第153話 初めての遠征2
焚火の下に全員を集めて決め事の再確認を済ませた後、俺はクリスとネルをテントへと追い立てた。
就寝するには早すぎる時間なので二人とも口々に不満を漏らしていたが、寝ていなくても決めた時間に叩き起こすと脅しつけると渋々ながらテントに引っ込んでいった。
一方、二人を見送った俺とティアは交代の時間まで周囲の見張りと焚火の番をすることになる。
見張りは当然必要として、焚火は魔獣が寄ってくるから消した方がいいという意見もあるが、焚火を消した方がいいのは魔獣を確認しても対処できないほど戦力に乏しいときだけだと俺は考えていた。
今は視界さえ確保できれば容易に魔獣を撃退できるだけの戦力がある。
魔獣の襲撃があったときに光源なしで戦うリスクに比べれば、魔獣が寄ってくるリスクは無視しても問題ないだろう。
また、暗闇の中でパチパチと燃え続ける焚火には見張りの精神を安定させる作用もあり、単純に寒さ対策にもなる。
暖かくなったとはいえ、未だ夜は冷えるのだ。
俺とティアは焚火の周囲に置かれた木製の長椅子に、焚火を挟んで向かい合うように座ることにした。
互いに背後を確認できる状態を保つことで、不意打ちを防ぐためだ。
しかし、今は俺の向かい側にティアの姿がない。
テントの中の様子を確認してくるよう俺がティアに頼んだからだ。
「二人ともぐっすり寝ていましたよ。不慣れな旅で疲れていたのかもしれませんね」
「そうか。ありがとう」
音を立てないようにテントから出てきたティアが小声で教えてくれた。
別にクリスがネルの寝こみを襲っていないか心配したわけではない。
何もせずに焚火を眺めているだけではどうしても眠気にやられてしまうから、時折何かと理由を付けて体を動かすことが必要なのだ。
「少し周囲を見てくるから、焚火を頼む」
「はい。いってらっしゃい、アレンさん」
ティアが戻ってくると、今度は俺が焚火の傍を離れた。
まず足を向けた先は街道方面。
川と街道が100メートル程度しか離れていないため、街道の上に立つまで1分かそこらだ。
今夜は月が薄い雲に覆われていて遠くまでを視認することはできないが、東を見ても西を見ても街道を行く者の姿は見当たらない。
エクトルが言うには都市から今回の目的地の街までを2日で踏破しようとする商隊はこの場所で野営することが多いらしいが、野営するくらいなら行程が1日延びても手前の街で休息をとる商人の方が圧倒的に多いという。
行程を一日短縮するメリットと野営を行うデメリットなら、普通は後者が大きくなる。
今回は仲間との合流の都合でどうしても先を急ぐ必要があった――――と苦笑まじりに話してくれた。
(街道は異常なし、と……)
次にテントをぐるりと迂回するように歩き、川の方へと向かう。
歩きながら周囲を見渡しても、やはり動く影は見当たらない。
地上を見ても何も変化がないので、先ほどから姿が見えそうでみえない月が気になって空を見上げた。
月が顔を出す瞬間を見たからといって何があるというわけでもないが、なんだか焦らされているような気分になって視線が夜空に吸い寄せられてしまう。
そんなことをしていたからか。
見張り役として不真面目な態度を咎めるがごとく、不意に地面がなくなるような感覚を与えられた。
「――――ッ!!……っと、と」
バランスを崩して2歩3歩と足を踏み出し、冷や汗をかく。
