第140話 閑話:A_fairytale_9
私がマスターと出会ってから月日は経ち、季節が変わった。
そしてついに、このときがやってきた。
「これから、この屋敷に初めての客を迎える。大切な客だから、俺にするのと同じように接してほしい。できるか?」
マスターが人を連れてこちらに向かっていることは、外に出ている妖精たちからあらかじめ伝えられていた。
エントランスホールからトイレに至るまで客人が踏み入りそうな部屋を総点検し、塵ひとつ落ちていないことは確認済み。
準備万端でマスターを迎えることができた。
ここまでは問題ない。
それでも私の手は緊張で震えていた。
マスターは今まで屋敷に人を連れてこなかったから、これが私にとって初めての来客なのだ。
けれど、そんな事情を相手は斟酌してくれない。
粗相があればマスターに恥をかかせることになる。
失敗は許されない。
そんなプレッシャーが私の肩に重くのしかかる。
しかも――――
(マスターと同等の待遇ということは、相手はもしかしてマスターの……?)
マスターは人間の男。
人間の男が女を家に呼ぶのは、そういうことだとシルフィーに聞いた。
シルフィーの前の契約者も、そうやって女を家に招いては事に及んでいたらしいから間違いない。
それにマスターが自分と同等の待遇でとわざわざ命じるのだから、一度限りの遊びの関係ということでもないはずだ。
ならば、私のすべきことはひとつ。
(マスターの家妖精として、私にできる最上級のおもてなしを……!)
屋敷を訪ねてきた彼女に、この屋敷に住みたいと思わせるのが私の役目。
両こぶしを握り締めて決意を新たに、私はマスターの客を屋敷に迎え入れた。
「フロル、お客様だ。リビングのソファーにご案内して待ってもらってくれ」
マスターは私に紙袋を渡してそう言い残すと二階の自室に上がっていった。
いつもはそのままお風呂に行くことも多いけれど、今日はきっと着替えるだけだろう。
応対を私に任せるのは、私を信頼してくれていることの証左。
マスターが着替えて戻るまでの間、この人に退屈せずに過ごしてもらうことが私の役目。
(マスターの期待に完璧に応えてみせる!)
私はマスターから受け取った紙袋の中身を彼女に気づかれないようにこっそりのぞき、中が女物の服であることを確認するとカートに置く。
もしマスターのものならきっと自分で自室に持っていくと思うけれど、今は失敗できないから念のためだ。
そして記念すべき一人目の客である彼女に向き直り、丁寧にお辞儀をする。
「あ、どうも……」
彼女も慌ててお辞儀を返してくれた。
身振りで食堂の方を示してカートを移動させながら、自分も彼女の少し前を歩いて移動する。
「わ……」
少しだけ宙に浮いて一人でに動くカートに、彼女から驚きの声が漏れた。
退屈させないように。
しかし、驚かせすぎないように。
初対面の相手に対して丁度良いところを探すのは難しいことだけれど、どうやらうまくできたようだ。
カートを部屋の隅に置き、食堂に隣接するリビングのソファーに彼女を案内する。
エントランスホールから食堂に入ると、右手に食堂、左手にリビング。
リビングにはマスターの膝くらいの高さのテーブルを挟み、三人掛けのソファーが2組置かれている。
この人とマスターの関係、そして応接室ではなくリビングに通したことを考慮して、私はあえて手前のソファーを勧めた。
同等の待遇といっても、この屋敷の主がマスターであることに変わりはない。
この屋敷に属することになるなら、普段マスターが使う上座を勧めるべきではないと判断した。
「ありがとう」
勧めた席に腰を下ろしにこやかに礼を告げる彼女が不満を感じている様子はない。
ここまでは成功だ。
私はここで一度お辞儀をして、台所に引っ込む。
彼女にお茶を提供するためだ。
台所の戸棚のひとつ、お酒やお茶が入っている戸棚を開け、棚の中身に視線を走らせる。
彼女のお茶の好みに関する情報はないので、頼りになるのは自分の感覚だけ。
お茶の種類は健康に良い薬草茶やマスターの好む渋みのある緑茶ではなく、広く飲まれている紅茶を選択。
紅茶の銘柄はいくつか用意があり、その中で最も高級な茶葉――――ではなくそのとなりにある標準的なものより少し良い茶葉を手に取った。
(マスターは一番高い紅茶が舌に合わないと言っていた。彼女は裕福じゃなさそうだから、マスターと同じ感想を持つ可能性は低くない)
私が応対中、屋敷内にいる妖精に頼んで温めておいてもらったポットに茶葉を投入し、沸騰したお湯を適量注いで蓋をした。
お茶を蒸らしている間に冷たいおしぼりを彼女に届けに行く。
「ありがとね。この大きな屋敷に一人なの?大変じゃない?」
私はふるふると首を横に振った。
一人ではない。
そして一人だった頃でも、マスターの屋敷の家事を大変だと思ったことはない。
「そっか、偉いんだね」
どこまで伝わったかわからないけれど、私の返事に満足したらしい。
彼女がおしぼりを手に取ったところを見届けると、私はお辞儀をして台所へ引き返した。
(そろそろいいかな?)
