第157話 初めての遠征6




 女商人の荷馬車まで戻った俺が目にしたのは、冒険者に偽装していた盗賊とクリスとの戦闘だった。


 いや、正直な感想を言えば、もうそれは戦闘と呼べるものではなかった。


「ほら、拾わないの?」

「はあっ……はあっ……くそっ……くそがあっ!」


 足元に落ちた剣を拾い、クリスに斬りかかる盗賊の男。

 しかし、投げやりな動きでクリスを捉えることなどできるはずもない。

 クリスはひらりと身をかわすと、すれ違いざまに盗賊の腕を浅く切り裂いた。


「ぎいっ……!!」


 再び剣を取り落として傷口を抑える男の背中を蹴りつけ、地面に転がすと、クリスは再び盗賊に剣を拾えと命じる。


 遠目に見ていた時からずっとこの調子だ。

 ネルを犯すと言われたことがよほど頭にきたと見える。


「ずいぶんと楽しそうだな、クリス」


 呆れながら声をかけると、クリスはようやく俺に気づいたようだった。


「ああ、ごめん。そっちは終わってたんだね。僕も飽きてきたし、そろそろ終わりにしようかな」

「ひいっ……!?」


 腰を抜かしたまま後ずさる盗賊は全身血だらけ、装備はボロボロで見るに堪えない。

 俺たちが見逃しても街まで自力でたどり着けるか怪しいくらいだ。

 殺す犯すの言いざまに腹が立ったのは俺もクリスと同じだが、ここまで甚振られた姿を見せられると多少の憐れみを感じてしまう。


「まあ待て。こいつにはやってもらうことがある」

「どういうことだい?まさかこいつを見逃すつもりじゃないだろうね?」


 剣を振り上げたクリスを止めると、当の本人は剣呑な目つきでこちらを振り返った。


「頼む、助けてくれ!何でもする!!」


 クリスよりは話が通じるとでも思ったのだろうか。

 満身創痍の盗賊は俺に向かって必死に助命を乞う。


 そんな盗賊に対して俺は鷹揚に頷くと、荷物から取り出した大きめの皮袋を投げつけた。

 

「盗賊共の死体から首だけ回収してこい。街まで運んでもらう。それができたら生きたまま街の衛兵に引き渡してやろう。クリスはこいつの見張りと、売れそうな武器があれば回収を。ああ、そいつがおかしな真似をしたら好きにしろ」