(ああ、坂になってるんだったか……)
テントの場所から30メートルほど歩くと、そこから先は川へ向かって傾斜になっている。
俺は平坦な地面と緩やかな坂の境目を踏み越えてしまったわけだ。
空を見上げると、薄くかかっていた雲の隙間から月が姿を現していた。
雲が晴れる瞬間を見逃したことを残念に思う一方で、しっかりしろと月に諭されているようでおかしく思える。
「はいはい、ちゃんと仕事はしてますよ」
そう月に向かって呟いて、俺は川を眺める。
小さく水音を立てて流れる川は、昼間と異なる顔を見せていた。
水上を航行する船はなく、真っ黒な水面は水中の様子を窺うことを許さない。
何もかも飲み込んでしまいそうな様子は不安を煽り、ときに恐怖すら感じさせる。
(実際、夜の川は危ないしな……)
さっきは水風呂なんて冗談を言ったが、夜の川は想像以上に危険が多い。
万が一、足を滑らせて水中に投げ出されでもすれば、待ち受けるのは真っ暗闇。
運が悪ければ上下の感覚すら失ってしまい、川魚の餌になるか海の藻屑になるかの選択権すら与えられない。
「そろそろ戻るか……」
結局、異常らしい異常は何も見つからなかった。
川が発する不安感に背中を押されるように、俺はティアの待つ野営地に戻る。
「おかえりなさい、アレンさん」
「ああ、ただいま」
野営地に戻ると、ティアが焚火に追加する薪を運んでくれていた。
焚火用の薪はエクトルたちが用意してくれており、十分な火勢が乾いた薪を燃料にして煌々と周囲を照らしている。
「何か変わったことでもありましたか?」
「いいや、代わり映えしない風景だったよ。強いて言えば月が顔を出したくらいかな」
「ああ、本当ですね。満月ではないですけど…………綺麗です」
ティアが空を見上げ、淡い光を放つ月に見惚れている。
一方の俺は、そんな彼女の姿に見惚れていた。
「…………」
月明かりを浴びて微笑む彼女は、月に負けないくらいに綺麗で神秘的だ。
クリスならきっとこんなセリフを口に出しても様になるのだろうが、俺はそんな度胸など持ち合わせていない。
一瞬だけ迷った末、そっと胸の中にしまい込んだ。
「…………?どうかしましたか?」
「ああ、いや、何でもない。しかし、昼は暖かくても、夜になるとまだ少し肌寒いな」
見つめていたことを本人に気づかれて誤魔化すように話題を変える。
じっとしていると肌寒いと感じるのは本当のことで、しかし、焦りと照れから少しだけ体が熱を持った。
俺はティアから離れるように元々座っていた場所に戻り、風除けのために用意した厚手の布を羽織って腰を下ろす。
見回りに出る前に焚火にかけておいたスープ――晩飯の残りだ――がぐつぐつと煮立っていたので自分のコップに半分ほど注ぎ、次いでティアにも勧めた。
「ありがとうございます。いただきます」
ティアのコップを受け取り、同じく半分くらい注いで彼女に差し出した。
俺からコップを受け取った彼女は、定位置には戻らず俺の隣に腰を下ろす。
肩が触れそうな距離――――ではなく実際に肩が触れる距離。
背中まで伸ばした深い栗色の髪がふわりと揺れ、風が彼女の香りを運んでくる。
あまり記憶にない香りに違和感を覚えたのは、それが石鹸か何かに含まれた香料の匂いだからか。
そんなことを考えたところで、俺自身が今日の入浴をしていないことを思い出した。
(臭ってないか……?)