時計に目をやりながらミルクと砂糖を用意し、お湯を注いでから秒針が3周したところで蓋を取る。
マスターもじきに戻ってくるようだから、お揃いのティーカップを用意。
茶葉と違ってティーカップは普段は使わない最も上等なものを遠慮なく使う。
ポットを傾けて3つのカップの間を何度も往復し、最後の一滴までしっかりと注ぐと、お揃いのカップと別に用意した自分用のカップに口をつける。
(うん、大丈夫。後は……)
確認が済んだら彼女の分だけを愛用の銀製トレイに乗せる。
お菓子はマスターが来てから提供するからまだ出さない。
まずは作り置きしてあるチーズケーキを出して、その間にクッキーを焼こう。
クッキー生地は用意してあるから、それほど時間はかからない。
リビングに戻り、彼女の前にソーサーに乗せたティーカップを差し出す。
ミルクと砂糖の入った小瓶とティースプーンも少し離れたところに並べた。
「ありがと。あ、おいしい……」
彼女は私の応対に、ひとつひとつ律儀に礼を言う。
言われなくても気にならないけれど、言われて悪い気はしない。
もし彼女が屋敷に住むことになっても、きっとうまくやっていける。
(あとは、マスターが来るまで待ってればいいかな?)
台所に引っ込んでクッキーを焼き始めてもいいけれど、今は要望を受けることができるように彼女の近くにいた方がいいと思った。
彼女はおいしそうに紅茶を飲みながら上機嫌な様子。
その笑顔が自分の成果だと思えば誇らしい気分になる。
何もかもが順調で、マスターが戻ってきたら褒めてもらえるに違いないと思った。
「――――ッ!!?」
だから、ティーカップを口元に運びながらこちらに視線を向けた彼女の表情が強張ったとき、即座にその理由を理解することはできなかった。
何か粗相をしてしまったのかと体が硬直するけれど、思い当たることは何もない。
しかし、少し遅れて私はあることに気が付いた。
(スキルが使われてる……。一体何の?)
外敵から屋敷を防衛するための努力を怠ったことはない。
一方で、屋敷の中にマスターの敵が入り込んだときの対処も進めていた。
そのうちのひとつがスキルを感知するための術式だ。
マスターが敵と認識していなくても、屋敷の中に入ってから本性を現す敵がいるかもしれない。
どのようなスキルが使われたかまではわからない不完全なものだけれど、マスターの味方がマスターに内緒でこっそりスキルを使う状況は限られるから、今の状態でも一定の効果があると考えた。
その術式が、今まさに何らかのスキルが使用されたと私に告げていた。
(まさか、この人はマスターの敵……?)
悪い人には見えない。
さりとて外見と中身が一致する保証もない。
注意深く彼女の様子を観察しても、どのようなスキルが使用されたか判別することはできなかった。
それなら――――
『シエル』
『御用でしょうか?』
ネットワークから素早い反応が返ってくる。
シエルの几帳面さが今はありがたい。
『頼みたいことができたから、リビングに――――』
そう思ったところで、シエルの今日の予定を思い出した。
『――――今どこ?』
『位置的には西側の都市外郭に近いところです。予定どおり巡回班に同行しておりました』
各班の仕事を全く経験していないと指揮に差し支えるという理由で、シエルは今日に限って南西区域の巡回を担当していた。
『急ぎならば戻りましょうか?』
『お願い』
シエルなら<アナリシス>によって目視した相手のスキルを見破ることができる。
きっと彼女が使用したスキルにも見当がつくはずだ。
(シエルが戻るまでは、私がマスターを守らないと……)
私はじっと彼女を見つめ返す。
どんな行動も見落とすことがないように。
マスターをあらゆる危害から守るために。
彼女がマスターの敵だと思いたくはない。
彼女に会ってからわずかな時間で、私は彼女に対して少しばかりの親しみを覚えていたのだ。
それでも、いざとなればそんな想いは関係ない。
私は、マスターの――――
(マスターの…………。あれ…………?)
私は気づいてしまった。
いざとなれば?
排除する?
マスターに最高の待遇で迎えるように命じられた相手を?