「まあ、そういうことなら仕方ないね」

「………………」


 希望を失った盗賊の生き残りはクリスに追い立てられ、とぼとぼと死体の方に歩き出した。

 羊飼いと羊を幻視する光景だ。


 もっとも、それらが醸し出す牧歌的な雰囲気は微塵も感じられなかったが。


「アレンさん、お疲れ様でした」


 益体もないことを考えていたところに声をかけられ、荷馬車の方を振り返る。

 ティアが女商人を連れ、荷馬車の裏から出てきたところだった。


「ティアもお疲れ。ネルはどこ行った?それとそちらの方にケガは?」

「ネルは商人さんたちを呼びに行きました。この人は、ケガはないみたいですけど、その……最初に少し衝撃的なことがあったので。今は落ち着きました」

「衝撃…………ああ」


 女商人の近くにいた盗賊が、喉から血飛沫を上げて絶命したことを思い出す。

 切った張ったに慣れていない人間にとっては、たしかに刺激が強い出来事だった。


「それは申し訳なかった。俺は冒険者パーティ『黎明』を率いるアレンという。襲われているところを見かけたので加勢した」

「あ、その……あ、ありが、ありがとうございました……!」


 何度も噛みながらも礼を言い勢いよく頭を下げる商人の女性は、頭を上げてからも俺と視線を合わせることなく、あちこちに視線が泳いでいる。

 挙動不審という言葉がピッタリな仕草に首を傾げていると、ティアがおずおずと声を上げた。


「アレンさん、その……」

「なんだ?言いたいことがあるなら遠慮しないでくれ」


 俺は何かを言い淀むティアに続きを促した。

 すると彼女は、申し訳なさそうにしながら俺の疑念を解消してくれた。


「ワイルドなアレンさんも素敵なのですが、戦いを生業にしない女性には少し刺激が強い恰好かな、と……。私も、今のアレンさんに抱き着くのは少し躊躇ってしまいます……」


 そう言われ、俺は自分の姿を見下ろしてみる。

 といっても俺の恰好はそこまで奇抜なものではない。


 魔獣の皮を素材とした黒のブーツの上に膝から足先までを覆う鈍色のグリーブ。

 同じく魔獣の皮のボトムスに茶褐色のベルト。

 腰にはベルトと同色のポーチ。

 濃紺のインナーの上に長袖の白シャツを着込み、その上には真新しい鉄製の胸当て。

 両手の薄い茶色のグローブの上に着けたガントレットは、グリーブと同じ鈍色。

 最後に、右手には淡く青みがかった銀色の剣身を持つ長剣。


「あー……」


 全部、返り血で真っ赤だった。


 特に白のシャツが悲惨だ。

 普段は返り血が目立たない色のシャツを着ているのに、今回は護衛依頼ということで少し見栄えを重視したのが完全に裏目に出た。


 一度気づくと、粘つく返り血がとても不快で臭いも気になる。

 これは自分ごと丸洗いしないとダメかもしれない。


「ちょっと、川で水浴びしてくる……」

「あ、それならアレンさんが今着ている服は私が洗っておきますよ?」

「いや、そこまでさせるのは――――」

「返り血は一度こびり付いたら落ちません!そのシャツは特にです!」

「よりによって白だもんな……。頼んでいいか?」

「もちろんです!先に川に行っててください。私はアレンさんの着替えを持っていきますから」


 言うや否や、クリスのポーチの中に収納されている俺の着替えを取りに走り出す。

 何から何まで申し訳ないと思いながら、一刻も早く川に飛び込みたい気持ちを優先してティアを見送ると、俺自身は川へと足を向けた。


 この辺りは川と街道の高低差が小さく、緩やかで短い坂を下るとすぐ目の前が川になっている。

 どこかから流れ着いた腐った流木がひとつある以外は特徴のない普通の川辺で、腰掛けるのに丁度良い岩を見つけることもできなかった。


 俺は仕方なく、川辺から数歩のところで立ったまま服を脱ぎ始めた。


「さてと……」


 ガントレット、胸当て、グリーブの順に装備を外す。

 これらは丸ごと水洗いでいいから楽だ。


「う……」


 金属製の装備を外すときに、グローブに血がべっとり付いてしまった。


(面倒だし、水洗いでいいか……)