一度思い出すと、先ほどまでは気にもしなかった自分の臭いが急に気になってくる。
お湯を浸した布で体を拭いているから最低限の清潔感は保てているはずと思う一方で、それだけでは皮膚の汚れを完全に落とすことはできないことも知っている。
自分の体臭なんて自分の鼻ではわからないから、汚れをしっかりと落とせているかなど確かめようもない。
だからこそ、隣に座るティアの反応が気になってしまった俺は無意識に体を動かしていた。
もちろん、ティアの座る側とは反対側に。
そんな俺の行動がティアの目にどう映るかということに思い至ったのは、残念なことに俺の行動に対するティアの反応を目にしてからだった。
「………………」
実際に肩が触れる距離から肩が触れそうな距離に変わった二人の距離。
俺とティアの間に空けられたほんの僅かな隙間。
その隙間を見つめてティアが硬直していた。
「ごめんなさい。少し馴れ馴れしかったですよね……」
絞り出すようなか細い声に、俺はようやく自らの失敗を悟った。
隣に座ったティアから距離を取る。
俺としては無意識の行動で他意などない。
むしろティアに不快な思いをさせないようにという気遣いが含まれた行動だった。
しかし、それが自分を慕っている少女に対するものであれば、それは考えられる限り最悪の対応だ。
「あ、いや、違う!」
「いえ、いいんです!見張り中ですし、その……ごめんなさい……」
必死に取り繕おうと痛々しい笑顔を浮かべるティア。
その深い緑色の瞳には薄っすらと涙がにじんでいる。
「本当に違うんだ!これには理由が、あって……。あー……」
墓穴を掘った。
そう気づいたときには口から言葉が出て行った後だった。
俺の行動に理由があるのは事実だ。
事実なのだが、「お前が俺たちの分までお湯を使ったから俺は風呂に入りそびれた。そのせいで臭いが気になるから俺に近づかないでほしい。」などと言ってしまえば、今にも泣き出しそうなティアの心に致命傷を与えることは明らかだ。
どう聞いても嫌味にしか聞こえない。
しかも、自分の臭いが気になると自分から言い出すのは、よくよく考えればかなり恥ずかしい。
「理由、ですか……?」
「あー……えーと、それはだな……」
理由があると聞いたティアに少しだけ期待の色が戻る。
しかしそれは、俺が言い淀む時間とともに失望に変わっていった。
「やっぱり……。無理に言い繕わなくても――――」
悲しそうに俯くティアの横顔は俺が罪悪感で溺れるに足るものだった。
万策尽き果て、俺は恥を覚悟で内心を吐き出す羽目になる。
「こんな状況だからあんまり清潔とは言い難いし、自分の臭いが気になってな……」
「え?でも、クリスさんのおかげで普段と変わらず入浴できましたよね?」
「あー……。それが、だな……」
ここまできたら事実を告げずにいるのは不可能だ。
ならば、せめてオブラートに包んで伝えたい。
そう思って言葉を選ぶ最中、俺の視線は野営地の中を泳ぎ続ける。
そんな俺の様子は、機微に聡いティアが真実を察するには十分だったようだ。
「……本当にごめんなさい。ネルったら……必ず言い聞かせておきますから」
「…………頼む」
昼間とは別の感情で赤面するティアを、せめて見ないようにと川の方を見やる。
(結局、ティアにも恥をかかせてしまった……)
涙ぐむティアを放置するわけにもいかないから、俺があんな行動を取ってしまった時点でこの結末は避けられなかったのかもしれない。
「まあ、そういうわけだから――――」
俺がそう言いかけたとき、再び右肩に何かが触れた。
もちろん、この場で俺に触れることができるのは一人だけだ。
「大丈夫ですよ」
振り向くと、風除けの布の中に入り込み、俺の右腕を抱えるように抱きしめたティアの姿があった。
その顔は俺の右肩に押し付けるようにうずめられており、彼女の呼吸に合わせて体に当たる吐息の熱がくすぐったい。
「お、おい!ティア!?」