足元から這い上がってくる自分の存在が揺らぐような不快感に、なんとか耐える。
(マスターの命令が矛盾してる……)
嫌な予感を振り払いたくて、私はマスターの命令を確認する。
マスターは私に外敵の撃退を命じた。
マスターは私に彼女をマスターと同等の待遇で迎えるように命じた。
当然ながら、私にとってマスターと同等の待遇とは最上級の待遇を意味する。
あの命令の瞬間、彼女は私にとって外敵ではなく、外敵から守るべき対象になったのだ。
けれど、その彼女自身が外敵だったら私はどうするべきなのだろうか。
(マスターに「夕食は肉が食べたい。」と言われた後に「夕食は魚が食べたい。」と言われたときは……)
私がマスターに出すのは魚料理だ。
命令は後から出た方が優先されるから。
なら、私は――――
(私は彼女がマスターの敵であっても、彼女を排除できない……!?)
彼女がマスターを害するまで、ではない。
彼女がマスターに危害を加えた後ですら、マスターが命令を上書きしない限り、私は彼女からマスターを守ることができない。
背筋が凍るなんて言葉では表すことができないほどの恐怖が、私の体を走り抜けた。
彼女を排除することと同様に、彼女を排除するよう妖精たちに命じることもできないのだ。
それはつまり――――
(そんな……そんなこと…………)
マスターに迫る危険を感知するための情報収集も。
屋敷に近づく危険を発見するため巡回網も。
屋敷の外壁に巡らせた魔術障壁も。
そして、不測の事態に対処するために屋敷内に待機させている配下の妖精たちですらも。
「――――ッ!!」
私が全身全霊で構築した屋敷の防御能力は、紙切れほどの役にも立たない。
致命的な事実に、私は気づいてしまった。
「お前ら、何やって――――」
マスターの方を振り向いたのは彼女と同時。
何を犠牲にしても守りたいマスターが、敵かもしれない彼女と同じ場所にいる。
狂いそうになるほどの最悪の状況でも、私は諦めずに活路を探し続けた。
『シエル!!!』
『ただいま屋敷に戻りました』
悲鳴にも似た呼びかけに応えるのは最も頼りになる妖精の声。
『リビングの彼女に<アナリシス>を!マスターを害するスキルがないか確認して!!』
『直ちに』
大きくひとつ息を吐く。
私はこのわずかな時間で過去にないくらいに頭を働かせ、マスターを守るために私がとれる手段を一つだけ見つけ出した。
(マスターを、無理やりでも寝室に隔離する……!)
マスターの命令の抜け穴。
マスター自身を害するなという言われるまでもなく遵守すべき当然のことを、私はマスターから命じられていない。
それはもちろん家妖精の本分から外れる忌むべき行為だ。
それだけではなく、大好きなマスターに疎まれてしまうかもしれない愚かな行為だ。
けれど――――
(そんなことより、マスターを失うことがずっと怖い……)
私は唇を噛みしめて、それを実行に移す覚悟を決めた。
「ああ、悪い……どっちも紹介してなかったな」
そう言って、マスターは私に歩み寄る。
マスターと彼女の距離が近づき、緊張の糸が張り詰める。
そのとき――――
『確認しましたが、該当ありません』
シエルの声が聞こえた。
『本当!?マスターに危害を加えるようなスキルはない!?』
『はい。スキルを含め、彼女に戦闘能力はないと推測できます』
つまり、全部私の思い過ごしだったということだ。
全身から力が抜けて、へたり込みそうだ。
『………………ありがと、シエル』
私は、そう呟くのが精一杯だった。
結局、彼女――――フィーネ様はマスターの味方だった。
それどころかマスターが屋敷を維持するために尽力してくれた恩人でもあるという。
疑ってしまったことを詫びることはできないから、とりあえずお茶請けは最上級のものを提供してお詫びに代えた。
(フィーネ様が帰ったら巡回班に追跡させて家の位置を特定しなきゃ。彼女の家にも交代で警備要員を配置するとして……)
マスターとフィーネ様の会話から二人の関係性は概ね把握できた。
万が一にもマスター以外の男に手を出されないように、こっそりと彼女を守る方法を用意しよう。
マスターと共に屋敷を出て行く彼女に丁寧にお辞儀をしながら、私はそんなことを考えていた。
マスターが出かけた後、私は緊急で会議を招集した。
議題は当然、本性を隠している敵への対処法について。
しかし、有効な結論を得られないまま、とりあえずマスターと共に屋敷を訪れる者にも最大限の警戒を向けるようにしようという対策が取られたのだけれど――――
「フロル!少しだけ庭……いや、俺から離れるな!クリス、敵はどこだ!」
もう一度、緊急会議を開く必要がありそうだ。
マスターの小脇に抱えられた私は、心の中でマスターに謝りながらそんなことを思うのだった。
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