第144話 閑話:とある少女の物語22
side:フィーネ・ハーニッシュ
私の母は10歳の頃に娼館に売られたという。
経済的な事情が理由だと聞いた。
奴隷制度が公的に禁止されているとはいえ、財力と権力と暴力があれば奴隷と似たような状況を作り出すことは難しくない。
幼い母は娼館から逃げ出すこともできず、雑用をしながら簡単な接客を任されていたそうだ。
しかし、母は器量の良い少女だった。
そのような少女を雑用だけに使う娼館などあるはずもなく、母は多くの少女の例に漏れず15歳の誕生日を迎えたその日に初めて客を取らされた。
貧しい幼少期を過ごし、娼館に売られ、家族のために見知らぬ男に身を任せる以外に生きる道が閉ざされた母の心中はとても想像できるものではない。
せめてもの救いは、娼婦を快楽を貪るための道具として物のように扱う客が少なくない中で、母の初めての客は母に優しく接してくれたことだったという。
様々なものを諦めて娼婦の務めを果たした翌日、今宵もまた別の男に抱かれるのかと暗澹たる思いでいた母の前に現れたのは昨夜と同じ男だった。
その男は母を抱いて帰るだけでなく共に食事や酒を楽しみ、時には高い金を支払って母を娼館の外に連れ出した。
毎夜娼館に現れる男との逢瀬はしばらく続き、いつしか母もその男に気を許すようになっていたそうだ。
その男こそが私の父だった。
父はこの都市では名の知れた冒険者だったという。
十分な稼ぎを得ていた父は長い時間娼館に留まるときもそうでないときも、一夜分の料金を支払っていた。
娼館側も有力な冒険者である父が母に想いを寄せていることに気づいており、身請けの可能性を考慮して母に他の客を取らせることはしなかった。
身請けを提案されたときに父の誘いを受けたのは、娼婦でありながら奇跡的に一人の男しか知らなかったという事実も大きかったようだ。
こうして、父に手を引かれ夜の世界を抜け出した母は幸せを手に入れ、後に私を身籠った。
幼い頃の記憶は霞が懸かったようにぼやけ、今では鮮明に思い出すことは難しいけれど、それでも幸せな家庭だったように思う。
しかし、今の私の境遇が示すとおり、母の幸せは長くは続かない。
私が幼い頃に、父は冒険の中で帰らぬ人となってしまったからだ。
父が残した財産は少なくないとはいえ、残された母娘が一生を生きるには到底足りない。
母は幼い娘を育てながら時間を見つけて簡単な仕事を受け始めた。
しかし、ろくな教育を受けていない母が短い時間働いても稼ぎはたかが知れている。
徐々に少なくなっていく蓄えを憂いた母は、一度抜け出した夜の世界に再び足を踏み入れることを決意した。
当時の私は娼婦がどういう仕事なのか理解していなかった。
母は私の前ではいつも笑っていたし、母の同僚の娼婦も私に生々しい現実を語ったりはしなかった。
綺麗な女の人と一緒に働く母を見て、いつかは私も娼婦として働いて母に楽をさせたいと思ったほどだ。
体への負担が大きく精神的にも辛い娼婦の仕事。
数年後、母は体調を崩し、それでも私を育てるために仕事を続け、そのまま帰らぬ人となった。
それは私が10歳になろうかという頃で、そのときの私は娼婦の仕事も母の内心も理解できるようになっていた。
母にかけていた苦労を思い後悔したときには、もう何もかもが手遅れだった。
母が亡くなり、私は天涯孤独になった。
そんな私に声をかけたのは母が勤めていた娼館だった。
最初は雑用で使ってくれると言うけれど、いずれは娼婦として働かせようという魂胆は明白で、それでも身寄りのない10歳の私を雇ってくれるあてなど他にはない。
娼婦を見下すつもりはない。
それでも夜に生きる女性は蔑まれることがあることを私は知っていた。
何より、愛する男に全てを捧げるというありきたりな少女の夢は捨てなければならない。
父が存命の頃の母に起きたような奇跡は到底期待できず、一般的な少女が夢見る幸せな恋愛は手の届かないものとなるだろう。
そのような救いのない未来は、私が自らの人生を諦めるには十分なものだった。
私に救いの手が差し伸べられたのは、そんなときだった。
冒険者ギルドの一職員であったイルメラ先輩が、どこからか私の話を聞きつけて私を探し出してくれたのだ。
後から聞いた話では、イルメラ先輩は見習い時代に父を担当していたそうで、父にはずいぶんと世話になったからその恩返しをしたかったのだという。
娼婦か、冒険者ギルド職員か。
娼婦として生きた母の生涯を知って、そこに踏み込みたいとは思えなかった。