「嫌な臭いなんてしないです。私は好きですよ、アレンさんの匂い」
「ッ!?」
顔が熱くなるのを自覚した。
嫌な臭いと言われなかったことに安心したものの、これはこれで相当に恥ずかしい。
しかも、先ほどのことを考えると振り払うこともできず、深呼吸するようにゆっくりと息を吸って吐いてを繰り返すティアを見ていることしかできない。
俺は体を固くしてされるに任せていると、この状況を生む原因となった嗅ぎ慣れない香りが再び漂ってきた。
香りの発生源は、やはりティアの髪からだ。
「そういうティアは、なんだかいつもと違う香りがするな。これは石鹸の香りか?」
「今日はネルのものを使ったので、その香りかもしれません。この系統の香りが好きなんだそうです」
「ああ、だからか……」
先ほど覚えた違和感の正体がようやく判明した。
(隣にいるのはティアなのに、ネルの匂いがしたからだ……)
甘さが控えめで爽やかさが前面に出ている香り。
嫌いな匂いではないが、俺としては少し残念に思ってしまうのも事実だった。
「正直に個人的な好みを言えば、ティアがいつも使ってる香水の方が好きだな」
ティアの積極性もあってか、俺はすでにティアの香りに慣れている。
普段のティアから香るのは何とも表現できない甘い香りで、俺はその匂いを結構気に入っていた。
俺は酒やお菓子だけでなく匂いも甘いのが好きという根っからの甘党であるらしい。
しかし、そんな俺の感想に対するティアの反応は喜ぶでも引くでもなく、キョトンとしたものだった。
「え、香水ですか……?私は香水なんて使ってないですよ?」
「うん?ああ、なら石鹸の匂いか?」
「私が普段使っているボディソープやシャンプーに香りはないはずです。香り付きは高いですから」
ティアの話は俺にひとつの衝撃をもたらした。
香り付きのものは高いというのは、さもありなん。
俺が驚いているのはそんなことではない。
(シャンプー……実在したのか!!)
ボディソープに関しては高級石鹸で十分満足しているからそちらは置いておくとして、シャンプーは是非とも手に入れたい。
なにせ石鹸は髪に悪い。
今までは石鹸の泡を薄めて代用していたが、今は良くても継続的に使用していれば俺の髪にダメージが蓄積されてしまう。
そうなれば行きつく先は――――考えたくもない。
俺はこれ幸いと恥じらうティアに頼み込んでシャンプーやボディソープの情報を聞き出した。
どうやら西通りの雑貨屋の中でも一部の高級志向の店でしか販売していないらしい。
お値段は高級石鹸よりもさらに何ランクか上がるようだが、ここで金を惜しんではならない。
最低でもシャンプーだけは手に入れてみせると、心の中で俺は誓った。
依頼が終わって都市に戻ったら即刻西通りまで走る算段を立てると、シャンプーがもたらした興奮も一段落。
シャンプーやボディソープの話題が恥ずかしかったのか、俺に身を寄せたまま無言でいるティアをぼーっと眺めていると、ふと疑問が口をついた。
「香水でもシャンプーでもないなら、ティアの甘い香りは何の匂いなんだ?」
ティアは香水を使っておらず、愛用のシャンプーやボディソープも無香料だという。
ならば俺が嗅ぎ慣れていた甘い匂いは一体何なのか。
「……ッ!」
ティアが、身を小さくするように縮こまった。
熱を持ったように体の温度が上がり、俺の腕を抱く力も強くなる。
「…………?」
どうしたのかと思い、ティアの様子を窺うように顔を近づけたその直後、俺が良く知る香りが俺の鼻先を掠めた。
「お……?悪い、ちょっとそのまま」
「え?アレンさ――――ッ!?」
この匂いはどこから来るのかという単純な好奇心から、反射的に逃げようとするティアの右肩と左腕を掴んで抑え、彼女の艶やかな髪に顔をうずめた。
しかし、そこから漂ってくるのはさきほどまでの爽やかな香りだ。
正確には甘い香りもいくらか混じっているが、爽やかな香りの方が強いように思う。
