第171話 過去語り2
「ぐすっ……う、うええええ、ひっ、ぐっ、うううう!!アレンざあん!!」
「おー、よしよし、ティアは優しいなあ……」
過去語りが閉幕した後もティアが泣き止むことはなく、結局打ち上げという雰囲気にはならなかった。
もともと涙腺が緩んでいたからか、俺が奴隷商や孤児の仲間を埋めて天涯孤独の身になった辺りから涙が止まらなくなり、俺が見捨てられて孤独に魔獣と戦うところまで行くと感極まって抱き着いてきた。
今は俺の膝に腰掛け、俺の首元にしがみ付いて泣きじゃくっている。
「………………」
俺にとっては意外なことに、ネルの目にも涙が浮かんでいた。
泣いていることを俺に気づかれたくないのか。
涙が流れるのを必死に我慢しているようだが、ネルが皿の上のお菓子に手を付けずに明後日の方向を凝視しているのだから、もう平常心から程遠い状態であることは疑いようもない。
そして――――
「………………」
俺にとってはさらに意外なことに、涙脆いクリスが泣いていなかった。
泣いていないことを以て、クリスが薄情だなどと言う気はない。
涙を流していないだけで、その表情は見たことがないほど酷い状態だったからだ。
遠征中、ベッドの上で正座してはらはらと泣いていたときすら、ここまで酷い顔をしてはいなかった。
パーティ崩壊の危機を心配して青くなっていた顔色は、俺の話が始まって間もなく青を通り越して真っ白になり、それからずっと何かに耐えるように奥歯を噛みしめている。
何か致命的な過ちを後悔する罪人のような表情。
この世の終わりを告げられたかのような動揺と絶望。
そんな顔をされると、俺よりもクリスの方が心配になってしまう。
「おい、クリス、大丈夫か?顔が酷いことになってるぞ?」
「――――ッ!!?」
ハッ、と我に返ったようにクリスがこちらを見る。
その瞳から、ようやくと涙がこぼれ始めた。
「今頃かよ。ずいぶんと鈍い涙腺してるなあ……」
「いや、……ぐすっ……。ははっ、ちょっと席を外すよ」
「おう。案内はいるか?」
「大丈夫」
ネルに泣き顔を見られたくないのか、顔を隠しながら席を外すクリスを見送ると、不意にティアの腕に込められた力が強まり、俺の首が締まった。
「ちょっ、ティア?」
「私は絶対にアレンさんを裏切りません!!」
「おう、ありがとな。あと、ちょっとだけ緩めてくれ、苦しい」
「嫌です!絶対に放しません!!」
「いや、締まってるから!」
駄々っ子のように暴れるティアを何とか引きはがして正面のソファーに戻すと、今度はネルがティアの餌食になった。
ネルはネルで何も言わずにティアの抱きつきを許しているから、もしかしたらこの二人の間ではよくあることなのかもしれない。
そんなことを思っていると、クウ、と小さく腹が鳴った。
(腹減ったな……)
危機を脱したから、急に空腹を自覚してしまった。
普段夕食をとる時間はとっくに過ぎているから、当然と言えば当然のこと。
もう外は完全に真っ暗だ。
「フロル、夕飯ってまだ出せるか?」
すでに打ち上げという雰囲気ではないが、夕食は食べたい。
フロルは頷くと、向かいのソファーで縺れている二人に視線を送る。
「なあ、お前らは食べるか?」
「食べる」
食べ物の話には即座に反応するネル。
こちらはティアと違って、精神状態が回復したようだ。
「ティアは?」
「えと、私は…………あっ!」
「なんだ、どうした?」
ネルの腹に埋めていた顔を上げたティアが、途中で固まった。
何事かと思って様子を見ていると、ティアは何かを迷った後、意を決したように口を開いた。
「あの、結局フィーネさんがアレンさんの屋敷でお風呂に入っていたのは、どうしてなんですか?」
「ああ、その話がまだだったか」
「…………」
ティアが不安そうに俺の答えを待っている。
そんな彼女を見て、俺は口の端を上げた。
先ほどまではきっと信じてもらえなかったであろう事実を、今なら絶対に信じてもらえると確信したからだ。
「泣き腫らした顔のままじゃ、仕事に戻れなかったからだ。フィーネも、さっきは今のティアと同じような顔をしてたからな」
「え……?――――ッ!!!?」
「うぐっ!!?」
俺の言葉を理解し、自分が散々に泣いた後だと思い出したティアは、顔を隠すためにネルの腹に飛び込んだ。