母もそれを望まないだろう。
私は迷わずイルメラ先輩の手をとった。
冒険者ギルドにおいて若い女性が与えられる役割は専ら受付の仕事で、幸いにも私の能力はそれに適したものだった。
有用で、それ以上に疎ましい能力。
使えば使うほど磨かれるそれに辟易することさえあった。
受付見習いとして雑用に励む日々が続き、最初は娼婦にならずに済んだ安心感から不満も言わずに黙々と仕事をこなしていたけれど、熱意を向ける先を見出すこともできなかった。
そんな退屈な日々の中で、私はその少年と出会った。
冒険者を志し、自らのスキルを知るために大金を集めた少年。
その少年は失意のうちにギルドを去ることになるだろうと思った。
その少年が望む結果は決して得られないと知っていたからだ。
しかし、再び私の前に現れた少年は自らの能力に失望などしていなかった。
『自分の決意を再確認できたから、まあまあってところ』
そう言ってのけた少年に興味を持った。
自分の能力を疎ましく思いながらもそれを受け入れて前に進む決意を示した少年が、私には眩しく見えたのだ。
それからというもの、私はその少年のことを気に掛けるようになった。
少年は冒険者になるための修業に精力的に励んでいた。
大人が多い世界で幼い者同士。
顔なじみとなり、気楽に言葉を交わす仲になるまでに多くの時間はかからなかった。
少年に影響され、それに負けないようにと私も熱意をもって仕事に取り組むようになった。
なんとなく、少年が冒険者になったときは私が受付を担当するのだと思っていた。
最低でもD級上位にならないと担当はつかないと聞かされてはいたけれど、担当でなくても受付の誰かは少年の相手をすることになるのだ。
少なくとも登録初日くらいは私が対応することができるように、イルメラ先輩にお願いして根回しまでしてもらった。
少年が12歳を迎えるその日、私は早朝から冒険者用の受付窓口で少年を待っていた。
少年より少しばかり年上である身として、激励する言葉を用意して。
少年の門出を寿ぐために。
その日――――少年はついぞギルドに現れなかった。
気心知れた友人を失った当時の私は、自分が思ったより大きなショックを受けていたらしい。
イルメラ先輩を始めとした諸先輩方から心配され、何度も励まされたことをよく憶えている。
優しい気配りと、私の心情と無関係に流れる月日は少しずつ私の心を癒してくれた。
見習い職員から正規の職員に転身した頃には失意から立ち直り、少しだけ熱を失いながらも受付の仕事を淡々とこなすようになっていた。
母譲りの容姿のためか、冒険者の男たちからの下心満載の誘いが絶えることはなく、それをあしらう技術ばかりが上達した。
再会は突然だった。
生意気ながらも冒険者に夢を見る無垢な少年は目つきの悪い擦れた冒険者に変貌していて、あの日の面影はどこにもない。
しかし、私は間違いなくその人物をあの少年だと断定した。
それだけに、説明のひとつもない雑な対応にはとても腹が立ったものだけれど。
◇ ◇ ◇
再会は冬。
それから早くも季節が変わった。
元々、冬でもそこまで寒くない気候に恵まれた地域であるとはいえ、夜にこんな恰好でも寒さを感じないとなれば春の訪れを実感するというもの。
「はあ……」
私が借りている小さな貸家――というより貸部屋――の居室。
ベッドに寝転んでいた私は、ゆっくりと体を起こして鏡を見る。
鏡の向こうには女が居た。
少しほつれた長い金髪に気だるげな表情。
身に纏うのは下腹部と胸元以外の部分が透けている、そういう用途であることが明白なネグリジェ。
それが包むのは下卑た冒険者の男たちが心の中で――ときには面と向かって――食べ頃と評する女の肢体。
ギルド職員か、それとも娼婦か。
私を知らない男にそう尋ねたら10人中9人は娼婦だと即答するに違いない。
そして残りの1人も少しだけ迷った末、おそらくは娼婦と答えるのだろう。
「ほんとに、なんて服を……」
裾を摘まんで少し持ち上げると、それだけで下着が露わになってしまう扇情的な服。
他の服も良い生地を使っていると思うけれど、このネグリジェは多分それらの服よりもさらにワンランク良い生地で作られているように思う。
その肌触りはこの上なく滑らかで、高級な衣服に疎くとも間違いなく高級品だと言い切れるほどの品質は、一度知ってしまえば今まで着ていた寝間着を着たいとは思えない。
それでも――――それだけならこんな服を受け取ったりはしない。
