第102話 新たな日常1




(はー……、生き返る……)


 久しぶりの大仕事と気疲れする出来事でくたびれた心身が、ほどよく温かいお湯で癒される。


 ゆっくり体を動かすと、広い浴室に響くお湯の音。

 風情を感じる。


 頭を湯船の淵に乗せて目を閉じると、一転して完全な静寂。

 これも嫌いではない。


 特に後者は、前世で風呂に入るときに無音になることはなかったから、屋敷に来てしばらく経った今でも新鮮さを感じる。


(そう、前世ではたしか……)


 換気扇だ。

 湯気を排出するための換気扇の音が静けさを邪魔していたのだ。


 目を開けると、湯船からは今も湯気が立ちのぼっている。

 しかし、浴室が湯気で満たされているかというと、そういうわけでもない。

 

 湯気は一体どこへ消えているのか。

 視線を彷徨わせると――――


(あれ……?換気扇がある……)


 扇風機の羽のような形状の小さな換気扇が、天井でくるくると回転して湯気を外部へと送り出していた。

 しかし、音がしない。

 目を閉じると、そこにあるはずの換気扇の存在感が完全に消失するほどの静寂。


(電気がないのにどうやって……?ああ、でもモーターっぽい機構は魔導馬車にも……。ということは、これも魔道具か……)


 魔導馬車という名の劣化自動車が存在するのだから、魔石と魔道具を用いてモーターと似たような機構を作ることはできるはずだ。

 魔石や魔道具がどのようにしてハネを回しているのか、興味が湧く。

 残念ながら俺の知識では、換気扇を見つめていてもその構造はわからないだろうが。

 そもそも俺はモーターの仕組みすら知らないのだから。


(文系だしな。物理も化学もわからんもの……)


 誰に聞かせるわけでもないのにお決まりの言い訳を心の中で唱え、しかし、前世で読んだ異世界モノの小説の主人公たちは、蒸気機関だのモーターだのマヨネーズだの、いろいろな知識を持っていたことを思い出す。

 理系の人間にとってそれらの知識は一般的なものなのだろうか。

 確認する術はもはや失われているが、もしそうではないとしたら、彼らはきっと優秀な学生だったのだろう。


(こうなると知ってたら、物理も化学も勉強したのに……。今更蒸気機関とかモーターとか作っても、代わりがあるから普及はしないだろうが……)


 すでに魔石と魔道具がある程度普及しており、蒸気機関やモーターの需要を喰い尽くしている。

 機関車が存在しない理由は、蒸気機関車のような乗り物を作れないからではなく、魔獣のせいで線路を維持できないからだろう。

 せめて、前世日本の地方都市くらいの人口があって、都市を結ぶ街道沿いに民家や商店が並ぶようになれば、それらの周囲に外壁を作るなりして機関車を運用することも――――


「――――ッ!?」


 勢いよく体を起こす。

 湯船に沈んで溺れるところだった。


(寝ちまってたか……っと)


 立ち上がろうとして少しふらつく。

 どうやらのぼせてしまったようだ。


(えーと、のぼせたときの対処法は……)


 蒸気機関やモーターの作り方は知らなくても、のぼせたときの対処法は知っている。

 たしか、涼しいところに横になって風や氷で体を冷やせばよかったはず。


(涼しいところ……)