俺は意識を匂いに集中するために目を閉じ、匂いの元を探るように少しずつ顔を動かしていく。
早く甘い香りが強い部分を見つけるまで、そう時間はかからなかった。
「ひゃう!」
ティアの悲鳴に目を開けた。
目の前にあるのは肌色。
俺はティアの首元に鼻先を突っ込んでいた。
「………………」
「………………」
ゆっくりと頭を上げて顔を離すと、冷静にティアの様子を眺める。
肩と腕を掴まれた少女の吐息は荒く、その体は小刻みに震えている。
肌は上気して赤みを帯び、恐るおそるというように薄っすらと開けられた目の端には涙の粒が浮かんでいた。
どう見ても、無理やり乱暴される寸前という様相だ。
「ッ!?わ、悪い!!」
遅すぎる謝罪とともにティアの体を拘束していた両手を放すと、彼女は両腕を抱くようにして顔を伏せた。
そんな彼女の様子を見て、俺は天を仰ぎ見る。
先ほどまで雲間から見えていた月は完全にその姿を隠していた。
もう見ていられない、と言われたような気がして肩を落としても後の祭りだ。
しかし――――
(甘い匂いの正体は、そういうことだったか……)
こうしている間も甘い匂いが俺の鼻先をくすぐっている。
一度意識してしまうと、平静に戻るのは中々難しかった。
しばらくの間、互いに無言の時間が流れた。
俺はティアが落ち着くまで――あるいは先ほどの変態行為に関して沙汰があるまで――黙っていようと思ったのだが、彼女も同様に沈黙を守り続けた。
10分か、1時間か、あるいはそれ以上に長い時間だったのか。
正確なところはわからないが、気づけば懐中時計の針は天辺を通り過ぎ、日付が変わっていた。
「甘い、ですか?」
「え?」
そろそろ考えを改めて先ほどの変態行為について土下座して詫びるべきかと真剣に悩み始めた頃。
ティアが掠れた声で呟いた。
「私の…………は、甘いですか?」
途中は小さくて聞こえなかったが、何を言いたいのかはわかる。
男である俺ですら、自分の臭いというのは気になるのだ。
野営地で入浴しようとするくらいに清潔感というものに敏感な少女に対して、拘束して匂いを嗅ぎまわるなんてことをやらかしたのだから、その行為に対する思いとは別に評価がどうだったのか気になるのは仕方ない。
「ああ、甘い。正直に言うと、今もそうだ」
「――――ッ!!その、それは嫌な臭いではないんですよね!?」
「そんなことはない。少なくとも、俺は好きな匂いだ」
「そ、そうですか……」
ティアは羞恥に塗れた表情で、安堵のこもった吐息を漏らした。
だが、俺にとってはむしろここからが本番だ。
心境は裁判官の判決を待つ罪人そのもの。
今の俺にできることは、変態に裁きを下すティアのお言葉を静かに待つことくらいである。
しかし、諦めの境地にいた俺に対して彼女が告げたのは、あろうことか謝罪の言葉だった。
「すみませんでした。自分がされるとここまで恥ずかしいことだとは思いもせずに……」
「え……?」
「ほら、さっき私もその、やってしまったので……」
「……ああ、そういえば」
どこかで聞いたようなやり取りだとは思っていたが、つい先ほど俺たち自身が同じような会話をしていたのだった。
もっとも、立場は完全に逆になってしまったが。
そのことをティアも思い出したのだろう。
流石に自分がやったことをやり返されたとなれば、声高に俺を責めることも難しい。
だからといって、これでおあいこだと主張するほど俺の神経は図太くない。
せめて詫びだけはしっかりとしておこう。
「本当にすまなかった」
「いいですよ、別に。嫌な臭いだと言われたら、泣いちゃいますけど」
「それは大丈夫だって。本当に甘くていい匂いだから。俺が保証する」
「それは……ありがとうございます?」
「いや、礼を言われても困るが」
二人で顔を見合わせ、クスクスと笑い合う。
気まずい雰囲気は霧散し、普段の空気が戻って来た。
(よし、乗り切った!!)