 手にはめたまま、川で手を洗うようにして血糊を落とすと、グローブの汚れはあっさり落ちてくれた。

 これ以上汚してしまわないように、両手とも外して川辺に並べておく。


 次にブーツを脱ぐ。

 これにも若干だが、土や返り血の汚れがある。

 目立たない程度だから、後回しだ。


「うーん、次は……」


 俺は逡巡の末、胸当ての部分だけ白いシャツに手をかけた。

 上の方はともかく、鳩尾から下に付いているボタンは全て血に濡れているから、手を汚さずにシャツを脱ぐことは困難を極める――――というか無理だ。


 ベトベトする嫌な感触に負けずにボタンを外してシャツを投げ捨てる。

 案の定、インナーにも汚れが浸透していたのでこれも脱いで放り投げる。

 脱ぐときに少し顔に血糊が付いてしまい、思わず顔を顰めた。


 一刻も早く顔を洗いたい心を抑え、素早く手を洗って血糊を落としてからポーチとベルトを外し、ボトムスを脱ぎ捨てた。


「これは、このままでいいか……」


 勢いで最後に残った一枚も脱ぎ捨ててしまいたいが、そう時間を置かずにティアが来るはずだ。

 丸裸では流石に気まずいので、下着はそのままで川に入ることにした。


 ゆっくり水温を確かめながら足先から川に浸けていく。

 川辺からジャンプして川に飛びこんでも良かったが、川辺の近くは飛び込めるほどの水深がないことも多い。

 無駄に怪我をしてネルに笑われるのも癪だ。


「おお、気持ちいい……」


 戦闘で火照った体にあたる流水が心地よい。

 足踏みして水の感触を楽しみつつ、水深が腰の高さになるまで川の奥に進み、顔を洗った。

 適当に体に水をかけて慣らしてから、とぷんと音を立てて川に沈むと少しの間浮遊感を楽しむ。


「ぷはっ……」


 立ち上がり、水が滴る髪をかき上げる。

 体を動かしながら全身を確認していくと、水中に沈んでいる間に軽く汚れをこすって洗い流したこともあって、目立った汚れは残っていなかった。

 

(こんなもんかな……)


 そろそろティアが着替えを持って戻って来る頃だろう。

 汚れものを洗ってくれると言ってくれたが、全部をティアにさせるのは忍びない。

 金属製の装備くらいは自分でやっておくべきだろう。


 そう思い、川辺に戻ろうとしたそのときだった。


「何してるんですかっ!!」


 聞き覚えのある声が川辺から聞こえた。

 振り向けば荷物を抱えたティアと女商人が何やら言い争っている。


「なんだ……?」


 せっかくの気分に水を差されたようで残念だが、放っておくわけにもいかない。

 俺は急いで二人の方に駆け寄った。


「違います!誤解です!」

「なら、どうして隠れていたんですか!」

「そ、それは……」

「やましいことがないなら言えるはずです!」


 近づくと、そんな会話が聞こえてくる。

 ティアが声を張り上げて女商人を問い詰めていた。


 自惚れかもしれないが、彼女が怒っているときは俺のことが絡んでいる場合が多いように思う。

 しかし、今日に限っては女商人に何かされた記憶もない。

 先ほどの怯えたような態度も、血だらけの人間に対するものと考えれば標準的なもので、度を超えて失礼と言えるものではなかった。

 先ほどの様子からティアと女商人の仲が険悪とも思えなかったので、何が何やらさっぱりだ。


 不思議に思いながらも足を進め、俺は2人の近くまでたどり着いた。

 身体が川の流れに逆らう音が2人の耳にも届き、両者ともはっとしたようにこちらを振り向く。


「おい、一体どうした?」

「あ、アレンさん…………」

「………………」

 

 二人が急に静かになった。

 ティアは気まずそうな恥ずかしそうな微妙な表情をみせ、女商人は先ほどと比べればいくらか落ち着いたようだが依然として視線が泳いでいる。


 しばらく待つ。

 しかし、どちらも俺の問いに答えようとはしなかった。

 誰も口を開かぬまま、3人の間にはただ沈黙が流れる。

 焦れた俺は水滴が滴る髪をかき上げつつ、もう一度はっきりと質問を言葉にした。


「二人がどうして言い争っていたのか聞かせてくれ。一体何があった?」

 

 誤解の余地がないように、明確な問いを投げかける。

 これでダメならどうしようかと思うところだが、幸いにもティアが再起動を果たし、これまで沈黙していた時間を取り戻そうとするかのように一気に捲し立てた。


「そうでした!アレンさん、聞いてください!アリーナさんが酷いんです!」

「……アリーナさん?」


 荷物を抱きかかえたティアの訴えの中にある聞き覚えのない名前。

 心当たりはひとつしかなく、俺は隣の女性に視線を向けた。


 視線の先に居る彼女は俺の視線を受けると、こちらも思い出したように姿勢を正した。


「あ、申し遅れました。私、近くの街で細工師をしています、アリーナ・グレスラーといいます。この度は助けていただきありがとうございました。皆さんがいなければ、今頃どうなっていたことか」


 彼女は深々と頭を下げた。

 頭を上げたとき、彼女が被っていた外套のフードがパサリと落ちる。

 フードからこぼれた髪の色は深紅で、俺は思わず息を飲んだ。


 顔を上げた彼女をまじまじと観察する。

 歳の頃は、おそらく俺たちよりやや上。

 瞳の色は緑色。

 一般的な女性と比較してやや背の低いティアよりも、さらに少しだけ低い背丈に背丈相応の2つの膨らみ。

 そして、顔の造形は優しい印象。


 俺の記憶の中の少女と比較しても、深紅の髪の色以外に似ているところを見つけるのは難しかった。

 

