第49話 閑話:とある少女の物語14




 私と魔女は孤児院へ向かって西通りを進む。

 魔導馬車を使わずに歩いているのは、なるべく目立たず移動するためだ。


 しばらくぶりの風景に楽しんでいると、おいしそうなにおいが漂ってくる。

 においの発生源を探して視線を彷徨わせると、料亭のひとつが目に留まった。

 孤児院で暮らしていたころは縁がなかった富裕層向けの高級店だ。


「孤児院を出るとき、彼においしいご飯を食べさせるって約束したっけ……」

「好きなだけ食べさせてやればいいではないか。宮廷魔術師になれば、帝国内に入れない店などなくなるぞ」


 まだ少し寝ぼけているのか、思ったことが口に出てしまった。

 たしかに、宮廷魔術師なら西通りの高級料亭だけでなく、帝都の高級店だって好きに利用できるだろう。

 今でさえ、金銭面の問題なら解決できている。

 魔女の配下として宮廷魔術師団に所属することで国から俸給が支払われるようになり、私の懐にはすでに十分な余裕があるのだから。


「そうね。彼を帝都に連れていく前に、約束を果たすのもいいかもね」

「まるで、少年がお前についていくことが決定事項のような言い草だな」

「なに、またその話?」


 せっかく楽しい気持ちでいるというのに水を差すようなことを言う魔女に、うんざりだと態度で示す。


「月に一度は少年の様子を覗き見ていたお前と違って、少年はお前と会わずに3年を過ごしているのだろう?仮に当時の少年の気持ちがお前にあったとて、他の娘を好きになるには十分な時間だと思うが」

「…………そんなことない」

「どうだろうな。まあ、いざとなったら権力を振りかざせばいい。孤児の人生を好きなようにするくらいのこと、今のお前には造作もない」

「そんなことしない!」

「では、少年に想い人がいたら、お前は少年のことを諦めるのだな?」

「………………………………」


 魔女が憎い。

 憎しみで人が燃やせるなら、今頃魔女はローストになっているだろう。


「それとも、女の方に働きかけてみるか?金で手を引かせるか、脅して少年の傍に近づけないようにするか。お前はそういうことも得意そうだ」

「…………ソンナコトシナイ」


 これには、つい視線が泳いでしまう。

 幼いころから利発だった彼は年下からも年上からも人気があったから、彼に近づこうとする少女たちを牽制するのは大変だった。


 特に彼のひとつ年下の双子の妹のほう、たしかローザと言ったか。

 あの少女だけは最後まで彼から離れて行かなかった。

 双子の兄のほうが妹をかばうからやりにくかったし、彼自身も双子には目をかけていたから、あまり直接的な行動にでることはできなかった。


 結局、彼に向ける好意の種類が兄に向ける尊敬のようなものだと判断して私が根負けした形になったけれど、年齢を重ねるにつれ別種の好意を持ってしまうことは十分あり得る。

 なにしろ、可愛かった彼はこの3年間で成長し、少しずつ男らしくなっていった。

 最初はその辺の子どものチャンバラごっこと大差ない状態だった剣の練習も<強化魔法>を習得してからはずいぶん様になってきたし、自分の才能や技量に満足できないからか、悔しげに木剣を見つめるときの表情も、ぐっとくるものがあった。

 そんな彼だから、惹かれる少女の一人や二人や三人――――


 そうだ、よく考えたら彼に近づく少女が孤児だけとも限らない。

 冒険者ギルドにも通っていたというから、歳の近い受付嬢に目を付けられるということもあり得る。


 なんだか、本当に不安になってきた。


(信じてるからね、アレックス君……)




