わらない。
◇ ◇ ◇
翌朝。
寝坊が板についてきた俺にしては珍しく、明け方に目が覚めた。
隣では昨夜の行為に疲れきったエルザが静かな寝息を立てている。
彼女が目を覚まさないようにゆっくりと体を起こし、俺は裸のまま浴室に向かった。
目を覚ますために水のままのシャワーを浴びながら、頭の中でこの後のスケジュールを組み立てる。
(準備もあるし、一旦屋敷に戻るのは確定……。次発の馬車の時間を確認して、丁度いい時間にギルドで待ち合わせて……)
タオルで体から水滴を拭って戻ってくると、着る服がないことに気が付いた。
思わず舌打ちし、床に脱ぎ捨てていた自分の服を手に取る。
昨日着ていた服をそのまま着るのは不快だが、他に着るものがなければ仕方がない。
屋敷に戻ったら、もう一度風呂に入ればいい。
「ん…………」
書置きを残していると、ベッドの方から声が聞こえた。
エルザが起きたのかと思ったが、寝返りを打っただけのようだ。
薄い毛布がめくれて、隙間からエルザの肢体がのぞく。
「…………?」
気まぐれに毛布を直してやろうとそれを掴んだとき、シーツの汚れが目に留まった。
赤黒い染み。
昨日エルザに覆い被さったときには、なかったはずだ。
「……初めてだったのか」
俺の心が騒めく。
昨日のエルザの態度から慣れているものだとばかり思っていた。
思い出してみればやりにくかったし、かなり痛そうにしていたような気もする。
彼女が痛がるのも、彼女を抱くときに感じた違和感も、十分な準備をせずに乱暴に抱いたせいだと思っていた。
これから抱く女が初めてかもしれないなんて、考えもしなかった。
しかし、俺の心に波を立てるのはエルザが初めてだったことそれ自体ではない。
「それすら、捨てられるのか……?」
男と違って、女は初めてを大事にする。
もちろん人によるのだろうが、本職の娼婦でもないエルザが村のためにそれを捨てるということは、彼女にとって何でもないことなのだろうか。
「………………」
村のためなら何でも犠牲にする。
そんな彼女の姿勢に、彼女の父であり俺を追放したエドウィンの面影を幻視する。
俺は毛布をエルザに掛けなおし、テーブルの上に書置きを乗せると、俺は一人で部屋をあとにした。
屋敷に戻って風呂に入り直しても、胸の中に生まれた淀みが消えることはなかった。
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