私は頭の中で、毎度のように下卑た言葉を口にする嫌な冒険者たちを思い浮かべ、その男たちからこの服を贈られる自分を想像する。
想像の中の私は全身に鳥肌を立て、引きつった表情で贈り物を突き返していた。
それはそうだろう。
冷静に考えて、好きでもない男からこんな服を贈られたら笑顔を維持するのは不可能だ。
「はあ…………」
思わず溜息が漏れた。
問題は自分がこの服を贈られたことを嫌だと思っていないということだった。
受け取っただけなら、あの日は多くの出来事があって動揺していたからと言い訳できただろう。
しかし、それを後日突き返すこともせず、あまつさえこうして毎夜身に纏っているのだから言い訳のしようもない。
「あー…………」
ぼふっと音を立て、ベッドに仰向けに倒れる。
4年ぶりに再会したときはただの友人か、あるいは世話の焼ける弟のような存在に過ぎなかった。
その後のことも、気安すぎるかもしれないけれど、冒険者と受付嬢として概ね理想的な関係だったと言えるだろう。
明確にそこから逸脱してしまったのは、やはりあの日だ。
苦手な同僚とのいざこざで参っていたとはいえ、私の行動は大胆すぎた。
彼の家に招かれて浮つき、二人きりであるにもかかわらず挑発してみたり、ギルドの中でスカートをたくし上げるなんてこと、我ながらよくも実行に移したものだ。
特に後者は、もはや完全に娼婦の振る舞いと言っていい。
本当に、どうかしていた。
「………………」
どうかしていたのは間違いない。
けれど、それだけではないこともわかっている。
初心なままでいられるほど楽な人生は歩んでいない。
容姿や仕草で冒険者たちを翻弄するというギルドから与えられた役割を果たすため、男女の機微に疎くはいられない。
鈍感であることを私自身の能力と私の歩んだ人生は、決して許容しなかった。
そして、私の中にあるそれらが導く結論はひとつ。
「好き、なのかなあ……」
自分が零した言葉によって顔が熱くなっていくのを感じる。
やり場のない感情を抑えきれずに、枕に顔を押し付けて四肢をばたつかせた。
体に疲労感を覚える頃には冷静さを取り戻し、私は何をしているのかと少しだけ落ち込んでしまう。
まるで初心な少女に戻ってしまったかのような醜態だ。
しかし、私を悩ませるものが自分の中に揺蕩う想いだけならば、ここまで悩みはしないのだ。
もしそうならば、私は今すぐにでも彼に想いを打ち明けて泣くか笑うかしていることだろう。
「略奪は、ダメだよね……」
最大の問題は、すでに彼の隣には別の女性がいるということだ。
彼の隣を歩くのは魔法使いのティアナ。
彼女と会話する機会はそれほど多くないけれど、時折見かける様子から彼女が彼を想っていることは誰の目にも明らかだ。
彼女が月並みの女だったら自分の想いを優先したかもしれない。
けれど、男が好みそうな淑やかさと冒険者に必要な戦う力を合わせ持つ美しい少女は、数年の時を経て夢見る少年から一人の冒険者に成長した彼と本当にお似合いだった。
おそらく二人の関係はまだパーティメンバーに留まっていて、恋人関係には至っていない。
しかし、限りなくそれに近い関係を思わせる雰囲気がある。
今更、私が割って入る余地があるとは思えなかった。
もし仮に彼女から彼を奪うことができたとしても、そのときは彼のパーティが崩壊してしまうだろう。
ようやく結成したパーティの崩壊は、気心知れたパーティというものを心から渇望していた彼をひどく傷つけるし、冒険者を支援する役割を持つ私が自らの都合を優先して冒険者パーティを崩壊させるなんて醜聞もいいところだ。
下手したら冒険者ギルドを解雇されてしまうかもしれないし、それは大恩あるイルメラ先輩の顔に泥を塗ることにもなる。
「私の方が先だったはずなのに……」
別の女性への劣等感。
彼に向ける友情の名残。
ギルド職員としての立場。
イルメラ先輩への恩義。
それらに包囲された私の恋心には行き場が残されていない。
燻る想いに気づいた時には、もう手遅れだったのだ。
「……うーっ!!」
四肢をばたつかせても何も解決しないことはわかっている。
それでも暴れた後に訪れるはずの疲労感と眠気が今の私には必要だった。
なにより、体を動かしている間は嫌なことを考えなくて済む。
そんな言い訳を整えた私は、彼に贈られたネグリジェに包まれて眠りに落ちるまで、無意味な動きを続けるのだった。
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