第116話 誤解
ゆっくり時間をかけて朝風呂をいただき、頭にタオルを引っかけてバスローブを羽織った俺は、食堂には寄らずに二階の自室へと戻った。
ベランダで心地よい風を浴びながらタオルで髪を乾かしていく。
一応風呂場にはドライヤー的なものもあるにはあるが、髪が痛みそうなほどの熱風が出るので、俺はあまり好きではなかった。
加えて言えば、電化製品と類似の機能を持つ魔道具の多くは魔石を電池代わりにして動いているため、こうして自然の風とタオルで乾かす方が経済的だ。
「ふう、朝風呂もいいもんだなあ……」
あたかも『毎朝の習慣だから』みたいな雰囲気で食堂を抜け出した俺だったが、実を言うと朝風呂の習慣などない。
すべてはクリスにあの場を丸投げするための方便だ。
「さて、そろそろ戻るかな……」
自室の時計に目をやると、食堂を出てからもうすぐ1時間が経過するところ。
クリスの話はかたが付いている頃だろうし、2人をこれ以上待たせるのは流石に失礼になる。
俺は冒険者用の装備に着替えて足用の防具だけを装着すると、ガントレットと剣、そして胸当てを抱えて階段を下りて行った。
胸当てをどうするかは少し迷ったが、3対3がどういう形なのかわからない以上、使えるように準備はしておくべきと判断した。
もし、またティアを抱きかかえることになったら、そのときは外せばいい。
一階エントランスホールの仮置き場に防具一式を乗せ、食堂の入り口から中を覗き込む。
これまでの経験を踏まえると、ティアとフロルが見つめ合っているのではないかと思ったのだが、そんな様子は一切なかった。
なかったのだが――――
「待たせたな」
俺が二人に声をかけた瞬間、ティアの肩が跳ねた。
いつもならこちらを振り向いて微笑んでくれる彼女は、こちらを振り返りもせずに俯いている。
これはまさかと思ってクリスの方に視線をやると、頼れる相棒は俺と視線を合わせようとせずに、フロルが用意したと思しきクッキーにかじりついていた。
(まさか、しくじったわけじゃないだろうな……)
内心焦りながらも極力顔に出さないように努めつつ、ティアの横に腰を下ろす。
「………………」
「………………」
「………………」
慎重に場の空気を窺う俺。
黙々とクッキーを食べ続けるクリス。
俯いた顔を少しだけ背けるティア。
誰も口を開こうとしない。
空気が、重い。
「…………どうしたんだ、二人とも?」
やむなく俺が口火を切る。
ティアからは依然として反応がない。
俺は穏やかな口調とは対照的に視線鋭くクリスを睨みつけるが、クッキーを咀嚼する機械は一瞬だけこちらを見てすぐに目を逸らした。
口がふさがっているから食べ終わるまでは話せない、という姿勢を貫くつもりらしい。
そっちがその気なら仕方がない。
大皿に積み上げられた大量のクッキーを一度下げさせるため、フロルを呼ぼうとして――――
「クリスさんから、昨日の話というのを聞きました」
しかし、ティアに先を越されてしまった。
俺はフロルを呼ぶために手を上げかけた姿勢のまま、半開きの口を閉じることもできずに硬直する。
つかの間、何を言われたのか理解できずに呆けていた俺だったが、クリスが本当に昨日の話をしてしまったのだということを理解して、動揺すると同時に怒りが湧きあがってきた。
(この野郎……交渉材料に使っておきながら吐きやがったのか!)