 しかし、浴室の入り口が遠い。


 広い浴室がこんなところで仇になるとは。


 湯船の淵に両腕と頭を乗せると、少しだけひんやりとして気持ち良い。


 ついつい目を閉じてしまうと、だんだんと、意識が遠く――――





 ◇ ◇ ◇





 夢うつつ。


 俺の体は柔らかいものに包まれている。


 頭は覚醒の途上にあり、体はピクリとも動かない。


 思考はまとまらず、感じるのは優しい風と聞き覚えのない少女たちの声。


「お風呂担当は一体何をして――――」

「申し訳ありません。姿を見られてはいけない――――――――換気口に隠れて様子を見て――――――――が、視線が換気口――――――――に驚いて逃げたと……」

「逃げてどうするの……。領域拡張に儀式魔法――――――――の成長を後押ししてる――――――――――――――――たいのに」

「今日の担当――――――――屋敷に来たばかりの新人で――――」

「ああ……。なら、少し配置――――――――」

「――――りました。後ほど改善案を――――」

「――――」


 音を聞いても意味を理解することはできない。


 しかし、次第に頭がはっきりしてきて、体が少しだけ動くようになった。


 こうなれば目覚めまでもう少しだ。




「………………ん」


 ようやく俺は目を覚ました。

 見慣れた天井――――ということは、ここは自室か。


 そよ風が送られてくる方向を見やると、フロルが木製のうちわで扇いでくれていた。


「フロル……、俺を運んでくれたのか?」


 フロルは扇ぐ手の動きはそのままに、コクリと小さく頷いた。


 俺はゆっくりと体を起こすと、頭を振って意識を覚醒させる。

 少しぼーっとするが、もう動いても大丈夫だろう。


 ゆっくりと立ち上がって窓から外を眺める。

 曇っているから星は見えないが、周囲の民家の灯りがほとんど消えていた。

 それもそのはず、時計を見てみれば短針はしばらく前に頂点を通過した後だ。


「ありがとな、フロル。それはもう大丈夫だぞ」


 ようやく扇ぐ手を止めたフロル。

 もしや、俺が倒れてからずっと一人で扇いでいたのだろうか。


 汗ばんだ手をシーツで拭ってからフロルの頭をゆっくりと撫でる。

 本当に何から何まで世話になってしまっている。

 もう俺はフロルなしでは生きていけないかもしれない。


「日頃の感謝として、何かプレゼントしてやりたいな…………魔力じゃなくてな」


 俺がプレゼントと言った瞬間、撫でる手を捕まえて魔力を吸収し始めるフロルは相変わらずだが、そういえば今日の食事がまだだった。


「食事を待たせて悪かった。重ねてすまないが、食事を始める前に何か……寝る前に飲むお茶のおすすめがあれば用意してくれないか?」


 フロルは頷くと部屋の扉まで歩いて行き、振り返ってお辞儀をしてから退室する。

 そんなところに気を遣わなくていいのにと思う一方で、これがフロルの家妖精としての成長なのかと思えば感慨深い。


(なんだか子育てしてる気分だ……)


 前世まで遡っても子育ての経験はない。

 もしフロルが娘なら、俺は娘に世話を焼かせる相当なダメオヤジということになるだろう。

 むしろ、俺がフロルに育てられていると言っても過言ではない。


 情けない思考を振り払い、俺は窓を開けて外に出る。

 そこには広めのベランダがあり、少しひんやりとした夜風が肌に心地良い。

 ベランダは南に向いているので、遠くには南門も見えた。


(パーティ、か……)


 思い出されるのは今日の出来事。


 フィーネが俺の意識を変えてくれた。

 クリスが俺の信頼に応えてくれた。

 ティアが俺の遺志を叶えてくれた。


 みんなのおかげで、俺はもう一歩前へと進むことができる。


(もう、前に進むことを怖れるのはやめよう……)


 英雄を目指さなくとも、冒険者をしていなくても。

 ただ生きているだけで、大切な人は死ぬ。

 当然といえば当然の話で、だからこそ人は今を精一杯に生きようとする。


 そんなありきたりな割り切りが、俺には必要だったのだ。


(はあ……、これから頑張ろうというときに、自宅の風呂で溺死しかけるとは……)


 フロルにはいくら感謝しても足りない。

 笑って部屋の中に戻ろうとしたとき――――ふと、何かが頭に引っかかった。 


(そういえば夢の中で、何か聞いた気が……)


 指先をすり抜ける夢の欠片。

 辛うじて引っかかったのは、知らない少女の声。

 何を聞いたかは思い出せないのに、気になることを言っていたようでもやもやする。

 そこから先は、どうやっても思い出せなかったが。


 コトリ、と小さな音に振り返る。

 フロルが用意してくれたティーカップをベッド横の小さな丸テーブルに置いてくれたところだった。


「ありがとう」


 俺は今度こそ部屋の中に戻り、窓を閉める。

 そのとき空を見上げた俺は、カーテンを閉める手を止めてそのままベッドに向かうことにした。

 ベッドに腰掛けると、ぽんぽんと横を叩いてフロルを呼ぶ。

 どうせしばらくは眠れないから、今日はゆっくり食事をさせてあげよう。

 少しずつ減っていく魔力の代わりに美味しい紅茶を体の中に流し込み、時々窓から空を見上げる。


 見上げた空は、いつのまにか少しだけ雲が晴れていた。

 その隙間からは綺麗な月が姿を現し、やわらかな光が俺たちを静かに照らしていた。



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