第94話 ラウラの誘惑
「お腹いっぱいになったの、いつ以来かなー……。ありがとねー、アレンちゃん」
数分後、魔力が吸われる感覚が途絶えた。
「うん?もういいのか?」
「十分だよー。アレンちゃんは魔力量が多いから、少なく感じるかもしれないけどねー」
「そういうもんか。となると、やっぱりフロルは食べすぎなのかもしれないな」
どうせ使わないし、悪影響がないなら別に構わないのだが。
「フロルちゃん、どれくらい食べるのー?」
「毎日7割」
「……………………何の7割?」
「俺の魔力量の――――おわっ!?」
また、いつもの感覚が復活した。
ラウラの抱き着く力もなんだか強くなっている。
「ずるい、ずるいずるいー!ねー、ちょっとどういうことなのー?」
突然駄々をこね始めたラウラに動揺してのけぞると、そのままソファーに押し倒された。
ラウラは相変わらず俺に抱き着いたまま。
俺は手に持っていた空のコップを取り落とし、コップが絨毯を転がっていく。
「なにがだよ!?てかお前がどういうことなんだよ!」
「アレンちゃんのせいでしょー!私がボトル一本で幸せを感じてるのに、毎日これを樽で飲んでる妖精がいるなんて言うから!ずるいずるい、羨ましい妬ましい……」
ブツブツと呟きながら魔力を吸収し続けるラウラ。
本当に酔っているのではないかと思うほどの醜態を演じる彼女に困惑が増すばかりだが、それはそれとしてこの状況はなんとかしたい。
なにがとは言わないが、豊満な肢体を持つ彼女に腹の上でジタバタされると、その気がなくてもまずいことになってしまう。
しかも、この体勢だとそれを彼女に気づかれかねない。
俺をからかうことが大好きな鬼畜精霊が、喜々として言葉の剣を振るう様子がありありと想像できる。
(それは、何としても避けたい……)
ラウラが何事かに気をとられている間に、なんとか体勢を変えなければならない。
「うーん、アレンちゃんの魔力量で毎日7割なら……でも家妖精かー。そもそもどうやって……まだ逃がさないよ、おとなしくしててー」
「あ……」
逃げるふりをしてせめて体勢をうつ伏せに変えようとした試みは、その途中で彼女に気づかれたために失敗に終わった。
しかも、俺を逃がさないためにだろうか、彼女は俺の肩を抑え付け、より体重をかけるように身を乗り出してくる。
もはや、この体勢は恋人同士のそれと変わらない。
そして、それが意味するところはつまり――――
「うん……?あー、なるほどねー」
「ッ!!」
小難しい顔をしていたラウラは、一転して満面の笑みを浮かべる。
完全に気づかれたようだ。
いや、もう完全の彼女の太股に当たってしまっているのだから、気づかれないわけはないのだが。
「そうだよねー、アレンちゃんももうお年頃だもんねー」
「ぐっ…………」
早く静まれと念じる俺を嘲笑うかのように、鬼畜精霊は少しずつ体を動かして程よい刺激を与え続ける。
気のせいだと嘯くことも難しい。
弱々しくラウラを睨みつける俺を満足そうに眺めるラウラは、本当に愉しそうだ。
ひとしきり俺の様子を愉しんだらしい彼女は、何事かを告げようと口を開く。
どんな言葉が飛び出してくるかと諦観に支配されていた俺だったが、彼女の言葉は俺の予想とは少し違ったものだった。
「アレンちゃんがまた冒険者じゃなかった頃、よくここに通ってたの覚えてるよねー?」
「え?あ、ああ、もちろん覚えてるが……」
なぜ、今そんな話をするのか。
「じゃあ、私が養ってあげるって言ったことも、覚えてる?」
「……ああ、覚えてる」
そこにつながるのか。
だが、俺の答えは変わらない。
今は若干情けないことになっているが、ヒモにまで堕ちる気はない。
それをラウラに告げようとすると、彼女は指の腹を俺の唇にあてて俺の言葉を封じた。
「わかってるよー、養われるのは嫌なんでしょう?」
俺は頷いて肯定する。
しかし、それを理解しているならラウラは何が言いたいのか。
訝しげに彼女を見つめていると、彼女は俺の口から手を離し――――
「それなら、私がアレンちゃんに養われる、というのはどう?」
俺が全く予想していなかった提案を告げたのだった。
しばしポカンとラウラを見つめ続けた俺は、彼女の言葉を確認するように口に出してしまう。
「養う?俺が?ラウラを?」
「毎日1割でいいよー」
どうしてそうなったのか。
あまりにも突飛な話だ。
「びっくりしたかもしれないけど、実はアレンちゃんが小さい頃から思ってたんだよねー。アレンちゃんは、剣士よりも精霊使いが向いてるんじゃないかなって」
「精霊使い?」
「精霊と契約して、その精霊の力を借りて戦う人のことー」
召喚士とか魔物使いみたいなものか。
しかし、それが戦いを誰かに任せて後ろでそれを見ているだけの存在なら、俺が思い描く英雄像とは少し違う気がする。
「冒険者としてはいいかもしれないが、英雄からは遠ざからないか?」
「おとぎ話の英雄の仲間に精霊がいることは珍しくないよー?アレンちゃんと私が組むなら、アレンちゃんが前に出て剣を振るって、私が魔法でサポートすることになるんじゃないかなー」
なるほど。
言われてみれば、精霊のサポートを受けて戦うというのは、らしいかもしれない。
「私、魔獣とか妖魔とかの知識も豊富だから冒険でもきっと役に立つよー。実際に冒険者と契約して一緒に戦ってたこともあるし、人間相手の揉め事でもB級冒険者くらいなら軽く捻っちゃうよー」
「マジかよ……」
「あくまで、アレンちゃんと契約した場合だよー。精霊は魔力を使いすぎると弱体化するから、魔力を補充できる状況じゃないと十分に力を発揮できないんだよねー」
俺をからかうときだけ生き生きとしている精霊が、そんなに強いようには見えないが。
しかし、ラウラは見た目どおりの年齢ではないのだろうし、本人がそう言っているならそうなのだろう。
(あれ、もしかして結構いい話なんじゃないか?)