 都市中央の噴水を通り過ぎ、南通りから路地に入ると、懐かしい孤児院が目の前に現れた。

 私がここを出て行ったときと何も変わらない。

 大通りの店の様子がところどころ変わっていたのに対して、まるで孤児院だけ時が止まってしまったかのようだ。


 まだ昼食の時間ではないのか、庭では2人の幼い孤児が砂遊びをしている。

 顔に見覚えがないから、私がここを出たあとに捨てられた子かもしれない。

 6歳くらいの少女とそれより少し幼いくらいの少年の様子は、まるで私と彼の過去を見ているようで微笑ましい。

 遊びを邪魔するのは申し訳ないけれど、すでに孤児院を出た身では約束も挨拶もなしに中に踏み込むのは躊躇われたため、その子たちに取次ぎを頼むことにした。


「邪魔してごめんね。院長先生はいらっしゃるかしら?」

「はい!たぶん、いると思います」


 2人ともこちらを振り向いたけれど、そのうち女の子のほうが元気に答えてくれた。


「よかったら呼んできてもらえる?」

「はーい!少し待っててください」

「ラナ姉、名前聞かなきゃダメじゃない?」

「「あ!」」


 私と女の子の声がシンクロする。

 取次ぎを頼んでいるのに名乗り忘れるなんて、私も相当気がはやっているらしい。


「ご、ごめんね。私はリリーっていうの。3年くらい前まで、私もここで暮らしていたのよ」

「そうなんだー!お姉ちゃんは魔法使いになったの?」


 私と魔女の装いをみて魔法使いだと判断したのだろう。

 女の子はキラキラと目を輝かせる。


「そうよー、すごい魔法使いになるための修業をしようと思って、ここを出たの。こんなに長くかかるとは思わなかったけどね」


 ちらっと魔女の方を見やったが、魔女は孤児院の外観を観察していて私の視線に含まれた皮肉には気づかない。


「さあ、院長先生を呼んできてもらえる?あ、一緒に偉い魔法使いも来てるって伝えてね」

「はーい!少し待っててね、お姉ちゃん」


 ラナと呼ばれた女の子が孤児院の玄関から建物の中に入っていき、一緒に遊んでいた男の子もぺこりと頭を下げてから、その後を追う。

 この時間なら昼食の準備をしているはずだから、不在ということはないだろう。


「ずいぶんとぞんざいな紹介をされたものだ」

「あれくらいでいいのよ。あの子たちは貴族の扱いなんて知らないし、宮廷魔術師第三席なんて言ってもそれが何なのか理解できないもの」


 こちらに貴族がいることを伝えれば、相手に貴族に対する礼儀を払う義務を負わせることになる。

 貴族というのは面倒なもので、子どもだからでは済まされないこともあるのだ。


 けれど、魔女が貴族だと伝えなければ、それは伝えなかった私の落ち度になる。

 私の魔女への非礼を咎めることができるのは魔女本人くらいだから、どちらが穏便にことを運ぶことができるのかなんて言うまでもない。


「私は孤児に礼儀を求めるほど狭量ではないが……、まあ、いい。それよりも妙だ」

「うん?なにが?」


 魔女の視線は、孤児たちが消えて行った玄関に向けられている。

 そこにはなんの変哲もない木製両開きの玄関があり、今は片側だけが開け放たれていた。

 補修の跡が少し目につくのが気になるくらいで、妙なところはどこにもない。

 私がいたときにすでにかなりボロボロだったから、私がここを出たあとに補修されたのだろう。


「孤児院の外観のことだ。改築されている箇所が多いが、使っている資材が粗悪に見える」

「孤児院なんてこんなものよ。帝都の偉い魔術師様が、もっとお金を出してくれれば話も変わるのでしょうけど」

「孤児院側の意見も聞いて、十分な金額を届けていたとも。まあ、それも半年前までの話だが」

「……それは初めて聞いたんだけど」


 話が違うとばかりに、私は魔女を睨みつけた。


「仕方あるまい。毎月、お前の鑑賞会用の映像を用意するときに、一緒に配下に運ばせていたのだから。運ぶ手段がなければ、金貨とて役に立たん」


 悪びれもしない魔女だが、言っていることはそのとおりだ。

 帝国には前世と同等とまではいかずとも立派な通信技術があり為替も機能しているが、それらを用いて孤児院に金を届けることは難しい。

 帝国において通信技術は高価な魔道具によって支えられているものであり、一般市民への普及度という意味では前世と比べるべくもない。

 魔法という便利な技術が、他の技術の発達を妨げているのだ。


 前世において人間が通信機器を開発したのは、遠方と情報をやり取りできる手段が他に存在しなかったからだ。

 しかし、ここでは通信機器がなくとも、<リンク>の魔法とそれが込められた魔道具が同等の機能を持っている。

 すでに代替品があるから必要ないから通信機器が開発されない。

 通信機器が開発されないから通信技術が進化しない。


 魔道具が、貴族や富裕層にはある程度行き渡っていることも大きな要因になっている。

 情報を独占することで得られる利益については今更語るまでもないけれど、この状況では一般市民が気軽に使えるような通信技術が開発されても、それが普及することはないだろう。