「あの……?」


 じろじろと観察されて不安になったのだろう。

 困ったように声を上げた彼女に、俺は慌てて謝罪する羽目になった。


「ああ、すまない。昔、赤い髪の知り合いがいたから、つい……。ほら、この辺りだと珍しい髪色だろ?もしかしたら、と思ったんだ」

「ああ、そういうことでしたか」


 彼女は安心したように胸をなでおろした。

 どうやら許されたようだ。


「改めて、アレンだ。C級冒険者パーティ『黎明』のリーダーを務めている。よろしく頼む」


 俺は手を差し出し、アリーナに握手を求めた。

 第一印象がアレだったし今の件もあるから、可能な限り丁寧な対応を心掛ける。

 

 幸い、彼女も笑顔でこれに応えてくれた。

 これで悪いイメージはある程度払拭できたと思いたい。

 

「それで?アリーナさんが何だって?」


 自己紹介を済ませた俺は、ティアに視線を戻して続きを催促した。

 彼女をのけ者にしてアリーナと会話していたからか、彼女はやや不機嫌そうだ。


「アリーナさんが、覗きをしていたんです!」

「え、覗き?」


 反射的にアリーナの方に顔を向けると、今度はアリーナが慌てて弁解を始めた。


「違います!誤解です!」

「嘘です!」

「嘘じゃありません!!信じてください!!弓使いさんは走ってどこかへ行っちゃいましたし、銀髪の剣士さんは盗賊を連れていなくなっちゃいましたし、こちらのティアナさんは剣士さんを追って行っちゃいますし、アレンさんは川に行っちゃいますし……!私、荷馬車と一緒に盗賊の死体に囲まれて怖くて!!一番近くにいるアレンさんの方に行ったらアレンさんが服を脱ぎ始めて、見ちゃいけないと思ったんですけど一人になるのが怖くてどうしようもなくて!!」

「お、おう……」


 心底慌てた様子のアリーナは両手を胸の前で握りしめ、祈るような仕草をしながら涙目でまくし立てた。

 その必死さは、先ほど命乞いをしていた盗賊の生き残りに勝るとも劣らない。


「それで、何を覗いてたんだ?」

「えっ?」


 アリーナが顔を赤くして固まった。

 しかし、アリーナが黙ると、今度はティアが堰を切ったように言い募る。


「アレンさんの水浴びを覗いてたんです!私が来たときはそこの流木の影に隠れて、顔だけ出してアレンさんをじっと見つめてました!アレンさんが下着姿で川に入って顔を洗って水中に潜って立ち上がって髪をかき上げるところまで、ずっとですよ!?アリーナさんはずっと、アレンさんの体を見てたんです!!」

「そ、それは……。確かに、やっぱり冒険者をやるような人は逞しい体つきなんだって、思ったりはしましたけど――――」

「やっぱりそうじゃないですか!!」

「だから違うんです!!決してやましい気持ちはなかったんです!」

「嘘です!!」

「本当です!信じてくださいよお!!」

「わかった、ストップ」


 堂々巡りが続きそうなので、二人の顔の前に両手を差し出して口を閉じさせた。

 ティアは不満そうに、アリーナは不安そうに、それぞれ俺の方を見つめている。


 そんな二人の様子に俺はため息を吐くと、どちらの顔も立てるためにどうすればいいか考えた。

 

「アリーナさんを一人にしたのは配慮が足りなかったな。すまなかった」

「い、いえ、そんな滅相もないです」

「ティアも荷物ありがとうな。タオルもらうぞ」

「あ、はい。どうぞ」


 それぞれ声をかけたが二人の表情は変わらない。

 仕方なく、俺は着替えの時間もどうすればいいか考え続けることになる。


 ティアの抱えている荷物からタオルを取り上げ、わしゃわしゃと髪を拭く。

 ほとんど水滴が落ちている体をさっと拭い、下着を脱ぎ捨てて替えの下着にはき替える。

 そのまま、さっき脱いだ順番を遡るようにボトムス、インナー、シャツを着込んでいくと、そう時間もかからず着替えが終わってしまった。

 