俺は心の中で快哉を叫んだ。
正直、ドン引きされて嫌われてもおかしくないと思っていた。
『ごめんなさい。いくら恩人でも変態さんはちょっと……』
『ほらやっぱり!!絶対いつかやると思ってた!!』
『アレン……残念だよ』
顔をこわばらせたティアが。
ゴミを見るような目をしたネルが。
悲しそうに目を閉じるクリスが。
仲間たちが俺の下から去っていき、パーティが解散する光景まで幻視した。
「あの、アレンさん」
「うん?どうした、ティア?」
ティアに声をかけられ、俺の意識があり得た無惨な未来図から現実に呼び戻される。
言い淀んでいるところを見ると何か頼み事だろうか。
(今ならどんなお願いでも叶えてやる、なんて言ってしまいそうだ……)
もう一度入浴したいと言うなら何往復でもして川から水を運んでこよう。
椅子が硬いと言うなら俺が椅子になってもいい。
それくらいしなければ、俺の愚行を許してくれた天使のような少女に報いることはできない。
「今って甘いお酒とか甘いお菓子とか、持ってないですよね?」
「…………持ってない」
「そうですよね……」
役立たずでごめんなさいと叫びたい。
しかし、叫んでも酒もお菓子も手に入らないのだ。
フロル製のお菓子を持参しようと主張するネルの提案を却下したのは他でもない俺だ。
遠征中は緊張感を保つためという理由だったが、裏目に出てしまった。
どうあがいたところで無い袖は振れない。
しかし、ティアの欲しいものを持っていなかった役立たずな俺を、それでも彼女は許してくれるらしい。
「なら、お酒とお菓子の代わりにはなりませんけど……」
何か日持ちの良い食べ物でも用意してきたのだろうか。
そんなことを思いながらティアを見つめていると、彼女は少しだけ空いていた俺と彼女の距離をゼロにして俺の肩にしな垂れかかった。
「甘い匂いだけ、お裾分けです……」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
その言葉が頭に染み込んできて、俺が意味を理解し始めたちょうどそのとき――――
「そ、そんなに見つめても、私は食べられないですよ……?」
「…………」
なにか、もう色々なものが限界だった。
昼間から始まっていた本能と理性の死闘は本能側に大量の援軍が加わって勢いは増すばかり。
一方の理性側は孤立無援の四面楚歌という有様で、あとは物量で轢き潰されるのを待つしかない。
抵抗は、もはや無意味だった。
「きゃっ!?」
俺は羽織っていた風除けの布を広げて、ティアの肩を強引に抱き寄せた。
驚いて悲鳴を上げたティアも今度はされるがままで、逃げる様子はない。
一枚の風除けの中に収まると、再び寄り掛かるようにして体重を預けてきた。
エクトルたちは今頃夢の中。
クリスとネルとの交代の時間も、もう少し先のこと。
ティアが抵抗しないのなら俺を邪魔するものは何もない。
ごくり、と喉が鳴る。
思えば1月ほど前のデートでキスして以来、それらしいことは何もしていなかった。
順番的には俺がティアへの想いを口にするのが先であるべきなのだろうが、ティアは俺の気持ちさえ伝わればその辺は気にしないだろう。
未だ過去に気持ちを引きずられている俺を知ってか知らずか許してくれる、心優しい少女。
その優しさに甘えてけじめをつけようとしない狡い俺が、彼女に釣り合うのかどうかは甚だ疑わしい。
そういった理由で自制することは、今の俺には難しかった。
「……ッ!」
左手をティアの頬に添えると、彼女の緊張が伝わってくる。
彼女は俺の手に導かれるように視線を上げ、目を閉じた。
「………………」
焦らすつもりはない。
静かに呼吸を整えて、ティアの瑞々しい口唇を貪る。
その直前、俺はその音を聞いた。
「ッ!?…………?」
慌てて音のした方に視線を向ける。