 情報を独占したい貴族や富裕層者たちや魔道具の生産者などの既得権益に立ち向かうことの難しさは、どこにいても変わらないというわけだ。


「この都市の貴族とかに連絡して代わりに払ってもらうことはできなかったの?」

「あいにく、この都市は帝都の勢力争いに関して中立的だ。私的に協力を頼めるような貴族なら、こんなところにいたりはしないさ」


 世の中うまくいかないものだ。

 そもそも、この都市が魔女と親しい貴族に支配されていたならば、私が彼と3年も会えないなんてことはなかったはず。

 そう考えれば仕方ないと割り切るしかない。


「まあ、もともと貧乏性な孤児院だから。もらったお金をすぐに使い果たしたりはしないし、何かあったときのために貯めてるんじゃない?」

「そういうものか」


 魔女も貴族として育ったから、貧乏人の生活はわからないようだ。

 突然転がり込んだ大金を全部使うなんてこと、よほど無計画な馬鹿でもなければしないだろうに。


 しかし――――


「それにしても遅いわね」

「そうだな。予め訪問を伝えていたわけでもないから、長が不在の可能性はあるだろうが……」


 過去に孤児院で暮らしていた私と偉い魔法使い。

 私はともかく偉い魔法使いと聞けば領主の配下の魔術師が来たか、というくらいの想像はするだろう。

 応対の準備ができていなくてあたふたしている、ということはもしかしたらあるかもしれないけれど、仮にそうだったとしても一人も出てこないのはおかしい。


 いい加減にじれてきて、孤児院の中に踏み込もうとしたとき。

 ようやく玄関から2つの人影が現れた。


「お久しぶりです。リリー姉さん」

「…………」


 出てきたのは、彼がよく面倒をみていた双子の兄妹だった。


 妹のほうは金色の髪は綺麗に梳かされ、服も清潔な状態が保たれており、容姿に一段と磨きがかかっている。

 その様子は小汚い孤児のイメージからかけ離れており、この子が通りを歩いていても孤児だとは思われないだろう。


 一方で、彼と兄などの一握りの相手を除いて人見知りする性格は相変わらず。

 私が苦手なのか、それとも私の横で黙っている魔女が怖いのか。

 兄の袖を掴んで、その後ろから顔を出している。

 庇護欲を誘う仕草は、おとなしい子がやればさぞ効果的だろう。

 彼とこの子の関係がどうなっているのか不安になり、思わず眉間にしわが寄ってしまった。


「……ローザの人見知りがなかなか治らないんです。不快な思いをさせてしまったのでしたら、申し訳ありません」


 私の機嫌が悪くなったと思ったのか、兄のほうがすかさずフォローに入る。

 妹と違い兄のほうは人当たりがよく、こういったことを本当にそつなくこなす印象があったけれど、この様子を見るに今でも妹にかかりきりのようだ。

 妹と同じ緑色の瞳からは妹と違って聡明さが感じられ、金色の髪は無造作にはねているが不潔感はない。


 よくみると、髪型が彼に似ているような気がする。

 幼い頃から彼のことを尊敬していて、いろいろとまねをするようなところもあったから、髪型についても彼をまねた結果かもしれない。


「前から知ってるし、今更気にしないわ。それより院長先生はどうしたの?さっきここで遊んでいた子に呼んでくるようにお願いしたのに、いつまで待っても出てこないんだけど」