今後の冒険者活動がどうなるのであれ、後衛の魔法使いはありがたい存在だ。
定期的に報酬を支払わなければならないとなれば尻込みもするが、ラウラの場合、主たる報酬は寝るだけで回復する俺の魔力であるし、1割ならさして負担にもならない。
全く金銭を使わないということもないだろうから、多少の現金報酬も必要だろうか。
もしかしたら金遣いの荒いタイプだったりするのかもしれないし。
俺が損得勘定を頭の中で繰り広げる中。
「それにー……、アレンちゃんなら、相手してあげてもいいかもー、なんて」
「んなっ!?」
それを吹き飛ばすようなことを、ラウラは耳元で囁いた。
魅力は十分ある。
その女性的な肢体に視線を吸い寄せられたこともある。
しかし、こうして物理的にまずい状態になるまでは、そういう対象として意識したことはなかった。
俺にとってのラウラは、言わば近所のお姉さん的な存在なのだ。
なにより、彼女は人間ではなく精霊であることだし。
そんなことを考えたからか、ふと、思ったことが口に出てしまった。
「てか、そんな話になるってことは、やっぱり精霊もできるのか?」
口に出してから、俺は猛烈に後悔した。
よく考えたら、あまりにも話がうますぎた。
きっとこれはラウラが俺をからかうために言っているに違いない。
それなのに、俺は愚かにも釣られたようなことを口走ってしまった。
しかし、後悔が表情に表れる前にラウラから答えが返ってきてしまう。
「できるよー。不特定多数の人間相手にそういうことをして、その対価に魔力を分けてもらう精霊もいるくらいだし。まあ、そういうことをすると、他の精霊からは良く思われないけどねー」
「そ、そうなのか……」
「人間だってそうでしょう?私だって、誰でもいいわけじゃないよー」
からかうでもない、いたって真面目な返事だった。
そして、ずいぶんと反応に困ることを言ってくれる。
そこまで好かれるようなことをした覚えはないのだが。
「それと、生まれ方と死に方は違っても、精霊の体の仕組みは人間とあまり変わらないよー。違うのは食事が魔力なのと、寿命の概念が希薄なのと…………あー、細かいところは少し違うかもしれないけど、だいたい一緒だよー」
気になるなら、たしかめてみる?
そんな甘い言葉が鼓膜を伝わって脳に溶けた。
ごくり、と喉が鳴る。
彼女は依然としてソファーに俺を押し倒したまま、俺を見つめ続けている。
俺が望めば、本当にそうなってしまうのだろうか。
冒険者や職員が行き交う冒険者ギルドの中。
相手は冒険者見習いの頃からよく見知ったラウラ。
娼館で本職のお姉様を相手にするときとは全然違う。
背徳感が理性を蝕んでいく。
俺は誘惑に負け、その手を――――
「続きは、答えを聞いたあとでねー」
「――――ッ!」
俺は今、何をしようとしていたのか。
ふわりと浮かび上がって元々座っていた向かいのソファーに戻った精霊は、すでに妖艶な雰囲気を霧散させ、いつものラウラに戻っていた。
俺も体を起こし、転がしたコップを拾って再びソファーに腰掛ける。
(夢……なわけないよな)
その証拠に、背中から出た汗でシャツがぐっしょり濡れていた。
危なかったのか、それとも惜しかったのか。
半ば上の空になりながら俺は彼女の部屋を辞した。
「またねー。それと、さっきの話の答えはいつでもいいからねー」
「あ、ああ……考えておく」
部屋を出て扉が完全に閉まったことを確認してから、大きく息を吐く。
先ほどの話、冗談ではなかったのか。
それとも、まだラウラのからかいは続いていて、俺が契約を申し出たときに『ドッキリ大成功』のプラカードでも出す気なのか。
(わからない……。わからないが、とりあえず……)
悶々とした気持ちを静めるため、俺は歓楽街へと足を向けた。
久しぶりの外出先が娼館というのはなんだか情けないが、リハビリにはちょうどいいだろう。
なにせ俺は今日、約1月半ぶりに屋敷の外に出たのだから。
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