最初はクリスかネルが交代時間を待たずに起き出してきたのかと思った。
しかし、俺が向けた視線の先に人の姿はない。
(いや……)
ひとつだけ見覚えのない物があった。
それは一本の枝だ。
焚火から数歩離れたところに、見覚えのない細い木の枝が生えていた。
焚火の灯りに照らされている枝の先には何かが付いている。
黒っぽい葉のようなもの。
羽根だ。
それは地面に突き立った、1本の矢だった。
「――――ッ!!敵襲!!!」
「ええっ!!?」
突然の異変に目を丸くするティアを小脇に抱えた俺は、座っていた木製の長椅子を蹴り上げて盾にする。
その陰にティアを隠すや否や、長椅子に突き立つ1本の矢。
ほぼ同時に飛んできたもう1本は、さほど幅が広くない長椅子からはみ出していた俺の肩に命中するコースだ。
「ちっ!!」
剣は間に合わず、ガントレットで打ち払う。
矢が飛んできたのは川の方向から。
目を凝らしても人影のようなものは何も見えない。
「くそっ、傾斜か……!」
川辺を歩いてきたか、それともこの暗闇の中を小舟で岸に乗りつけたか。
先ほど俺が足を踏み外した傾斜より向こう側が、ここからでは死角になる。
「ティア!“槍”をありったけ用意して攻撃待機!動く影を見たら迷わず殺せ!クリスとネルなら自力で避ける!」
「は、はいっ!」
「矢が落ち着いたら二人を起こしてくれ!なんならテントに一発ぶち込んでもいい!」
「わかりましたっ!!」
そう叫ぶと、俺は川とは反対方向に駆けだした。
街道、そしてテントの背後を目視し、挟撃の可能性を排除してから即座に反転。
<強化魔法>を全力行使して川へと猛進する傍ら、『スレイヤ』を抜き放ち肩に担ぐ。
(放たれる矢の数は少ない!射手はせいぜい2人か3人……盗賊かチンピラなら俺だけで十分!!)
あっという間に傾斜までの道のりを駆け抜け、川を見下ろす。
そして俺は、己の読み違いを知った。
「なっ!!?」
俺を待ち受けていたのは10を超える射手から放たれた一斉射。
しかも俺が射手を視認したのはすでに矢が放たれた後。
一直線に進む矢の群れが俺を目掛けて殺到する。
とっさに<結界魔法>を全力展開し、転がるようにして草原に伏せる。
「――――ッ!」
<結界魔法>に阻まれてパラパラと落ちる矢の数は4本。
<結界魔法>の多重障壁は一層のみを残して削り切られていた。
(なんでこんな……一体何が起きてる!?)
敵影を確認――――その数15程度。
しかし、草原や川辺には何者も見当たらない。
敵影の全てが川に浮かぶ2艘の小舟の上に佇んでいた。
当然前衛などおらず遠距離攻撃のみの一撃離脱。
遠距離攻撃を持たない俺では、そのまま川下りと洒落込む盗賊共を止める術がなかった。
(いや、仮にネルやティアを伴っていたら、きっと大惨事になった……)
月明かりだけを頼りに船で接近し、少数の矢で見張りを釣り出して一斉射で始末する。
悔しいが、完全にしてやられた。
被害がなかったのは運が良かっただけだ。
月が顔を隠していたら。
闇に紛れた矢に気づかなかったら。
あるいは矢に気づくのが少しでも遅れたら、<結界魔法>の展開すら間に合わなかったかもしれない。
俺は周囲を警戒しながら小舟が弓矢の射程圏外まで逃れるのを見送ると、跳ね起きて野営地へと駆け戻った。
「アレン!無事かい!?」
少し寝ぐせのついたクリスが防具も付けず、抜き身の剣を片手に駆け寄ってくる。
ネルも装備は似たような状況だが、こちらは焚火の近くでティアと背中合わせに構え、周囲の警戒を続けていた。
「なんとかな。ただ、敵には逃げられた。こっちは何もないか?」
「幸いにも、だね」
「ああ、そうだな……」
本当に幸運だった。
たしかに小舟から野営地までの距離は100メートルもなかった。