「院長先生たちは、なにか話し合いをしているみたいでした。なんだか慌てている様子だったので、ラナに事情を聞いたらリリー姉さんが帰ってきた、と」


 慌てていた、か。

 こっちはお預けも限界だというのに、何をしているやら。


 うん、もういいか。

 礼儀として先にこの施設の主に挨拶しようと思ったけれど、呼んでも出てこないのでは仕方がない。


「そう、ならいいわ。アレックス君はいる?」

「…………アレックス兄は、いないです」

「そっか、残念。この時間だと冒険者ギルドに行ってるのかな?」

「…………」


 兄のほうも彼の行先については把握していない様子。

 浮かない顔をしているのは、彼の後ろをついて都市を駆けまわる機会が少なくなったことを寂しがっているのだろうか。


「――――が連れて行ったんじゃないの……?」

「え?」


 妹のほうが、ようやく喋った。

 しかし、突然のことだったから、私は何を言われたのか聞き取れずに聞き返してしまう。


「……っ、アレックスにぃは、リリー姉さんが連れて行ったんじゃないの!?」


 何を言っているのかわからない。

 しかも、何やら怒っている様子だ。


「私が連れて行ったってどういうこと?知ってのとおり、私がここに来たのは3年ぶりなのよ?」

「………………」


 妹のほうは、また兄の後ろに隠れてしまった。

 妹のほうでは話にならない。

 イライラしてきた私は兄のほうに矛先を向ける。


「どういうことなの?アレックス君はいつ帰ってくるの?」

「……わかりません」

「別に正確な時間を聞いてるわけじゃないわ。いつもアレックス君が外に出かけて行くとき、いつ頃帰ってくるの?夕方まで戻ってこないの?」

「………………」


 会話にならない。

 要領を得ない。

 孤児院の職員たちが出てこない状況で、他に話を聞ける相手がいない。

 イライラが限界を超えているけれど、怒鳴ってしまいそうになるのをなんとか堪える。

 相手は子どもで、物事をうまく伝えられないのは仕方ないこと――――いや、果たしてそうだろうか。


(違う……)


 いくらなんでもこれはおかしい。

 妹のほうはともかく、兄のほうは3年前でさえ十分に聡明な印象を受けた。

 この少年が答えを躊躇するなら、そうなるだけの理由があるのではないか。


「ねえ、何を隠しているの?」

「隠してなんてっ!僕はなにも……!」

「なら、答えなさい――――」


 頼むから杞憂であってほしい。

 そう願いながら、私は震える声で、少年が絶対に答えられる問いかけを重ねた。


「あなたが、最後にアレックス君に会ったのはいつ?」


 気づけば少年の目には涙が浮かんでいた。

 私を怖がって泣いているのではない。


 問いかけに答えてしまうことで、何かが壊れてしまうことを恐れている。


 それでも観念した様子の兄は、涙を流しながら私を見つめ返して、答えを口にした。


「アレックス兄は、いないです。ずっと帰ってこないんです。前の日までは普通にしていたのに、朝起きたらいなかったんです。誰も、何も知らなくて……アレックス兄がいきなりいなくなるなんて信じられなくて……。でも、帰ってこないんです!その日のことは、はっきり覚えています――――」


