第83話 閑話:A_fairytale_3




 この屋敷の最奥にある大きなドアを、音を立てないようにゆっくりと押し開けた。

 部屋の中に灯りはついておらず、窓からさしこむ月明かりだけがこの屋敷の主人がいる薄暗い部屋を照らしている。


 部屋の奥、天蓋付きの大きなベッドにマスターはいた。

 出迎えた私に声をかけることもなく、ベッドの近くに剣を転がし、両手両足の重そうな装備もそのままに、汚れた恰好のまま仰向けにベッドに横たわる屋敷の主人。

 ベッドの横に腰掛けたまま体を倒したのか、上半身だけがベッドの上に乗せられており、その体には毛布も掛けられていない。

 清潔を好むはずのマスターのありさまは、彼が極度の疲労状態にあることを如実に表していた。 


 本来は喜ぶべきことなのかもしれない。

 マスターの疲れを癒し、マスターに褒められ、マスターからご褒美をもらう。

 それはきっと、家妖精としては幸せなことなのだろう。


 しかし、私の心は荒んでいた。


 転がされたマスターの剣を手繰り寄せる。

 何の素材が使われているのか、青く光る不思議な剣。

 ゆっくりと回転させて状態を見てみるけれど、汚れているだけで欠けやひびなどは見当たらない。


 少しの間、剣を借り受ける。

 泥のように眠るマスターから返事はない。

 声に出してはいないのだから当然だけれど、きっと寛大なマスターは許してくれるだろう。


 マスターは本当に優しい。

 この人の役に立ちたいと、心から思う。

 家の外でマスターの手助けをすることはできないから、せめて家の中では安らかに過ごしてほしい。

 私は心の底から、そう思っている。


 だから、


 私はマスターの剣を一度天井の近くまで高く浮かせると、眠る主人の足元へと勢いよく突き立てた。

 鋭い剣はドスッと鈍い音を立て、を貫いて床へと縫い留める。


 それはベッドから投げ出されたマスターの両足――――ではなく、それが月明かりに照らされてつくり出す、漆黒の影。


 影は揺らぎ、黒い人型がにじみ出た。


 右足を縫い留められたそれは、無様に床へ身を投げ出した。

 その表情には驚きと苦悶がみえるけれど、私の怒りはこんなことでは収まらない。

 家の中ではマスターに安心して過ごしてもらうという、私の役目であり私の存在意義。

 それを脅かすものを許すことなど、できるわけがない。


 ジタバタともがく漆黒に手を触れる。

 認めたくはないけれど、これは私と同じようなもの。

 魔力を吸い取れば、きっと消えてなくなるだろう。


 そのとき、左足から魔力が抜けていく不快な感覚があった。


 不快な感覚の原因を探ると、黒い人型が私の足を掴み、私に先んじて魔力を吸い上げていた。

 ニタリ、と黒い人型が笑う。

 これで危機を脱した。

 そんなことを思っている顔だ。


 それでも、私は黒い影から手を離すことはしない。

 ゆっくりと人型から魔力を吸収し始める。

 無味乾燥よりもさらに飲みにくい、苦い異物のような魔力を取り込むのは、まるで汚れを舐めるような嫌悪感があった。

 けれど、その大きな嫌悪感は、さらに大きな怒りと使命感で祓われる。


 急速な魔力の吸収。

 先日の精霊が<アブソープション>と呼んだそれを、黒い人影に向けて全力で使う。


 黒い人型の表情が歪む。

 吸収量から彼我の力の差を感じ取ったのか、私の魔力を吸い上げることを諦めて、この状況から脱するために全力でもがいている。


 それは無駄な努力でしかない。

 マスターの安全を脅かす黒い人型は少しずつその存在を薄れさせていき、最後には音もなく消えた。


 私とマスター以外の異物が消えた部屋の中、突き立った剣だけが残された。






 窓を開け、部屋の中の空気を入れ替えるついでに、うがいをするような気持ちでベランダから魔力を放出する。

 もちろんそれは、たった今吸い上げた黒い影だったものだ。

 これから極上の御飯にあり付けるのだから、口の中に苦みが残るのは耐えがたく、十分に吐き出したと思えるくらいの時間をベランダで過ごしてから部屋の中に戻る。


 食事を始めようとした私は、主人のありさまを思い出して我に返った。

 自分の欲望を優先してマスターのお世話をなおざりにするなんて、家妖精にあるまじきこと。

 昨日は食事がお預けだったことと、予期せぬ異物が家の中に紛れ込んだことで、私も少しおかしくなっていたらしい。


 一度階下に戻り、清潔なタライにほどよく温かいお湯を入れ、清潔な布を用意する。

 マスターの両手足の装備を外してから、マスターを起こさないように宙に浮かせ、お湯で濡らした布で汚れをできる限り拭きとっていく。

 汚れた毛布を取り除き、清潔なシーツにマスターの体を横たえ、風邪をひかないように新しい毛布も掛ける。


 防具と剣も磨いていつもの場所に片付けたら準備完了。

 、マスターが眠る毛布の中に潜り込んでマスターに抱き着くと、ようやく私の至福の時間が始まった。


 魔力が、あまい。

 苦いものを無理やり飲み込んだ後だからか、その甘さはいつにもまして私に幸福をもたらしてくれる。

 思わず、うっとりとしてため息が漏れる。

 あの憎たらしいやつの仕業か、マスターの魔力は普段の半分も残っていない。

 食事の量が減るということは私にとって一大事だけれど、そんなことは頭の隅に追いやった。

 今はただ、この時間を満喫したかった。


 私はマスターの魔力量が一定の残量になるまで、食事をすることを許されている。

 基本的には夜に、マスターに時間があるときは朝にも、私は居間のソファーに腰掛けて寛ぐマスターの隣に座って食事をさせてもらう。


 でも、いくら与えられても満たされない。

 飽きることなんてない。

 もっと欲しい。

 そう考えた私は、マスターが眠りについてからこっそりマスターの部屋に入って、こうしてお夜食をいただくことにした。


 だって、もったいないのだ。


 普通の人間の魔力は一晩で概ね回復するらしい。

 そして私が捧げた祝福によって、私の領域限定ではあるけれど、マスターの回復量は大幅に上昇している。

 だからマスターが決めた水準まで魔力をもらっても、マスターがベッドで2~3時間も眠れば魔力が溢れてしまう。

 家の中で休息をとっているときも魔力は微量に回復し続けるから、マスターの夕食後に私が食事をさせてもらうと、マスターの就寝時間には魔力が半分以上回復していることも珍しくない。


 私はマスターの家妖精で、マスターから魔力をもらって、もっとマスターの役に立てるようになる。

 だから、これは私の食欲を満たすための行動ではなく、マスターに尽くすための合理的な行動なのだ。


 そうやって自分の行動を正当化し、私は今日も眠りにつく。

 明日も主人より早く起きて、掃除を始めなければならないのだから。




 もちろんそれは、朝には魔力が全回復しているであろうマスターから、こっそりとご褒美をもらった後で。



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