しかし、こちらの方が高い位置にあるため川から視界は通らない。
さらに揺れる小舟の上からの射撃となれば、非常に高度な技術が要求されるに違いなかった。
それだけではない。
俺が川へと駆けたときに襲い掛かってきた弓矢の群れ。
タイミング的に俺を視認する前に矢を放っていたはずだ。
おそらく草原に観測手を伏せていたのだろう。
いくら練度が高くとも、盗賊が支援なしに実現できるレベルではなかった。
「無事でしたか、アレンさん!」
エクトルや彼の部下たちがテントから続々と飛び出してきた。
こんな騒ぎの中で眠り続けることなどできなかったのだろう。
仕方ないとはいえ申し訳ないことをした。
「起こしてしまったようですね。申し訳ない」
「アレンさんが敵襲を叫んだときからずっと起きていましたよ。動く影を見たら撃てという指示が聞こえたので、外に出ては邪魔になるだろうとテントの中で縮こまっておりました」
「ああ、それは失礼を……」
「いえいえ、とんでもない!おかげさまで無事に襲撃をやり過ごすことができました。積み荷の被害もないようで、流石です」
「はは……」
エクトルの言葉に、俺は曖昧に笑うことしかできなかった。
その後、朝の予定をいくつか話し合い、テントに戻っていくエクトルを見送った。
俺は大きく息を吐き、空に浮かぶ月を見上げる。
「………………」
俺たちならば――――『黎明』ならば、この程度の護衛依頼は遠征のチュートリアルに丁度良いと思っていた。
想定される危険が俺たちを害することはないと、心のどこかで思っていた。
もう認めざるを得ない。
遠征を舐めていたのはクリスやネルたちだけではない。
(舐めていたのは、俺も同じだった……!!)
もし、あの射手たちが岸から上陸し、こちらを目視した状態で射かけていたら俺とティアは無事だっただろうか。
もし、小舟の上からでも野営地に向けて一斉射を放っていたら、テントの中の仲間やエクトルたちは無事だっただろうか。
「………………」
思わず顔を歪め、歯を食いしばる。
「アレンさん……」
そんな俺を不安に思ったのか、ティアが声をかけてくれた。
「ティア、怖い思いをさせて悪かった」
「いえ……。私より、アレンさんは大丈夫ですか?」
「ああ、見てのとおり無傷だ」
俺の返事を聞いてもティアの表情は曇ったままだ。
仕方ないか。
野営地を盗賊に襲撃されて笑顔でいるのは無理というものだ。
俺は装備を整えてテントから出てきたクリスを呼ぶ。
「クリス、少し早いが交代だ。奴らは小舟で逃げたが、地上に別動隊がいないとは限らない。注意してくれ」
「狩り出すかい?」
俺は首を横に振った。
周囲は丈の短い草が生い茂る草原だ。
身を隠す場所はいくらでもあるし、すでに逃げ去った後だろう。
「わかった。二人が休んでいる間は絶対に気を引き締めておく。安心して任せてほしい」
「頼む」
珍しく真剣な表情で請け負ったクリスに後を任せ、俺はティアを伴ってテントに引っ込んだ。
「おやすみなさい、アレンさん」
「ああ、おやすみ」
味気ない挨拶を済ませ、寝床に潜り込んで目を閉じる。
戦闘によって体中を巡ったアドレナリンのせいで気持ちは昂ったままだ。
しかし、それを抑えつけてでも今は眠らなければならない。
依頼は明日も続くのだから。
(次に出会ったときは……)
薄く目を開き、抱えた愛剣を少しだけ鞘から引き抜く。
先ほどまで俺の魔力を受けて淡く光っていた剣身は、今はその光を失っている。
敵を斬るどころか、まともに振ることさえできなかったのだ。
こいつも、さぞかし消化不良だったに違いない。
(次に出会ったときは、必ず討ち取ってやる……!!)
静かに剣を鞘へと納め、俺はゆっくりと目を閉じた。
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