――――僕がアレックス兄を最後に見たのは、アレックス兄の12歳の誕生日の前日です。




 数か月前から絶えていた資金援助。




 突然いなくなってしまった彼。




 慌てる孤児院の職員たち。




 ああ――――




 そういう、ことか。




「ッ!おい、待て!」


 双子と魔女を置き去りにして、孤児院の中に駆けこむ。


 廊下を走り抜け、食堂に飛び込むと、そこは不安そうにする孤児たちであふれていた。


 孤児たちの視線が集まるのを気にも留めず、一直線に事務室に向かう。


 広くもない孤児院だ。


 幼児の頃ならいざ知らず、もうすぐ15歳になる私が走れば数秒でたどり着く。


 ガチャガチャ、と音を鳴らす事務室の扉は、しかし鍵がかかっていて開けることができない。


 私は躊躇うことなく、炎で木製の扉を撃ち抜いた。


 弾け飛んだ扉は破片となって事務室に吸い込まれ、その中からはいくつもの悲鳴が聞こえてくる。


 私はゆっくりと事務室に入り、辺りを見回す。


 部屋が散らかっているのは私が扉を壊したから――――だけではなかった。


 戸棚や机の引き出しは開け放たれ、金貨や書類などがいくつかの袋にまとめられている。


 まるで夜逃げの様相。


 そしてそこにいた者たちの表情は、まるで夜逃げの直前に金貸しに踏み込まれたかのような絶望を湛えている。


 特に院長の表情はひどいものだった。


 孤児たちを指導していたときの落ち着きは見る影もない。


 まるで恐ろしい化け物に出くわしたときのように狼狽している。


 そんな情けない院長のところに早足で歩いていき――――その襟首を掴んで壁に押し付けた。


「ギッ……!」


 頭を石壁にぶつけたのか、院長はくぐもった悲鳴を上げる。


 けれど、そんなことはどうでもよかった。


 生きていれば、私の質問に答えてくれさえすればそれでいい。


「ねえ、アレックス君はどこ?」

「ッ!」


 院長の表情が恐怖に歪む。


「アレックス君は、どこ?」

「ひ、た、助けて――――」

「どこだっ!!!!」


 私は腕力なんて鍛えてない。

 抵抗すれば抜け出せるのに、院長は怯えた子犬のように震えて抗おうともしない。


「あ、あ……お、お許しを」

「そう……。言いたくないならいいわ」


 掴んでいた襟首から手を離すと、助かると思ったのか院長の表情が緩む。

 私は襟首から離したその手で、愚か者の喉笛を掴む。


 ジュワ、とナニカが焼ける音に少し遅れて嫌な臭いが鼻を突いた。


「答えられないなら、声なんていらないでしょう?」

「あ……ああ゛!!!!…………けひっ、ぎ…………けひっ……」

「ねえ、アマーリエ先生。あなたなら答えてくれるかしら?」

「ッ!」


 壊れた蓄音機に成り果てた院長を投げ捨て、アマーリエ先生に詰め寄った。

 慈悲の欠片もない暴挙に冷や汗を垂らして後ずさる彼女は、間もなく壁際に追い詰められた。


「ねえ、アレックス君は、どこ?」


 私の指が、アマーリエ先生の喉笛に触れる。

 アマーリエ先生は院長と私の顔を見比べ、自身を見つめる数人の職員の顔を見回し、数秒の躊躇を経て、答えを告げた。


「あ、アレックス君は、12歳の誕生日の前日にっ…………」


 アマーリエ先生は、一度言葉を切って私の様子を窺っている。

 私の表情は変わらない。

 それはもう、双子から聞いている。

 私が知りたいのはいついなくなったかではなく、どこに行ったか、なのだから。


 続きを視線で促した私は、その言葉の、続きを聞いた。




「……院長が手配した、戦争都市の奴隷商に、引き渡されました」














 ゴシャ、とナニカが地に落ち、崩れる音がする。




 私は、左手に何を握っていたのだったか。




 いや、もう、どうでもいい。




 私は、ありったけの魔力を集めた手を振り上げ――――




「おい、リリー!やめ……ッ!」


 魔女の声がして、そちらを振り返る。

 魔女を玄関に置いてきたことをすっかり忘れていた。

 ようやく追いついたらしい魔女は、まるで化け物でも見るような目でこちらを凝視している。


 ここの大人たちといい魔女といい、年頃の女の子に向ける目ではない。

 本当に失礼だと思うけれど、今は言わないでおこう。


 もし、魔女が止めてくれなかったら――――私は怒りの感情のままに、孤児院を消し飛ばしていただろうから。


「帝都に戻りましょう。アレックス君がいないなら、もうここに用はないわ」

「……いいのか?」

「私は、宮廷魔術師になるんでしょう?」

「そう……だな。そう、だった」

「ふふ、変なお師匠様。式まであまり時間がないから、時間は大切にしないとね」

「ああ、そうだな……そのとおりだ」


 珍しく、魔女が私に笑いかける。

 魔女はこんなに笑顔が下手だったのか。

 こんなザマで、よく宮廷で勢力争いなんてやってこれたものだ。


「宮廷魔術師は国内の治安維持も仕事だったはずよね。忙しいお師匠様に代わって、私がその役をやることにするわ」

「ああ……。それは、助かるな」

「そうでしょう」


 通りすがりに壊れた蓄音機を粉々に破壊すると、私と魔女は荒れ果てた孤児院の事務室から外へ向かって歩き出した。

 宮廷魔術師になれば、席次によって貴族と同等の権力が与えられる。

 その権力は、これからきっと役に立つ。

 もちろん、私にとっての本命は彼を探すことだけど、彼を探すついでにこの国を浄化してまわることにしよう。

 彼を見つけた後、もう一度彼をさらわれては意味がないのだから。


 ふと、いつか宿舎の年下の子から向けられた目を思い出した。

 なにか悪いことをしようとした子が、この宿舎で悪いことをするとどうなるか、知らされたときの目。

 恐怖で縛るのは悪いことだというけれど、物事を理解できない愚か者はやっぱり恐怖で抑え付けるのが手っ取り早い。


(決めた……)


 私は、悪い奴に恐怖される存在になろう。


 悪い奴が、二度と悪いことをする気にならないように。

 悪い奴が、二度と彼をさらっていかないように。


 結局、私がなまはげ役をやらないとダメなのだ。


 悪い子はいねがー、ってね。






 どれだけ懺悔したって、奴隷商は皆殺しにするけれど。



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