突然腹に頭突きをくらったネルが、短いうめき声を上げる。
ティアは恥ずかしそうに顔を手で覆い隠しながら、ぼそりと呟いた。
「あの……。私も、お風呂を借りたいのですが……」
「う……。ティアが入るなら、あたしも……」
「おう、堪能してくれ。夕飯は用意しておくから、あんまり長湯はするなよ。フロル、2人の案内と、終わったら4人分の食事を頼む」
フロルに案内され、ティアとネルは奥の廊下へと消えていく。
先ほどまでは喧騒に包まれていたリビングに、ようやく静けさが戻ってきた。
「はー……。さて、夕飯が来るまで酒でも……」
ティアが広げた包みの中にあったポテトの包み焼きのような料理をつまみ、クリスが持ってきた酒を勝手に開けて手酌で飲んでいると、しばらくしてクリスが戻って来た。
「ただいま」
「お帰り。ティアとネルは風呂に行ったぞ。2人が戻ってくる頃に夕食が出る予定だ」
頷いて席に戻るクリスに、ワインを注いでやる。
「済まなかったね、アレン。まさか、フィーネちゃんを家に連れ込んでるなんて思わなかったんだよ」
「なんだ、嫌味か?」
「ようやく結成したパーティがわずか1月で崩壊するかと思ったんだ。これくらいは言わせてほしいね」
「心配かけて悪かったな」
くつくつと笑いながら、グラスを打ち鳴らす。
口の中に、果実酒の甘味が染みた。
俺と同じようにクリスも腹が減っていたのだろう。
お互い無言で、買ってきたものを適当につまんでいた。
「アレン」
「うん?」
ふと、クリスの手が止まった。
視線だけをクリスに向けると、クリスはグラスまでテーブルに置き、真剣な表情でこちらを見つめていた。
「…………なんだ?」
何かを迷うような表情に、苦渋が滲んでいた。
俺もグラスを置き、ソファーの袖を背もたれ代わりにしてクリスに向き直る。
何か伝えたいことがあるのだろうと根気よく待つことしばし、クリスがやっとのことで口を開いた。
「…………なんでもない」
「なんだそりゃ……」
真面目に相手をするのがバカらしくなって、グラスを手に取りぐっと呷った。
果実酒の瓶に手を伸ばしたクリスに、空になったグラスを差し出す。
再び酒が満たされたグラスを口元に寄せ、今度は大事にちびちびと舐めるように味わった。
今注いだ分で、瓶が空になってしまったからだ。
「変なこと言ってすまなかった。ただ……」
「なんだ?」
今度はテーブルにグラスを置いたりはしない。
フォークを右手に、グラスを左手に。
ネルが食べかけて残していったケーキを反対側から削りながら、クリスの言葉に耳を傾けた。
「僕は絶対に裏切らない。剣に、自分の名前に、ネルちゃんにだって誓うとも。冒険の中で死ぬときは、キミより先に死んでみせる」
「何を言うかと思えば、縁起でもない……」
思ったより何倍も重い話を聞かされた。
そんなことを言われても、困惑しかない。
「僕は本気だよ。アレンが危機に陥ったなら、キミを助けるために死地にだって飛び込むさ。それに、アレンだって僕らが危機に陥ったなら、きっとそうするよ。キミはそういう人間だ」
「それは、そうかもしれないな……」
俺はきっと仲間を見捨てることができない。
誰かを助けるために誰かを見捨てる判断をすることはあるかもしれないが、安全地帯にいるのが自分一人なら、仲間を助けることを躊躇する理由がない。
結果的に、クリスの言ったとおりになるだろう。
しかし――――
「いい機会だ。ひとつ、約束をしようか」
「どうしたんだい?改まって」
俺は再びグラスを置き、クリスに向き直った。
これからするのは真剣な話だ。
それがクリスに伝わるように、努めて真剣な表情を作った。
「俺がピンチのときは、必ず助けてくれ」
「何を言ってるんだい?そんなの当然のことじゃないか。ついさっき、死地にだって飛び込むと誓ったばかりだろう?」
「待て、まだ続きがある」
心底困惑した様子のクリスを手で制す。
本当に大事なのは、ここからだ。
「俺がピンチのときは、必ず助けてくれ。ただし、お前たちが死地に飛び込んでも俺を助けられる見込みがないなら……絶対に、俺を見捨ててくれ」
シン、と静まり返ったリビング。
俺のグラスの中で、氷がカラリと音を立てた。
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