秘密を盾に要求を通しておきながらそれを反故にするとは、男の風上にも置けない奴だ。
今すぐクリスに詰め寄りたいところだが、しかし、クリスを罵倒するのは後回し。
今急ぐべきはティアへの対応だ。
「綺麗な女の人がいっぱいいる、その…………いかがわしいお店、に行ったんです、よね」
「あー…………。それはだな……」
せっかく朝風呂に入ったというのに、嫌な汗がじんわりと滲んでくる。
状況は最悪。
しかし、この修羅場に片足突っ込んだような状況で、俺はまだ冷静さを保つことができている。
(風呂で対処法を考えておいてよかった……)
朝風呂が長かった理由の大半はこれだ。
クリスに事態を預けて湯船に浮かんでいる最中、ふと、クリスがしくじる可能性に思い至った俺は、ティアから問い詰められることになった場合の対処法をいくつか考えておくことにした。
もちろん、あくまで保険としてであって、本当にこれを活用することになるとは思っていなかったのだが。
とにかく、俺が考え付いた対処法は3つだ。
1つ目は、素直に謝ること。
一昨日に俺がやったことを思えば、俺とティアは恋人同士ではないとはいえ、それに準じた対応が必要になるはず。
夜遊びは不誠実だと責められることは十分にあり得る。
しかし、夜遊びに興じた過去を変えることはできない。
だからせめて、誠実さを示すためには潔く頭を下げ、もうしないと誓うというものだ。
優しいティアなら1回目はおそらく許してくれるだろうという打算もあるため、これが最も有力な選択肢である。
2つ目は、とぼけること。
昨日は俺もクリスも酔っていたから、詳しいことはわからない、覚えていないで曖昧なまま終わらせてしまう。
幸い、今はネルのことがあるから、この話の追及を長々と受けることにはならないはずであるし、一度この話から離れてしまえば、あとはなし崩しで何とかなるはずだというもの。
足りない誠意は今後の行動で示していけば、ティアも深く追及はしないだろう。
問題は、この手段はクリスの協力が必要なことだ。
一度白状したクリスを口裏合わせもなくこちら側に引き込むことは難しい。
しかもクリスが俺の意図を理解したとして、乗ってくるかどうかは極めて不透明だというハイリスクな方法だ。
3つ目は、開き直ること。
若い男の夜遊びなんて冒険者が狩りをするようなもの、別に珍しいことではない。
そう言ってティアを説き伏せるというものだ。
ティアが若い男の生態に詳しいとも思えず、実際に若い男が娼館に通うことは珍しいことではないのだから、押し切れる可能性は低くない。
問題は、彼女に愛想をつかされる可能性があるということだ。
当然ながら、娼館通いがバレたにもかかわらず悪びれもしない男と思われれば、思慕の情とて薄れてしまうだろう。
成功率が低く、しかも失敗したときのリスクも大きい大博打だと言える。
(………………さて、謝るか)
ブレインストーミング方式で案を出していった結果、最初のひとつ以外は使い物にならないのはよくあることだ。
あれはある程度人数がいるからこそ連想が広がっていくものなので、俺一人でやっても結果はお察しである。
観念した俺は謝罪の言葉を口にするために口を開き――――
「私じゃ、ダメですか……?」
「は?」
「ぶぼっ!!?」
またしてもティアに先を越され、口から間の抜けた声を漏らしてしまった。
ほぼ同時にクッキーを咀嚼する機械が誤作動を起こしたようだが、しかし、そんなことはどうでもいい。
『私じゃ、ダメですか……?』
この状況で、この言葉が意味するところはなんだろうか。
ティアは俺とクリスが歓楽街で夜遊びしたことも、そのときに娼館を利用したことも知っている。
だからその言葉は、解釈によっては非常に魅力的な言葉になる。
「………………」
ティアがようやく顔を上げ、俺は息を飲む。
寂しさと悲しみで潤んだ彼女の瞳。
そうさせているのは間違いなく自分であるにもかかわらず、彼女の悲しげな表情が俺の中にある様々な欲望を掻き立てた。
「本気で、言ってるのか?」
「アレンさんが、それを望むなら……」
「む、むーっ!!」
苦しそうな声を上げるクリスに水の入ったコップを持って駆け寄るフロルを横目で見ながら、ティアと視線を絡ませる。
彼女はわずかな時間で視線はそらしまうが、そんな彼女の恥じらう仕草も俺の心を惹きつけて止まない。
「も、もちろんお金なんていりません。私には、その……そうやって男の人からお金をもらう人たちみたいに、アレンさんを楽しませる自信なんてありませんから……」
「ティア…………」
俺はたまらず彼女に触れた。
なめらかでひんやりとした彼女の手。
それは俺の気持ちに応えるように、遠慮がちに握り返してくれる。
(本当に、俺は何をしていたのだろう……)
こんなにも俺を想ってくれる少女をほったらかしにして他の女に現を抜かしたり娼館に足を運んだり。
俺がティアと結ばれたら、そのときは――――
「アレン!!やっぱり綺麗な女性に囲まれてお酒を飲む店なんて良くなかったね!!これからはティアちゃんにお酌してもらえばいいんじゃないかな!?うん、きっとそれがいいよ!!」
突然、クッキーを咀嚼する機械をやめて人間性を取り戻したクリスが騒ぎ出し、反射的にそちらを振り返った。
視線で必死に何かを訴えかけるクリス。
しかし、何を訴えたいのかはさっぱり伝わらない。
(一体こいつは何を………………ッ!)
そう思ったところで、俺はクリスの発言の違和感にようやく気がついた。
「…………ティア」
「…………はい」
「悪かった。これから女と酒を飲みたくなったら、ティアを誘うことにするよ」
「はい、楽しみにしていますね!」
笑顔を輝かせるティアとは対照的に、俺は頬が引きつりそうになるのを必死に耐えたのだった。
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