 いまだ考えがまとまらず、二人の反応を窺う。


「…………」

「…………」


 二人とも顔を真っ赤にして地面を見つめていた。

 そんな両者の反応を見てようやくやらかしたことに気づいても、もう手遅れだ。


「…………に、荷馬車のところに戻ろうか。ネルやクリスが帰って来てるかもしれない」

「はい……」

「ええ……」


 この後、この件についてティアとアリーナが言い争うことはなかった。


(結果良ければ……ということにしておこう)


 別に減るものでもない。

 俺は少しだけ火照った顔を見られぬよう、足早に荷馬車の方に戻っていった。


 服と装備を置き忘れたことに気づき再び川辺に戻ったのは、それから数分後のことだった。






 荷馬車の横で、仕事を終えて戻ったクリスが盗賊を見張りながら待っていた。

 俺と違って返り血を浴びない戦い方を身に着けているのか、クリスの服や装備は綺麗なものだ。


「待たせたな、クリス。水浴びはどうする?」

「いや、僕はいいよ。今日は宿に泊まれるんだろう?」

「それもそうか」


 初めての遠征も、もうすぐ終わりを迎える。

 そうなれば軽く打ち上げをして、宿のベッドでゆっくり休むことができるはずだ。

 宿のランクが高ければ浴場だって付いている――――というか、これだけ戦って風呂なしの宿を選んだりしたら流石に顰蹙を買ってしまう。

 財布の紐が緩すぎるのも問題だが、締め付けがきつ過ぎるのも考えものだ。

 ここは依頼の成功祝いも兼ねて、やや高めの宿をとる方がいいだろう。


「ところで、皆さんはどうしてここに?徒歩で旅行でもしていたのですか?」


 積み荷を確認していたアリーナが作業を続けながら会話に入ってくる。

 そういえば彼女にはエクトルたちのことを話していなかった。


「いや、俺たちは辺境都市を拠点にしててな。今回はここから西の方に行った次の街までの護衛依頼で商隊に同行していたんだ」

「商隊……ですか?」

「ああ、安全のために戦場から距離をとってもらってたんだ。アリーナさんを助けるように言ったのも、彼らがそれを望んだからだ。後で礼を言うといい」

「もちろんです。皆さんと同じく私の命の恩人ですからね。おかげさまで、積み荷も外装以外は無事なようですし……」


 積み荷の確認を終え、荷台から飛び降りたアリーナは俺の近くに寄ると安心したように微笑んだ。


「ところで、アレンさんたちの雇い主さんの名前は何とおっしゃるんですか?」

「ああ、それは――――」


 別に勿体ぶる話でもない。

 そう思った俺は、請われるままにその名前を告げようとした――――そのときだった。


「おまたせー!」


 ネルの大声に釣られ、その場にいる全員の顔が東へ向く。

 すると、先頭の馬車の荷台から手を振るネルの姿が目に入った。


「噂をすれば、ちょうど到着したみたいだな。あの後ろの馬車に乗っているのが――――」

「エクトル・リヴァロル」


 俺が告げようとした名前を、アリーナは先んじて呟いた。


「そういえば、知り合い――――」


 ――――だったか。


 そう続けようとした俺の口が言葉を発することはなかった。


 アリーナの視線の先にいるのは間違いなくエクトルだ。

 彼女の命の恩人であり、彼女が礼を言うべき相手。


 しかし――――


「――――ッ!!」

 

 ギリッ、と奥歯を噛みしめるような音が聞こえた。

 先ほどまでの優しげな眼差しは消え去り、視線の温度は見られた者が凍り付きそうなほどに冷たい。


「アリーナさん……?」


 隣から見下ろす俺がアリーナの瞳に見たもの。


 それは、紛れもなく憎悪だった。



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